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バカ正直に本を読む

最近の読書家界隈に流布する言説の1つに「本は最初から最後まで順番に読む必要はない」といったものがある。その根拠は「大事な部分だけ読めばいい」とか「どうせ全部読んでも覚えていない」とか「誰かの書いた要約を読めばいい」とか様々であるにせよ、ともかくおおよそのコンセンサスが存在するように見える。これは一般的な「本は最初から最後まで読まねば!」という感覚に対する逆張りとして登場してきたものの、もはや読書家界隈ではスタンダードと化している。

僕は読書家と呼ばれる部類に入る人間だと思うが、この新しいスタンダードには実は同意していない。一度試してはみた。けれどもやっぱりなんともしっくりこなかった。

なぜ、しっくりこなかったのかといえば、「最初から最後まで読んだ!」という感覚がなければ、その本に対する愛を感じられなかったからだ。つまみ食いのようなワンナイトラブの相手のことを心の底から愛せないのと同じである。

もちろん、本に対する愛など必要なく、単に重要な情報を得られればそれでいいという反論が即座に返ってくることが予想される。だが僕は、なんらかの情報を得て自分の中で解釈しなおすという読書のプロセスを完成させるには、一定以上の愛が必要であると考えている。これはあくまで僕の経験則であるが、他の人にも当てはまるのではないだろうか。

本は読み終えて終わりではない。なんらかの解釈を書いたり、話したり、あるいは頭の中に思い浮かべるというプロセスも読書の一部である(むしろ、その最後の総仕上げがなければ、読書は「ふ〜ん‥ほい読了!」という御朱印巡りのような体験に成り下がる)。しかし、総仕上げにはそれなりのエネルギーがいる。読んでいない時でもその本についてぼんやり考え続けていなければならないのだから。そこに愛がなければ、人はそんなことをしない。

愛を育むには一定のコミットが必要である。愛があるから対象に時間を費やすという側面もあるにはあるが、対象に時間を費やしたからこそ愛が生まれることの方が多い。つまり本に手っ取り早く愛を感じるためには、最初から最後まで読めばいいのだ。

これは著者に対する歩み寄りでもある。つまみ食いのような読書は、明らかに本の著者にとっては本意ではないはずだ。この順番で読んでほしいと思ったから、その順番で書いているわけだ。「ほう、お前はこの順番で読んでほしいのか‥仕方ないなぁ‥」とお節介を焼くような気持ちで読むことは、愛を育む上で役立つ。

それだけではなく、知らないことを知る上でも1から順に読むことは効果的だ。つまみ読みをやってみたらわかるが、単語やワンセンテンスを適当に拾い上げて自分が知っていることに強引に解釈してわかった気になることの方が多い。そうなれば、読書としてあまり意味のない体験になってしまうのだ。それは自分が知っている筋書きを自分の中の劇場で演じるだけのオナニーである。

もちろん、情報を順番通りに体験していくことは、100%著者の意図を理解することを意味しない。どのみちそんなものはわからないのである。だが少なくともそれに近づくことはできるし、知らないことを知る可能性は高まる。

なんやかんやといったが、僕は結局のところ読書という体験を愛しているのである。短い時間で効率的に情報を得なければならないと焦燥感に駆られながらページを巡っているわけではない。効率度外視でノリで読書をしているのである。

別に他人の読み方にイチャモンをつける気はないが、バカ正直に全部読むというあり方は、それなりに根拠があるものなのだ。

だから僕は今日も本を読む。ここ1ヶ月くらいずっと同じ本を読んでいる。『存在と時間』長いんだよクソが。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!