シリアル・バックレイヤーになりたい

「それでは、どうして家出なんかしてみたい、とお考えになったのですか」
「何の不満もない生活に不満だからです」
寺山修司『家出のすすめ』

うっかり僕は社会に適合してしまった。本当は「ここではないどこか」に旅立ちたいというのに。

ドロップアウトには勇気がいる。現状を維持し続ける方が、大半の人にとっては楽なのだ。ドロップアウトできるというのは、一種の才能だと思う。

阿部公房『砂の女』で、砂の中に閉じ込められた主人公は、逃亡を夢見るという姿勢を維持したまま、逃亡のチャンスを意図的に見逃す(そして、そのまま少なくとも7年の時が経過している)。それだけ過酷な環境であろうが「習慣」は人間を惹きつけて止まないのだ。

そのように考えれば習慣の快適さに安住しながら、ここではないどこかを夢見るという、「寸止めプレイ」が人間の典型的な生活なのかもしれない。

それでも、永遠に寸止めを続けるのはつまらない。やはり僕は射精したい。

残念ながら、射精の後に賢者モードがやってくるように、「ここではないどこか」に辿り着いたとしても、すぐさまそこでの暮らしは習慣と化し、退屈なものになってしまうだろう。

ならば、退屈しないためには、また次の射精が必要だ。

ドロップアウトして、新しい習慣を楽しみ、退屈が訪れたら、またドロップアウトする。思えば筒井康隆の『旅のラゴス』はそんな話だった。『ラゴスの旅』ではなく『旅のラゴス』というタイトルがつけられているのは、ラゴスがラゴスであるためには、永遠に旅を続けなければならないということを暗示している。

その姿は、「シリアルアントプレナー(連続起業家)」ならぬ、「シリアスドロップアウター」だ。

残念ながら僕にはドロップアウトの勇気はない。ならば僕には「バックれる」くらいのラフな感じが丁度いいのかもしれない。

ドロップアウトは正面を切って秩序に悪態をつくが、バックれる人は真面目な顔で口笛でも吹きながら、やるべきことから逃げる。

職場で3時間の休憩時間をとるとか、親戚の集まりをブッチして金沢旅行に行くとか、そんな風に気づいたらいなくなる。そしてどうでもいい義務から解放されて、「ここではないどこか感」を味わうのだ。

バックれることに、真面目な理由はいらない。理由を言えば反論がやってきて、面と向かって口論する羽目になる。「いやぁ、お花に水やりをしてまして‥」とか「道に迷ってまして‥」とか適当なことを話せばいい。

僕みたいな真面目くんには、それくらいがちょうどいい。「シリアル・バックレイヤー」になろう。

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