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AIの歌を聴きたいか?

最近のAIはすごい。

僕が好きな歌を、僕が好きなシンガーがカバーしている音声を、AIが作ってくれたらしい。

僕はもう20年近くBUMP OF CHICKENのファンをやっているし、何度もライブに足を運んできた人だ。それなりに思い入れもあるし、耳も肥えていると思われる。

それでも動画をみてみると「あ、これ藤原基央だわ」と感じた。

囁くような歌い方や、こぶしの効かせ方、高音の張り上げ方なども、そこそこ再現されているし、なにより初音ミクのような「あ、これ機械だな」感がない。

どういうツールでどんな手法で作ったのかは知らないが、正直すごい

もちろん、100%再現できているというわけでもなく、「本人ならもう少しエモーショナルに歌うだろうなぁ」という感覚はあったし、ビブラートも適当だ。ただし、カラオケでそろそろ帰りたくなってきたときの藤原基央というレベルだし、許容範囲内だと思う。

それに、この些細な不満も「AIカバーです」と初めに聞かされているから感じたことであって、「ラジオでカバーしました」と言われていたなら信じ切っていたかもしれない。

とまぁ、それなりのファンを自称する僕も、それなりに似ていると感じたわけだし、他のファンも同様だろうか、と思ってコメント欄を見てみた。

すると、思いの外、批判コメントがあった。

「こんなの藤くんじゃない」
「ぜんぜん似ていない」
「モノマネ」

ざっとみた感じ2〜3割くらいは批判だろうか。

いや、気持ちはわかる。よく聴けば細かいところは似ていないのだ。しかし、本人でもそれくらいの揺らぎはあるだろうし、全体としてはかなり似ている。別にそこまで否定しなくても、素直に認めればいいじゃん、と思わずにはいられなかった。

だが、彼らはそう感じなかった。頑なに拒否するその姿勢をみていると、おそらく、彼らが欲しているのはもっと似ているAIではない。精度をどれだけ上げようが彼らが認めることはないのではないだろうか。

彼らが求めているのは「藤原基央が歌っている」という情報なのだ。

僕たちは普段から音声情報だけを頼りに、曲を聴いているわけではない。好きなシンガーが歌っているという情報や、TikTokでバズっているという情報、自分がそのシンガーをずっと聴いてきたという過去などを、実際の歌声に投影することで趣を感じている。

「アーティストは半分しか制作せず、鑑賞者がもう半分を制作する」というのは、アーティスト側のリップサービスではなく、本当の話なのだ。

これは食という領域でも同じだろう。僕たちは化学的な成分だけを頼りに食を評価しているわけではない。

この前、何かのテレビ番組で串カツ屋の「創業時から継ぎ足しているタレ」にどれだけ創業時のタレが含まれているかという計算が行われていた。その結果といえば、「1分子たりとも含まれていない」というものだった。

では、「創業時から継ぎ足しているタレ」という情報に価値がないのかと言えばそんなことはない。これからもその店は同じキャッチコピーを掲げ続けるだろう。

むしろ、価値があるからこそ、その検証が行われていたと言える。僕たちが本当に化学的成分だけで料理を味わっているのなら、そもそも「創業時から継手しているタレ」という情報自体が不要だったはずだ。代わりにアミノ酸の化学式をいくつか用意しておけば事足りる。

そう考えれば『芸能人格付けチェック』は極めて的外れな番組だろう。注意して耳を傾ければプロとアマの演奏は聴き分けられるだろうが、そんなことをする意味はない。なにより大切なのは「有名なバイオリニストが演奏している」という情報なのだ。情報がないまま音楽を聴くのは、スープなしでラーメンを食うようなものだろう。

もちろん、有名なバイオリニストは技術も卓越しているが、間違いなく無名で世界一うまいバイオリニストの演奏よりも、藤原基央が即席でバイオリンを演奏したときの方が股間にシミを作るリスナーは多い。

ところが僕たちは情報で鑑賞しているという事実を認めたがらない。どこかに客観的で、科学に裏打ちされた根拠を求める。「誰々の歌声は1/fゆらぎがある」とかそういった根拠をもってして、「ほらやっぱり誰々の歌はすごいんだ!」と言いたがる。

これは無宗教教とも揶揄される現代人特有の思考方式ではないだろうか。無根拠の信仰を持っていることを認めたがらず、客観的で確実なものだけを信じている実質主義を装うのが無宗教教の特徴なわけだが、その教義に徹底的に従うならば、音楽のような「好き嫌い」の領域においてすら実質主義を装うようになる。

絶賛コメントの中には、興味深いものがあった。あまりにもAIが似ていることから藤原基央の失業を心配しているコメントだ(冗談半分だと思うが)。

確かに、僕たちが本当に音声情報だけを味わっているのであれば、藤原基央の歌声を完全再現するAIが登場すれば、シンガー藤原基央の仕事は代替される。

だが、当たり前だがそんなことにはならない。藤原基央は「藤原基央が歌っている」という情報を楽曲に付与できる、世界でただ1人の人物だ。その情報を求めるリスナーがいる限り、彼が失業することはない。

となると、次は当然の如く、AIによるカバーには全く意味がないのか?という疑問が思い浮かんでくる。この疑問に関しては、次のように答えるほかあるまい。

今が正念場だと。

初音ミクは上手くやった。合成音声と初音ミクという偶像を組み合わせ、「初音ミクが歌っている」という新しい情報の文脈を作り出すことに成功した。

ではAIによるモノマネはどうかと言えば、完全に新しい偶像を作るでもなく、本人というわけでもなく、どっちつかずの存在だ。不気味の谷的な現象が起きても不思議ではない。

しかし、このどっちつかずの感覚が、また趣を感じられないだろうか。『サイバーパンク2077』というゲームでは、ジョニーシルバーハントという伝説のロッカーボーイの記憶をデータ化した人格と共に物語を進めていくわけだが、あの感覚に近い。

実際には本人ではない。完全な機械とも感じられない。この世とあの世の境目にある幽玄。これはこれで趣があっていい。先ほどの動画を僕はもう10回くらいみているわけだが、少しエモさがない歌い方すらも、味わいだと感じるようになってきた。

権利関係などクリアしなければならない問題はあるものの、AIカバーという1つのジャンルとして確立できるポテンシャルは感じる。本人公認でアルバムを出したりする営みがもっと続いていけば、面白い市場が生まれてくるのではないだろうか。

おそらく最も迷惑を被るのは音声をモノマネされまくるベテランではなく、新人アーティストだろう。人には2つの耳しかついていない。ベテランが歌い、死んだアーティストのコピーも出回れば、新人の曲を聴く耳はどんどん奪われていくはずだ。もちろん「新人」という情報を欲しがる層は一定数存在するので、ニーズがなくなることはないだろうが、苦しい立場に追いやられるだろう。

僕は別に音楽業界の未来を予測して悦に入りたいわけではない。単にもっとAIによるカバーを聴いてみたいと思っただけである。

AIを散々こき下ろしてきた僕だが、おもちゃとしては面白い。というかおもちゃ以外に使い道はないと思う。

いい時代になったものだ。ほんの少しはね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!