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子どもによる「なんで?」攻撃に対する哲学的考察

「なんで、山は山なの?」
3歳の甥っ子から寄せられた質問

あなたならどのように答えるだろうか?


2歳yearも後半に差し掛かってきた我が息子は、絶賛「なんで?なんで?」期の真っ最中。3歳を少し過ぎたばかりの甥っ子も同様だ。

彼らの「なんで?」の使い方は実に多彩で、クリエイティビティに富んでいる。誰に教えてもらったわけでもないのに、彼らは「なんで?」を「質問」「詰問」「要求」「感嘆」など、さまざまな場面で使い分ける。

「なんでお菓子をくれないの?」はほとんど質問を装った要求であり、「なんで(歯磨きがママじゃなくて)パパなの?」は諦めが多分に含まれていて要求ではなく詰問だ。「(ちょうちょがとんでいるのは)なんでだろうねぇ」は、答えを切実に求めない印象から感嘆の度合いが強い

ただ、よくよく観察すると、どのパターンであっても「説明を求めている」という共通項がある。要求の場面では、その印象が薄いものの、「仮に要求が通らないのだとすれば、納得のいく説明をしろ」という解釈が可能だ。

ではなぜ、そもそも人はこんなにも説明を求めるのだろうか?

脳髄が紡ぎ出す直線的な論理の一貫性に対する盲目的崇拝(ベイトソン『精神と自然』より)」を、誰しもが子どもの頃から持っているのは、なぜだろうか?

この点に関してはベルクソンの意見が参考になる。ベルクソン曰く、仮に人間が理由や説明、一貫性のある論理を完全に放棄すれば、たどり着くのは「俺が何しても無駄だし、どうでもいいわ」というニヒリズムだ。

どういうことか? 

「自分が何かを行動すれば、何かを変えられる」と確信していなければ、人はそもそも何も行動する必要がない。望んだ結果を得るために、人は常に何かを行動する。

例えば、電気を点けるために、スイッチを押すといった行動だ。こういうシンプルな行動なら、望んだ通りの結果を得ることは容易い。

一方で、この世界には思い通りにならないことの方が多い。スイッチを入れても、停電になっていれば電気は点かない。

そのとき、理由によって説明をしなければ、圧倒的な無力感を覚え、人はニヒリズムに陥る。そうならないように、うまくいかないときですら、説明を要求するのだ。

つまり、説明とは…

発揮された発意と望まれた結果とのあいだに、知性によって生み出された、予見されざるものの意気阻喪させる余白の表象への自然の防御反応なのである。
ベルクソン『道徳と宗教の二つの源泉』

少し脱線するが、この観点で見た時、完全に説明可能なものこそが「自分の身体」という定義が可能になる。生まれたての赤ちゃんは自分の身体を認識していないが、徐々に完全に自分の意思によって反復可能な物体があることに気づく。子育てをしたことがある方なら、自分の手足を動かしながら驚いている様子を見たことがあるだろう。あれは、「まじか、思い通りに動くじゃんこれ!」の驚きなのだ。これは、國分功一郎も指摘していたことだ。

反復構造とはいっても、反復される事象の再現性には度合いがある。予測モデルが立てにくい、あるいは、予測モデルがしょっちゅう裏切られる現象もあれば、実に高い再現性を備えた現象もある。精巧な予測モデルを立てられる現象は、身近な現象と感じられるであろう。それは自分と地続きのように感じられる現象だからである。逆に、予測モデルが不安定であらざるをえない現象は、疎遠なものに感じられるだろう。場合によっては不気味なものと感じられるかもしれない。  すると、〈現象〉とそれを経験する〈自己〉という二項図式そのものを、予測モデルの再現性の度合いという考え方から再定義できることが分かる。どういうことかというと、自己と非自己の境界線そのものが、この度合いによって決められているのではないかということだ。おそらく、予測モデルが立てられる現象の中で、最も再現性の高い現象として経験され続けている何かが、自己の身体として立ち現れる。
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』

一方で、僕たちの説明や論理は完全ではない。これは多くの哲学者が言ってきたことだが、よくよく考えてみればすぐわかる。僕たちは、明日の朝に太陽が登ることすら確信できない。

十分な根拠とは、そのように見える根拠である。
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』
次に来る事実を前もって入手できるなどということはけっしてありえない。われわれに持つことができるのは、単純であってくれという願望だけなのだ。
ベイトソン『精神と自然』

つまり、僕たちは「なんで?」の答えを欲するが、「なんで?」の答えの確実さを欲するわけではなく、それは決して手に入れることはできない。

ただ、「なんで?」の答えが確実であるという願望や思い込みだけを持つ。「原理は少ない方がいい」というオッカムの剃刀は、単なる願望に過ぎないわけだ。

ただ、ベルクソンの考えに依れば、そのような願望を持つことには合理性がある。「こうすればこうなる」という自信を持つことは、生命が生き延びるために有効だったのだ。もしそれがないならば、全てが本能にプログラミングされている方がニューロンを節約できる。

さて、子どもが「なんで『なんで?』を求めるか?」に対しては、これで1つの答えを提示できたと思う。

今後子どもが「なんで?」と聞いてきた時には「それは脳髄が紡ぎ出す直線的な論理の一貫性に対する盲目的崇拝だよ」と教え諭すこともできる。

しかし、この説明では納得しない子どもも多いだろう。なぜなら、子どもにベルクソンやベイトソンは少し難しいからだ。

だったら、もう少し簡単に、子どもに教え諭す方法を考えてみよう。

例えば、冒頭に挙げた問い「山はなぜ山なのか?」といった問いだ。


ケース1 山はなぜ山なの?

このとき、最も愚かな行動は、「山」の定義を広辞苑から探し出してくることだ。

僕たちはあたかも言葉とは「定義してから使う」「定義しなければ使えない」と思い込んでいるが、実際はそうではない。言葉の使用方法とは、単なるライフスタイルであって、言葉の境界線は常に曖昧なのだ。

ここでまた、ヴィトゲンシュタインが良いことを言っている。例えば「ゲーム」という言葉がどのように使用されているかについて。

例えば、我々が「ゲーム」と呼ぶ事象について、一度考えてみてほしい。盤上のゲーム、カードゲーム、ボールを使うゲーム、格闘的なゲーム、などのことを言っているのだ。これらに共通するものは何か? –––––––「何か共通なものがあるに違いない、さもなければ「ゲーム」とは呼ばれない」と言ってはいけない–––––––そうでなく、それらに共通なものがあるかどうかを見たまえ。–––––––なぜなら、それらをよく眺めるなら、君が見るのはすべてに共通するような何かではなく、類似性、類縁性、しかもいくつもの種類の類縁性だからだ。(略)例えば盤上の様々のゲームと、それらの間の様々な類似性を見てみよ。そして次にカードゲームへと移ってみたまえ。そこで君は先の第一のグループとの対比をたくさん見出すが、共通の特徴の多くは消滅し、別の共通の特徴が姿を現す。
どこまでがゲームで、どこからはもうゲームでないのか? どこに境界があるのか君は述べられるのか? できはしない。境界を引くことはできる。なぜならまだいかなる境界も引かれていないのだから。(だが「ゲーム」という語を使ってきた中で、君はこのことを不満に思ったことはかつて一度としてなかった。)
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

最後のカッコ内、ヴィトゲンシュタインは冴えている。カッコの手前まで読んだ皮肉屋は、「いやいや、ゲームの定義はあるやろ」と心の中で反論するわけだが、カッコ内を読めば黙らざるを得ない。

つまり僕たちは、「ゲームとはこういうもの」と一言で定義することはできないし、定義不在で言葉を使うことに、何ら不満を抱いていないのだ。そこにあるのは、ゆるやかな類似性と類縁性(ヴィトゲンシュタイン用語で言えば、「家族的類似性」)だ。

だとすれば、山っぽい特徴をいくつかあげつらって、「総合的にみれば山だ」という説明をすることもできる。もっと大胆にいくなら、「人々が山と呼ぶから、山は山なのだ」という社会構成主義的な、ポストモダン風味な説明をしても良い。

ならば、「パパのちんちんは山だ」と人を納得させれば、それは山になるのか? と尋ねられればどう答えれば良いだろうか? 答えは「イエス」以外にあり得ない。誰しもがパパのちんちんが山であると納得すれば、それは山になる。

ただし、新しい実在論的(マルクス・ガブリエル的)な説明をするならば、山は周囲から浮き出ている特徴があって、それを僕たちが認識して名前をつけたから山なのだ‥という説明になる。つまりオブジェクトそのもの(つまり物自体)が持つ普遍的な特徴があり、それを人間が認識しているというわけだ(だから、ちんちんは山になり得ないという考えもあり得る)。

この言説はある意味で説得力はあるが、差異というのは所詮は僕たちの目線がぼやけているがために存在するに過ぎず、どこからどこまでを切り取るかは恣意的にならざるを得ない。ならば、それは社会的な同意によってしか生まれないという考えの方が、優位であるように感じる。「山」は「山」とカテゴライズされる必然性は無い。

この辺りで少し、状況整理が必要であるように感じる。子どもが話題にしているのは、物自体としての山なのか、それとも社会的構築物としての山なのか。

仮に後者なのであれば、「みんながそう呼ぶから山なのだ」という説明で十分だろう。だが、そうではなく、物自体としての山を扱った言説なのであれば、話は少し変わってくる。

要するに「物質としての山が、なぜいま我々の目の前に存在するのか?」という問いなのであれば、違った回答が必要だ。

ここで「物質とは何なのか?」をショーペンハウアーを参考にしつつ、考えてみよう。

ショーペンハウアーが言うことには‥

物質とは、徹頭徹尾、因果性以外のなにものでもない
ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』

物質とは因果。因果とは影響と言い換えても良いだろう。

要するに、周りに何も影響を与えない物質があるとするならば、それはもはや物質とは呼べないということを、ショーペンハウアーは言っている。

仏教キッズだったショーペンハウアーが言っていることは、限りなく「色即是空」に近い。物質そのものに本質はなく「空」であり、周りとの因果・縁起によって世界に表出しているに過ぎないというわけだ。この視点は、『世界は関係でできている』というループ量子重力理論の視点に近づいていく。

では、「山」とは空虚に過ぎないのだろうか? おそらく、初期の大乗仏教ならばそのように答えただろうが、研究が進んだ華厳経の考え方を参考にすると、話はそう簡単では無い。

理事無碍法界。確かに「空」だが、それぞれにそれぞれが流れ込むがゆえに、それぞれが個性的であって輝いている、煌びやかな世界。それが僕たちが生きるこの世界なのだ。

山は空だ。だが、確かに山として世界に存在している。「隻手の声」みたいな話だが、納得しない子どもにはこれで押し通せばいい。それでも納得しなければ、禅寺にでも放り込もう。


ケース2 早いとなんで痛いの?

猛ダッシュで走って転んだ時は、普通に転んだ時より痛い。そのことを観察した息子が、このような問いを立てた。運動エネルギーは速度の2乗に比例するという物理法則を、息子は直感的に感じ取っている。

この問いに対しては、「なぜ運動エネルギーは速度の2乗に比例するのか?」の答えを返せば良いだろうか。

それとも、チョッパーのような説明をすれば良いだろうか。

痛みは人体を守る信号。チョッパーが教えてくれた。

あるいはサラ・フェルドマン・バレットが提唱するような構成主義的情動理論をもとに、痛覚をどのように受け取るかを構成しているのは自分自身であると説明すればいいだろうか?

まぁ、この3パターンのどれかを使えば、あるいは2つか3つを組み合わせれば、十分だろう。


ケース3 なんで遊んでくれないん?

「パパは本を読みたいからや」と言ったところで、「なんで?」と続くことが目に見えている。これを納得させるのは至難の業だ。

そもそも、なぜこの問いが登場するのかに注目しなければならない。このような問いが発せられるのは、「遊んでくれることが、当然」と子どもが考えているからだ。

ある意味で、父親が子どもと遊ぶのは当然だ。だからと言って、常に遊ぶのは当然ではない。常に特定の方法で貢献することを当然視されるのは、デヴィッド・グレーバーが『負債論』で提唱した、人間関係の3分類のうち、「コミュニズム」や「交換」ではなく「ヒエラルキー」に値するものだ。

コミュニズムは互いに対等なもの同士が損得勘定抜きで貢献し合うという関係。交換は対等なもの同士が「これをあげるから、代わりに…」という具合に公平を重視するもの。ヒエラルキーはそうではなく、一方が一方に対して習慣と先例をもとに特定の行動を取り続けるというものだ。

不平等から開始する社会関係は、どのようなものであれ、不可避に類似した論理にもとづいて動きはじめることになる。なぜなら、いったん関係が「習慣」にもとづいたものであるとみなされると、なすべき義務や恩義のあることを証明するには、それが以前におこなわれていたことを示すだけでよくなってしまうからである。
グレーバー『負債論』

要するに、いつも遊んでくれているなら、今日も遊んで当然。というわけだ。これはある意味で、冒頭のベルクソンや國分功一郎の議論へと返ってたと言える。僕たちは、同じことが反復することを期待せずにはいられない。

ならば、ここで子どもに対する適切な反論は「なぜ、遊んでもらえると思った?」だろう。僕がヒエラルキーの原則に従って行動する日が合っても良い。だが、交換やコミュニズムの関係性を要求する日だってある。そのことには何ら不思議はない。全て僕の心1つだ。

僕は本能や習慣に囚われるだけではなく、知性をもった動物でもある。だから、稀に本能や習慣に反する行動をとることもある。

むしろ、本能や習慣の通りにしか行動しなくなった時、生物はどうなるだろうか?

特殊化し過ぎた生物は、進化の過程で行き詰まる。アーサー・ケストラーが「コアラはユーカリの木の上で進化から取り残された」と表現したように、本能と習慣にとらわれた生物は環境の変化に耐えられない。もし、更なる進化をするには、幼形進化といった方法で一度、本能と習慣を切り捨てる必要がある。

つまり、遊ばないという選択は、環境変化に耐えるために進化の先に与えられた知性による反応だ。人間は幼形進化の末に現在に至った。ならば、僕がそのような行動をとることは、当然と言っても良い。

息子はある意味で、歪んだ公正世界仮説を唱えている。これは誤謬なのだから、しっかりと教え諭し、直してやろう。


まとめ

まぁ、僕はこれからもいろんな「なんで?」に遭遇することになるだろう。その都度、言語による直線的・ロゴス的な説明を繰り広げたり、上記のようなメタ的な説明を試みたり、様々な手法を試す。

しかし結局のところは、ヴィトゲンシュタインの言う通りだ。

十分な根拠とは、そのように見える根拠である。
ヴィトゲンシュタイン『哲学探究』

どうすれば、そのように見えるか? これは人類が教育において頭を悩ませてきた問題だ。日本人は何でも擬人化すると言われがちだが、擬人化することによる教育効果(というより大人の都合のいいようにコントロールする効果)の高さから、それに依存せずにいることは難しい(お箸をカチカチ鳴らしたら、お箸さんが痛がるよ~)。むしろ、海外の人は擬人化という便利ツールを使わずして、どうやっているのか気になる。

僕たちはある意味で、トーテムの連鎖によって、納得感を高めるという『野生の思考』を子育てにおいては実践し続けている。レヴィ=ストロースの言う通りで、僕たちは過ちよりも無秩序を嫌う。

だから子どもの秩序づけの欲求に対しては、別の秩序で応答するしかない。不十分な根拠を添えて。

子育ては難しいね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!