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流されて生きていると、気持ちよく後悔できないんだよね


■気持ちいい後悔と気持ち悪い後悔

人のアドバイスを聞いたことによって後悔が生じたとき、「あいつのせいで…」と思わずにいることは難しい。もちろん、最終的に選択したのは自分であり、責任をとるのは自分なのだから、これは言いがかりである。

それでも、そんなことでチラリとでも心が休まることはない。「あいつが余計なことを言ったからだ」「なんであいつの言うことなんて聞いたんだ?」と、自責と他責の入り混じったドス黒い後悔に飲み込まれていくことになる。

時間が経つと忘れていくものだが、忘れない後悔もあるし、不意に思い出す後悔もある。そして思い出すたびに「あいつ」の顔が思い浮かび、ドス黒い後悔が再び巻き起こる。

そういう後悔を、僕は「気持ち悪い後悔」と呼んでいる。なぜ気持ち悪いのかと言えば、その行動を選択したことに後悔しているのではなく、人の意見を聞いたことに対して後悔しているからだ。つまり、実際の選択の是非について、真っ直ぐ向き合うことができない。これはあまり実りのある後悔だとは言えないだろう。

一方で、人の意見に流されず自分で決定して後悔することを、僕は「気持ちいい後悔」と呼んでいる。自分で決定したことなら後悔しても受け入れられるし、その選択についても、混じり気のない心で向き合える。「あぁしておけばよかった。でも仕方ないか」と。そして、次の選択につなげていくことが可能だ。

人生には無数の選択肢がある。どうせ何を選んでも多少は後悔するのだ。だったら、自分で選択して、気持ちよく後悔したい。どうせ後悔することをわかっているなら、後悔は怖くないのだ。


■正論でアドバイスされれば否定できない

そもそも選択肢Aと選択肢Bで迷っているようなときは大抵、「現実的なのはBなんだけど、気持ち的にはAがしたい」というケースが多い気がする。

つまり自分の中では答えが決まっているが、一歩を踏み出す勇気がないだけなのだ。それなのに、自分の中では「迷っている」と解釈するため、人に相談してしまう。相談すると、十中八九その人はアドバイスしてくれる。

アドバイスしたい人を探すことほど、簡単なことはない。何かについて悩んでいるとき、友達に、親に、恋人に相談してみると、即座になんらかのアドバイスが返ってくることだろう。

「将来のことが決まっていないなら、とりあえず大学いってみたら?」
「まだ、わからないんだから、とりあえず3年様子見てみたら?」
「一回言われた通りにやってみて、ダメならそのとき考えてみたら?」

大抵、人から受けるアドバイスとは正論であり、一般論だ(当たり前である。多くの人が受け入れていることが正論や一般論の定義なのだから)。そのため、本当にやりたい選択肢Aではなく、現実的な選択肢Bの方を薦められる可能性の方が高い。

お歳暮のような贈り物と同じで、人から受けるアドバイスは、一種の負い目として機能する。人からアドバイスを受けてその通りに行動しなかったら、その人に「なぜアドバイスを聞かなかったのか?」を説明しなければならないような気がしてくるからだ。もちろん、その人は「まぁ自分の人生やし、最終的に決めるのは自分やで」と言ってはくれるものの、それでも負い目を感じてしまうのは事実。だから、アドバイス通りに行動するように人は流されていく傾向にある。

そしてよほど強い意思で自己決定するのでない限り、普通は常識的な行動を取り続ける人生ができあがっていく。自分の意思で決定することなく、ただ周りに流されて、常識的な方向へ


■では、自分で考えるしかない?

しかし、先述の通り、アドバイスに流されると気持ち悪い後悔が生じる。もし気持ち悪い後悔から逃れたいなら、強い意志を持って自分の感情を信じて選択する必要がある。

「うるせー! 俺がこう思うからやるんだよ、クソが!」

という具合だ。

そもそも、「人にアドバイスを求めない」という選択肢も考えられる。アドバイスを求めたところでどうせ一般論しか返ってこないのだ。一般論は、人に聞かなくても自分でわかっている。

自分が思いつかないような選択肢を提示してくれるような人がいるならば相談は有益だ。だが、そんな人は100人に1人もいればいい方だろう。ならば、はじめから諦めて自分の中で徹底的に考えた方がいいかもしれない。


■自己決定の罠もある

僕はそんなふうに自己決定をすることを心がけて生きている。そのため人にアドバイスを求めることも少ない。

ただ、求めてもいないのにアドバイスしたがる人も一定数存在する。親や親戚のような人は特にその傾向が強いだろう。

彼らはまだ検討段階であっても、あれこれ口を出してくる。僕のように自己決定して生きると決め込んだ人間は、口を出されていると、ついついその逆に行きたくなってしまう。

Bだと言われれば言われるほどに、Aに行きたくなるし、Aを正当化する理屈を思いついたりするのだ。

そしてAに行き、後悔する。もしかしたらBの方がよかったかもしれないと感じてしまう。

そのとき僕は次のように感じる。

「あいつがAだと言うから、Bに行きたくなってしまったではないか! 自分1人で冷静に考えていたらAを選択していたかもしれないのに!」

これは自己決定しているように見えて、逆に意味で流されている。


■もう少し冷静に考えたい

自己決定しなさすぎるのもダメだし、自己決定に固執しすぎるのもよくない。自分の意見も、他人の意見も考慮しつつ、最終的に自分の感情と向き合うというフラットな姿勢こそが大切なのだろうか。

自分で書いていて気がついた。要するに僕は「他人の意見も大切にしつつ、最終的には自分で決めよう」と書いているのだ。清々しいほどに一般論であり、正論だ。

そして、そんなわかりきった一般論かつ正論を、noteで不特定多数に対して講釈を垂れているのである。ミイラ取りがミイラになるとは、まさしくこのことだ。

いけない、いけない。人の振り見て我が振り直せ、である。

みんなも気をつけようね!(ど正論)


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