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クソリプのジレンマ【雑記】

誰もが知っている。クソリプはウザい。だから人はクソリプ避けを自らの文章に施す。

「私の意見に対しては、Aという批判も考えられますが、Bという観点を考慮すれば、妥当ではないでしょう」
「Cという反論も、Dという側面から無効だと考えられます」

クソリプ避けを施す人物は、ある意味でユートピア主義者である。彼はクソリプ避けを施すことで、本来ならクソリプを送ってくるであろう「クソリプ主」たちが、次のような反応を示すことを期待している。

「なんてこった! あなたの言う通りだ! 私はずっと間違っていた! これからはあなたの意見‥つまり真実に則って人生をやり直すことにしよう!」

もちろん、このような反応が観察されたことは有史以来一度もないことは、すべての歴史家による共通見解である。一度も観察されたことのない事態を期待して行動する者のことをユートピア主義者と呼ばずして、なんと呼べばいいのだろう。

さて、実際のところクソリプ主たちはどんな反応を示すのだろうか。それは大きく2つのパターンに分けられる。

■パターン1
読まない

これは頭に血がのぼりやすいクソリプ主に見られる傾向である。クソリプ避けをズカズカと踏み抜き、クソリプ主は(先ほどの例でいうところの)AまたはCという反論を行う。つまりBやDは読まれない。

これはいわゆる見出しだけ読んで批判するタイプのクソリプ主である。

彼らに対して「いやいや、すでにBやDという反論を行っていますよ?」などと反論したところで無駄である。「誤解させるような書き方が悪い」などという論点ずらしを行うか、それすらも無視してNPCのようにAまたはCを繰り返すことになるのだから。


■パターン2
無視する

パターン1ほどに理不尽ではないタイプのクソリプ主は、BやDというクソリプ避けを見た途端、心のどこかで悟ることになる。「深追いすれば痛い目を見る」と。もちろん本人は明確にそのように自覚することはない。が、本能的に危機を察知したクソリプ主は、クソリプ避けを、もともとの言論ごと回避する。つまり、何事もなかったかのように無視するのだ。

もちろん彼が論破されたという実感を抱くことはない。彼の自己認識では、単につまらない議論に首を突っ込まなかっただけであり、敗北も勝利もない。つまり、議論によって彼が意見を改めるような事態は起きない。


いずれにせよクソリプ避けが期待された効果を発揮することはあり得ない。では僕たちはどうすればいいのだろうか?

根本的なところから考えよう。たとえば僕がクソリプを呼び寄せるような主張をするなら、僕はクソリプ主のような人々の考えを改めさせたいと考えている。なぜなら、そうでないなら、わざわざ主張する必要がないからだ。

考えを改めさせるのに必要なプロセスは次のようなものだと考えられる。

①自分の主張の存在に気づかせる
②自分の主張に興味を持たせる
③自分の主張の内容を理解させる
④自分の主張の内容を納得させる

さて、先ほどのクソリプ主たちが4段階のどこに位置するのかを考えてみよう。

読まないタイプのクソリプ主なら、①と②まではクリアしている。しかし③と④には到達しない。

一方で、無視するタイプのクソリプ主は①をクリアしたものの②をクリアできない。若干③に足を踏み入れてはいるものの、危険を察知した段階で引き返し、②も通り越えて、①のレベルまで帰ってくるのだ。

さて、それではクソリプ避け施さずに、シンプルにクソリプが送られてきた場合はどうだろうか?

当然、①と②はクリアしている。そして③と④はクリアできない。つまり、クソリプ避けを施したときに無視するタイプのクソリプ主が示す反応と同じなのだ。

するとなにが起きるだろうか? クソリプ避けを施した場合は、クソリプ主は②に到達するパターン1と、①で止まるパターン2に分かれる。一方、クソリプ避けを施さなかった場合は、クソリプ主は全員②に到達する。

ここから導き出される結論は次のようなものになる。

クソリプ避けは、施さない方がマシ。

なんというジレンマだろうか。クソリプ避けを施せば、なんらかの主張を行い、誰かの意見を改めたいという本来の目的を邪魔してしまうのである。

パターン2のように無視されるくらいなら、全員からクソリプを受け取るほうがまだマシなのだ。なぜなら、そうすることでより話題になり、多くの人にリーチする可能性が高まるからだ(もっとも、いずれにせよ④まだ到達することはないのだが)。

さて、これを読んでいる人の大半は、僕が「読解力って大事だよね」「国語能力を育てないとダメだよね」という新井紀子のような結論でこの文章を締めくくろうとしているのだと予感していることだろう。だが、僕は別の結論へと向かおうとしている。

クソリプ関連の議論をすると、読解力の話題に至ることが常である。しかし僕は問題の根本は読解力ではないと考えている。

クソリプ主に本当に欠けているのは、読解力ではない。優しさである。

よくよくクソリプ主の反応を観察してほしい。相手の意見を読めない(can't)のではなく、読まない(don't)だとは思わないだろうか? クソリプ避けを読んで理解していないのではなく、はじめから読む必要すらないと言われているような印象はないだろうか? 自分の意見こそが正しいのだから、反対意見を持つ人はそもそも気狂いであり、彼らがなにを言おうが耳を貸す必要すらないとクソリプ主たちは言っていないだろうか?

一方で、優しさを持つ人は知っている。

自分と異なる意見を持つ人々が気狂いではないこと。

論理的に考えても自分と異なる意見に至る可能性が存在すること。

自分が誤っている可能性が存在すること。

自分が意見を改める事態に陥ったとしても自分の尊厳が傷つけられるわけではないこと。

むしろ問題の源泉を読解力に求める姿勢こそ、相手が気狂いであると決めつける不寛容さ…つまり優しさの欠如の初歩的なバージョンのような気すらする。

まとめよう。僕の結論は「優しさが大事」である。「読解力が大事」よりも陳腐な結論に至ったという印象は拭えない。だが、陳腐であることは、その主張が誤っている根拠にはならない(「人を殺してはダメ」は陳腐であるが、誤りだとは思わない)。

自分で「クソリプ避けはやらない方がいい」なんて言っておきながら、「人を殺してはダメ」というくだりは、クソリプ避けに見える。

だが、僕は優しさが大事と結論づけたのである。優しさを受け取るには、相手の優しさを信頼する必要がある。クソリプ主たちも、きっと優しい人々である。だから僕はクソリプ避けを施したのではない。より立体的で、説得力のある議論を展開したいというポジティブな発想で、補足説明を行なったのである。

僕はクソリプ主を信じて頬を差し出してみる。一度や二度なら打たれても耐えられる。「黙っとけボケ」とキレるのは、その後でも遅くはない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!