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どんなブルシット・ジョブにだってやりがいはある

こと仕事や経済システムに対する提言や苦言に対しては、脊髄反射で自己責任論を持ち出す人が一定数存在する。「こんな仕事はブルシット・ジョブだ」とかなんとか文句を垂れると「どんな仕事にだってやりがいはある。文句を言う前に努力すべき」と返ってくるのだ。

もちろん、一理ある。延々と岩を無意味に持ち上げ続けているシーシュポスは、それはそれで幸せになったらしい。どんなクソみたいな仕事でもやっているうちに愛情は湧いてくる。石の上にも3年という心づもりで継続すれば、いつか幸福が訪れるのは間違いないだろう。

それでも、次のように問う意味は消えない。「無意味に岩を持ち上げる仕事で幸せになるよりも、誰かの役に立つ仕事をして幸せになったほうが良くないか?」と。

要するにブルシット・ジョブ論に対して「どんな仕事にだってやりがいはある。文句を言う前に努力すべき」と反論する人は、世の中に無意味な仕事が大量に存在することを認めている。そして、その無意味な営みに社会全体として大金が支払われていることや、たくさんの人の貴重な人生が費やされていることすら認めていて、あろうことかその現状を肯定しているのだ。

こんなことがあっていいものだろうか? 社会全体として膨大なリソースが無駄に費やされていて、そのことを幸福だと感じるまで苦行を積むというマゾヒズム的なシステムを「仕方ない」と考えることは、果たして合理的だろうか?

確かに、個人のレベルなら合理的だろう。わざわざ革命を起こすよりも、今のシステムの中で賢く振る舞って自分の取り分を確保しておいた方が楽なのは事実だ。しかし、それを他人に強制しようとするのは不合理だ。

なぜなら、今のシステムで賢く振る舞っていたとしても、違うシステムに変わった方が明らかに幸せだからだ。無意味な仕事でそこそこ金を稼いでNetflixを見る生活ができる経済システムよりも、意義のある仕事で金を稼いでNetflixを見る生活できる経済システムの方がいいに決まっている。

あるいは、どうせ無意味なことをするなら、無意味に大変なブルシット・ジョブをするよりも、パズドラでもやっていた方がいいだろう。延々パズドラで遊んでいる人にお小遣いをあげ続けるのと、ブルシット・ジョブに就く人に給料を払い続けるのは、前者の方が合理的と言える。なぜなら、前者の方が楽しいからだ。

どうすればそんな経済システムへと移行できるだろうか。ともかくベーシック・インカムなりなんなりの革命は必要だ。

そして革命は不満から生まれる。目の前で仕事の愚痴を言う人は、革命家の卵だ。彼は僕たちのために社会を変えようとしてくれるヒーローかもしれないのだ。

自分が革命にコミットするのは大変なのはわかる。だが、他人が勝手に革命に奉仕したり、革命に繋がる文句を垂れていることは、長い目で見たときにその人のメリットになるはずだ。ならば、わざわざ自己責任論で革命に蓋をしようとするのは、正気の沙汰とは思えない。

ブルシット・ジョブにだってやりがいはある。もちろんある。だが、やりがいがあることはブルシット・ジョブが存在していい理由にはならない。「仕事は我慢料」とかなんとか言って、ブルシット・ジョブを正当化する傾向もあるが、その状況自体がすでにイカれているのだ。

何度でも言う。僕たちはディストピアに住んでいる。ディストピア小説の登場人物は、誰も自分がディストピアに住んでいるとは思っていない。だが、無意味な仕事に心をすり減らしながら、その現状を肯定するように調教されている僕たちの社会と、『1984年』や『素晴らしい新世界』の社会を、縄文人に見比べさせてみれば大差ないと言うだろう。

社会に不満があるならぶち壊せ。あ、僕は陰から応援しているのでよろしく。

これが不満を垂れている人に対する正常な反応だと思う。

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