『アバター』は環境保護のメッセージになり得ない

今更ながらアバターの続編が公開されるらしいね。僕はエンタメとしてあの映画が好きなんだけれども、道徳的には擁護しづらい映画だなぁとひしひし感じている。

なぜなら現実の僕たちの暮らしは侵略者側の立場に依存するものでありながら、映画では侵略される側に感情移入させられるからだ。

この映画を観た人は「金儲けのために原住民の暮らす森を破壊するなんてかわいそう」という感想を抱かざるを得ない。そして同時に「これは自分たちとは無関係でああり、植民地時代の悲しい歴史を批判した映画だ」という、いわば部外者としての目線で観てしまう。「世の中には、酷いことをする奴もいるんだなぁ‥」というわけだ。

実際のところ、僕たちが消費する大豆やパーム油、それを喰う家畜はインドネシアやアマゾンの熱帯雨林の破壊した上で作られているかどうか、僕は知らない。だが、そうでないと言い切ることはできないくらいに、そのプロセスは企業PRで巧妙に隠蔽されたブラックボックスになっている。

もちろん、熱帯雨林が破壊されていたとしても、僕は悪くない。だって企業が勝手にやっていることだから。そして、企業は株主に責任をなすりつけ、株主は企業になすりつける。僕はただ、安い食品が欲しい。それだけ。

ジェームズキャメロンはグローバル企業を批判したいのか、株主を批判したいのか、消費者を批判したいのか、システムそのものを批判したいのかは知らないけれど、結局どの観点から見ても中途半端な仕事をした言わざるを得ない。

一体この映画を観て、誰が何を変えるというのだろうか?

結局のことろ、社会的なメッセージを発信しているというイメージを資本主義のステージに載せて、それが消費される商品になるわけだ。そして相変わらず馬鹿馬鹿しい続編を作って、資本主義のダンスを踊りつづける。

そして僕たちは続編を観る費用を捻出するためは、持続可能な飼育をされた烏骨鶏を食う代わりに、熱帯雨林の破壊に依存したブロイラーを食わざるを得ない。烏骨鶏を食うには? 安いパーム油で作った洗剤を、ブランディングして高く売りつけるしかないね。

原住民の殺戮を目的化したマッチョな軍人は、ある意味で道徳的な存在だ。全責任を自分の欲望に集約し、全てのヘイトを集めるからだ。おかげで僕たちはプラトニックな立場でいられる。

つまりこんな映画は、むしろ逆効果だね。でも僕はたぶん続編を観に行くだろうなぁ。アバター、面白いんだもの。

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