見出し画像

金と女の道徳を捨てよう

ひょんなことからおっさんの集いに行った。

31歳。自分もおっさんになってきた中で、同世代の人たちはもうおっさんのノリで生きている。

ビールをお酌して、健康の話と子供の話で場を繋ぎ、たまに宴会芸に勤しみ、一本締めで終える。そのまま二次会へ。そんなノリ。

おっさんと話すのは疲れる。つまらん話はつまらん。僕は1人の人とじっくり時間をかけて話をする方が好きなのかもしれない。あるいは、本音でぶつかり合いたいのかもしれない。

残念ながら一般的な用法の本音には建前が潜んでいる。金が欲しくて女の子をファックしたいという建前だ。普段はそういう欲求を隠していながら礼儀正しく振る舞っているけれど、酒を飲めば欲望を丸出しにする‥そんな建前だ。

だから、酒を飲んで、こそこそと金儲けの話をして、女の子のいるお店に行ったりする。これはおっさんの世界では極めて道徳的だ。普通のサラリーマンは20代のうちにおっさんの道徳を叩き込まれる。初めはぎこちなく振る舞っていても30代になる頃には道徳を完全に内面化し、お行儀良くツーショットキャバクラでお姉ちゃんの乳を吸ったりする。

一方で僕は金銭欲や性欲に自分の動機を還元することはできないと感じる。お金は欲しいけど別にそんなに欲しくない。女の子はファックしたいけど別にそんなにしたくない。僕にとっては小説を読むこととか、家族と遊ぶこととか、初めての料理に挑戦するとか、畑をいじるとか、文章を書くこととか、楽器を弾くこととか、そういう欲望の方が大きい。こういう僕の態度は、他のおっさんからすれば非道徳的に見えるだろう。

僕は変わっている自慢とか、金に興味がない自慢をしたいわけではない。恐らく僕の欲望はそこまで特別ではなく、誰しもが似たような欲望を持っているはずだ。ただ、金と女的な道徳に覆われて見えなくなっているだけだろう。

僕は道徳という言葉を変な意味で使っているように見えるかもしれないが僕は道徳を「特定の集団の中で、望ましく、かつ当然であるとみなされる思考様式や行動様式」と定義する。そう考えれば、別に変な意味では使っていないことが明らかだと思う。

人はついつい道徳に従ってしまう。優しいからだ。初めての社交場で、辺りをキョロキョロ見ながら、正解となる振る舞いを恐る恐る探り当てる人はどこにでもいる。僕はそういう雰囲気をおちょくりたくて、不正解をズドンと貫いてみたくなる。

これはコード化されない自由な欲望なのか、それとも逆張りというまた別の道徳的コードに従っているだけなのか、僕にはわからない。自分の内面が自由であることを疑う人がいないように、僕だって疑わない。

「自由であるべき」という道徳からも解放されればいいと思う。そんな風に考えていればもうわけわかめだが、そろそろ思考停止しよう。おっぱいのことでも考えるわ。

この記事が参加している募集

この経験に学べ

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!