性格診断が性格を生み出す

性格なるものは、その人の変え難い性質を表すと考えられていることが多い。それが本当かどうかはわからない。

僕はどちらかというと、自分には特定の性格なるものが存在すると思い込むことで、自分の性格に沿った一貫性のある行動を取るようになるのではないかと感じている。

つまり、あらかじめ存在する性格→行動ではなく、性格の形成→行動という順序なのではないかと感じている。

人は一貫性のないものを理解することはできない。どんなものにでも一貫性を見出し、理解しようとしてしまう。

「インド人と中国人はがめついよ」と、この前、友達が言っていた。

その友達が知っている中国人とインド人は、どれだけ多く見積もってもせいぜい30人といったところか。

インド人と中国人は合わせれば30億人近くいるわけだから、母集団30億に対しサンプル数30だ。

どう考えてもたった1億分の1のサンプルを抽出しただけで全てのインド人と中国人を網羅する一貫性を見出すことはできないはずなのに、それだけ一貫性を見出したいという欲望は抗い難いものなのだろうか。

だから「自分」というものにも一貫性を見出さずにはいられない。自分はどんな人間なのか?の答えを人は求め続ける。

そして性格診断にたどり着く。たいていあれは自己分析なのだから、自分の願望が反映されるものだ。自分が思う「自分」の性格を診断して、それを見てさらに自分の性格の一貫性について確信を深めていく。そんなメカニズムが働いているのではないだろうか。

僕はINFPらしい、ということをたしか数年前に診断した。

内向的で、論理よりも感情で‥うんたらかんたらと診断されて、僕はなんだか安心したのを覚えている。僕は僕が思うような人間だったんだと。

改めて考えれば当たり前だ。自分で解答しているのだから。

このように考えればアドラーの言うことにも納得感が生まれてくる。アドラーは変え難い性格のようなものを否定した。つまりどのような人間にでもなれると言った。たぶんその通りだと思う。そう信じることができたならね。

残念ながらアドラーの言うことを信じない人は、それを実践することができず、結果アドラーが間違っていることを証明してしまう。信じれば本当になるんだけどね。

だんだん宗教じみてきた。でも改めて考えれば、性格なるものを信じたり、一貫性なるものを信じる方が、もしかしたら宗教じみているのかもしれない。

宗教とは、説明なのだ。この世界のことを神で説明しようが、コースの定理で説明しようが、性格で説明しようが、それは程度の差こそあれ宗教じみている。

辛うじて科学は再現性という差別化点を持ち込んでいるが、まぁあまり信じすぎると宗教じみてくるよね。

確かなものは何もないと誰もが口にするけれど、誰も理解していないらしい。まったく人間ってやつは、これだから困る。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!