アナキズムとコミュニズムはなにが違うのか?

この前、レーニンの『国家と革命』の在庫がないか本屋の検索端末を調べていたら隣を警察が通って、ほんの少し動揺した。警察を消し去るべきという主張の本を探している人の存在を、警察官はどう思うのだろう?

まぁ警察官はそんなことは気にせず通り過ぎていったのだが。小市民の自意識過剰ぶりに、自分が可笑しくなった。

しかし、レーニンが国家を嫌っているのはどういうわけか? レーニンは共産主義者ということになっている。共産主義という言葉で世間が抱くイメージは「国家共産主義」であって、共産党の一党独裁だ。実際、レーニンは強大な国家権力を握ったわけだ。

しかし、これはレーニンから言われせればあくまで理想的な社会へ至るための途中段階に過ぎない。共産主義者が理想とするのは国家も階級格差も存在せず、労働者が民主的に自分たちの組織を管理する社会だ。

ユートピアに到達するためには、まずは今の社会を暴力革命でぶっ壊す必要がある。その後は混乱が予想されるので一旦暫定的に共産党が独裁政権を敷き、マルクス主義に通暁した善意溢れる指導者(例えば毛沢東とかスターリンとか)によって国家がコントロールされなければならない。準備が整えば国家は解体されユートピアへ移行する‥これが共産主義者のロードマップだ。

歴史を振り返れば、このロードマップが有効だとは信じがたい。実際は官僚制と腐敗と混乱だった(まぁこれは資本主義社会でも起きてることだけどね)。

現代日本の共産主義の聖典は斉藤幸平が書いた『人新生の「資本論」』なわけだが、これは毛沢東とスターリンの反省をある程度生かして、新しい方法を提示している。古典的共産主義が上からの革命だったのが、ネオ共産主義は下からの革命だ。つまり、暴力革命という回り道をすることなく、直接、労働者が自由に自分達を組織すれば良くね?という主張だ。

そうなってくるとアナキズムとの境目がますますわからなくなる。アナキズムも基本的には下からの革命を標榜する思想なわけだ。勝手に組織を作って自分たちで勝手にやってやろうぜ!と、アナキストは考えているっぽい。

斉藤幸平は国家を解体するべきかどうかみたいな話には、あえて触れていなかった。ただでさえ論争を呼ぶマルクスを穢土転生してきたのだから、これ以上トラブルの種を増やしたくなかったのだと思う。彼がどのように考えているのかは知らないけど、たぶん国家には国家の役割があると考えているのではないだろうか。

古典的共産主義なら上からの革命で国家の廃絶を夢見るが、いまは少し後退して、下からの革命で国家と共存するというビジョンを描いているのかもしれない(斉藤幸平を現代の共産主義の代表とみなすのは、アレなんだけれど)。

一方で、アナキストは国家を不要とみなしている。そして、下からの革命で国家の廃絶を目指している。まぁ、兄弟みたいなものだけれど、微妙に違う。

そもそもコミュニズムもアナキズムも一枚岩ではないわけだし、名乗ったもん勝ちみたいなところはある。その違いを定義しようとあれこれ議論すると、ヴィトゲンシュタインがシュバってきそうだ。

僕が思うコミュニズムとアナキズムの違いは、ロードマップを描くか描かないかの違いだと思う。

アナキズムはロードマップを描かずに「ラフにいこうぜ!」というスタンスだ。旅行に行くときに1個しか予定を入れないタイプで、誰かが遅刻してきても、笑って予定を変更してくれる。

一方、共産主義は分刻みで予定を立てる。遅刻者が出たり、交通機関に遅れが出ればカリカリし始めるようなタイプだ。

このように考えれば、2つの違いが明確だ。あなたはどっちだろうか?

僕は完全にアナキズムタイプだね。計画嫌いだし。偶発的にみんながそれぞれ行動している方が、あらかじめ決めつけられた計画に従うよりも楽しいし、創意工夫できる。社会だってそんな風にできたらいいのに‥と思わずにはいられないのだよ。

大きな思想には、ちっぽけな人間しか必要ない。
『戦争は女の顔をしていない』

さて、僕は今日もちっぽけな人間になって仕事をする。オフィスにはちっぽけな人間しか求められないからね。

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