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自動で作るロボットと、自動で売るロボット

どっちの方が、必要とされているのだろうか?

営業職も、広告業界も、あれやこれやのマーケティング手法も、ブランディングについて講釈を垂れるコンサルも、はたまた政治家も、経済学者も、「どうすればモノが売れるか」を毎日考えている。

それに比べて「どうすれば質の良いモノが作れるか?」や「効率よく作れるか?」を考える人はあまり多くない。せいぜい「どうすれば売れるモノが作れるか?」だ。要は誰しもが「売ること」に悪戦苦闘している。

服が自動で作れるロボットが誕生したところで、きっと誰も喜ばない。なぜなら、そんな機械を導入するくらいなら、さっさとグローバルサウスから搾取した方が早いからだ。

誰も、自動で服を作るロボットを作ろうとしない。

精密に設計されたハイテクスニーカーであれ、現実には、知性をそなえたサイボーグとか自己複製する分子ナノテクノロジーによって生産されているわけではない。それらは、WTOやNAFTAの支援による貿易取引の結果、先祖伝来の土地から追放されたメキシコやインドネシアの農民の娘たちの手で、古典的なシンガーミシンのようなもので製造されているのだ。

デヴィッド・グレーバー『官僚制のユートピア』

そんなことよりも、「自動で売ること」の方が金になる。残念ながら自動的に飛び込み営業をしてウォーターサーバーを売ってくれるロボットも、駅前でフルーツを売って回るロボットも発明されることはなく、代わりに膨大なショッピングやSNSのデータを抽出してきて、どんな広告を表示すれば売れるのかを教えてくれるアルゴリズムに多くの情熱と資金が向かった。

どれくらいの情熱と資金が向かったのかはわからないけれど、同じくらいの情熱と資金を自動化ロボットの開発に向けていれば、今頃メキシコやインドネシアの娘たちを単純労働から解放できていただろう…と感じずにはいれないくらいの量が向かった。

アルゴリズムで僕たちの購買行動を予測する動きは、次第に僕たちを支配しコントロールしようとする動きへと進化していく。ケンブリッジ・アナリティカとか、胡散臭い会社がその動きをリードする。そういう危機感からショシャナ・ズホフのような人が『監視資本主義』といった大著を書いて、「データを民主化しよう!」とかなんとか言って、データ社会に対抗しようとする。

「そういう問題じゃないんだよなぁ…」と感じずにはいられない。僕は、そもそもなぜここまで「売ること」にばかりフォーカスが当たっているのか?を問いたい。

そもそもこのような帰結は、100年前から指摘されていることだった。マルクスの娘婿であるポール・ラファルグだって言っていた。

工場主どもは山積みされた商品の販路を求めて、世界中を駆けまわる。彼らは、自分の綿製品を売り捌くため、自国の政府に圧力をかけて、コンゴを合併し、トンキンを奪い、中国の城壁を大砲で破壊させる。

ポール・ラファルグ『怠ける権利』

現代では、ラファルグが指摘したような植民地主義の精神は(WTOやNAFTAのような連中によって)巧妙に隠蔽されている。その上で、アルゴリズムが城壁を破る大砲の変わりを務め始めた。

誰がどう見てもモノ余りの時代だ。世界では生産された食糧の3分の1が捨てられ、(ビルを倒壊させるほどに人を詰め込んで)製造された服の約半分が一度も着られることなく捨てられている。

それでも作ることと、売ることを辞められない。そして「モノを大切に使いましょうね〜」とか「持続可能な製法で作られたモノを買いましょうね〜」とか、そういう綺麗事でお茶を濁される。

イカれた経済システムの元に生きているのに、「イカれている」と指摘することができない。それをするのはもっと頭のイカれた共産主義者…というわけだ。そして「社会に不満があるなら自分を変えろ!」という自己責任論によって、マーケティングやデータサイエンスを勉強して、自動でモノを売ろうとする人々の群れが爆誕するのだ。まぁ気持ちはわからなくもない。

淡路島のコテージで海を眺めながら、Pythonでコードを書いたり、グーグルアナリティクスのグラフを眺めたりしながら、Uberでスタバのコーヒーを注文するライフスタイルには、正直ちょっと憧れる(淡路島にUberくるのかは知らんw)。

それでも僕は、「作ることをやめろよバカヤロウ」というシンプルな主張を止めないでいようと思う。確かに、この主張はずっと無視され続けてきた。だからといって有効でないわけではない。作ることをやめれば、世の中の大半の問題は解決する。残る問題は、富をどうやって再分配して、70億だが、80億の人が飢えずに済むか?だけだ。

それは知らん。「来たれ、新たな社会主義!」ってことでいいんじゃないだろうか。

(みすず書房はさっさとピケティの『資本とイデオロギー』の日本語版を出版してくれ)

最近、気づいたことがある。僕は皿洗いを自動化したくて食洗機を買い、洗濯を自動化したくて乾燥機を買い、掃除を自動化したくてルンバを買った。でも、結局のところ最近は自分の手でやっている。それくらいの時間はあるし、なんだかんだで家事は楽しいのだ。

必要な仕事は、楽しい。よくわからない労働に搾取されるのは、楽しくない。どんな自動化や、どんなテクノロジーが必要なのか、僕たちは真剣に考えた方がいいのかもしれない。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!