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マルク・レビンソン『コンテナ物語』を読んで

コンテナでいっぱいの港でフォークリフト講習を受けたこと。卸売業を装った物流業に就職したこと。グローバルサウスからの収奪について考えていたこと。

これらを考慮すれば『コンテナ物語』を読むことは避けられなかった。ビル・ゲイツのお気に入りの本であることはやや僕の意欲を削ぐけれど、彼の紹介文はなかなかに『コンテナ物語』を読む意欲を掻き立ててくれる。

二〇世紀後半、あるイノベーションが誕生し、全世界でビジネスのやり方を変えた。ソフトウェア産業の話ではない。それが起きたのは、海運業だ。おそらく大方の人があまり考えたことのないようなそのイノベーションは、あの輸送用のコンテナである。コンテナは、この夏私が読んだ最高におもしろい本『コンテナ物語』の主役を務めている。コンテナが世界を変えていく物語はじつに魅力的で、それだけでもこの本を読む十分な理由になる。そのうえこの本は、それと気づかないうちに、事業経営やイノベーションの役割についての固定観念に活を入れてくれるのである。

この本は良くも悪くもコンテナが世界を変えていった歴史を記述している。だが、著者のマルク・レビンソンは、基本的にコンテナリゼーションは「良いこと」だと考えているように見える。「良いこと」なのだから、それに反対してきた労働組合や官僚の群、業界のしきたりに固執する経営者、自由な経済を邪魔する環境保護活動家は、見下される傾向にある。

特にストライキに精を出す港湾労働者たちは、時代の流れに逆流する堅物扱いだ。コンテナリゼーションは明らかに効率がいい。しかし、効率の良さゆえに港湾労働者の仕事を奪う。一方で、新たな雇用も生まれる。それなのに港湾労働者は、パレットを一度バラしてもう一度積み替えるというドストエフスキーの拷問のような労働で時間を稼ぎ、自分たちの仕事が必要であることを主張する。これだけを読めば「労働塊の誤謬乙ww」と馬鹿にしたくなる気持ちはよくわかる。

だが、これは結果論に過ぎない(当時の学者は誰1人として、コンテナリゼーションの結果を予測できなかったのだ)。効率化しても絶対に自分の家族が路頭に迷わないという保障があるなら、誰だって喜んで効率化を受け入れるだろう。だが、自分の家族が路頭に迷うリスクを受け入れるくらいなら、組合運動に精を出して、ブルシットな二度手間仕事を甘んじて受け入れるのが、人情というものだ。

そういう意味でも、別の意味でも、僕がコンテナの歴史を読んだ後の印象は、著者とは真逆かもしれない。コンテナには、資本主義の悪いところがギュッと詰まっている。これが僕の感想だ。

コンテナによる物流は、その性質上、でっかい港、でっかい船、でっかいクレーン、大量のコンテナ、大量で単一の荷物を必要とする。そうしなければバラ積みの船と比較した時のコスト削減のメリットが生まれないからだ。でっかければ、でっかい程いい。

結果、スモールスタートはできない。つまり、巨大な負債が必要になる。そして、小さな港、小さな事業者は淘汰される他ない。

しかし、そのことを誰しもが理解したのは、世界初のコンテナ船が出航してから20年ほど経った後だったらしい。

港も、海運会社も、初めは慎重にジリジリと歩み寄った。しかし、イケると分かった途端、稲村亜美に群がる男子中学生のように、誰もが飛びつく。そして運輸サービスの過剰供給。過当競争。

それでも初期投資による負債を回収しなければならない。負債は、歴史が証明するようにインディアンを皆殺しにするほどのエネルギーを産む。幸い、コンテナリゼーションはインディアンを殺すことはなかったものの、世界経済のあり方を大きく変えた。

つまり、コンテナが経済に合わせたのではなく、経済がコンテナに合わせた

物流コストが下がれば、どこでモノを作っても良いことになる。あちこちから部品を集めて商品を作っても、大したコストにならなくなった。

人形のボディはアメリカから送られた型を使って中国の工場で生産するようになった。ただし工場の設備は日本製やヨーロッパ製だ。ナイロンの髪の毛は日本製、ボディに使う樹脂は台湾製、染料はアメリカ製、木綿の服は中国製である。バービーちゃんは、自分専用のサプライチェーンをグローバルに展開していると言えるだろう。

そして、モノづくりのあり方も大きく変わる。

かくして労働集約的な作業は、人件費の安い国で行うことが当たり前になる。とはいえ、人件費の安い国はいくらでもある。

さらに、コンテナは製造業におけるスケジュール管理も容易にした。在庫をおかず、必要な時間に必要な部品を下請けから納品させるトヨタのジャストインタイム方式は、コンテナが生み出したとも言える。

ロジスティクスが高度化すると在庫水準が下がることは、統計にも表れている。在庫はコストである。在庫を持つと、売上代金が入ってこないのに倉庫代や金利などを負担しなければならない。信頼できる物流システムがあれば、たとえはわメーカーは何週間、何カ月も前に部品を買い込んで無駄に倉庫の棚に眠らせておくのではなく、必要なタイミングで手に入れることができる。

マルクスっぽく言えば、資本があれこれと生き残りを賭けて、船やコンテナをパンパンにするために試行錯誤しているわけだ。今や1万以上のコンテナを運べる船なんてものもあるらしい。

『コンテナ物語』を読めば、コンテナリゼーションが大量生産、大量広告、大量廃棄社会の形成を後押ししていることは、もはや明らかだった。確かに僕たちのクローゼットをユニクロのセール品でパンパンにしたり、カロリーたっぷりの食事とダイエット食品の売れ行きを急増させたりすることに、コンテナは役立った。しかし、その負の側面も見逃すことはできない。

『コンテナ物語』を読んでから、街中でもコンテナがよく目に止まるようになった。最近はエココンテナと銘打ったコンテナがトラックに載せられて走っているのを見かける。しかし、エココンテナとはほとんど語義矛盾だ。コンテナそのものが大量生産、大量消費(と、必然的に生じる大量廃棄)、環境を犠牲にした莫大な設備投資を前提としているからだ。強姦魔がフェアトレードのコンドームをしっかり装着していることを誇っているような状況だと言える。

コンテナリゼーションは、また労使の関係性も変えてしまった。コンテナリゼーションが広まる前、港湾労働者たちは、給料は政治で決まると、誰しもが理解していた。しかし、人力の重要性が失われ、人々の労働がシステマチックに組織されていく『コンテナ物語』の後半に進むにつれて、ストライキの登場回数は一気に減った。

ストライキは概ね散々たる結果だった。稀に効率化の果実を労使が分かち合うケースもあり、それは良い結末を迎えたらしい。

機械化に対する港湾労働者の執拗な抵抗は、一つの原則を確立したように思われる。それは、仕事を奪うようなイノベーションを産業界が導入する場合は、労働者を人間的に扱うという原則である。

この、極めてカント的な道徳原則を守れば、労働者が効率化に反対することも少ないだろう。しかし、現実はそうではない。あれこれと存在する政府の規制も、お互いに利害が一致すれば早い。利害を度外視できる安心感が社会にあれば、意見調整という非効率もかなり削減できるのに‥と僕は感じずにはいられなかった。

結局、利潤追求のために、膨大な設備投資が行われて、その多くが無駄に生態系を破壊しただけの廃墟が生まれたのだ。計画経済を褒め称えるわけではないけれど、市場は万能ではなかった。

最近、港湾業の人に話を聞いたところによれば、船やコンテナのサイズは小さくなっているらしい。その理由はわからなかったけれど、スケールダウンしているのは良いことだ。世界にはものがすでにあふれているのだから。

コンテナ。この世界を良くも悪くも変えてしまった化け物。ビルゲイツ のような観点でみても、僕のような観点でみても、興味深い本なのではないだろうか。

久々に人に勧めたくなる実用書だった。いいよ。オススメよ。

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