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誰でもない人【雑記】

ああしろこうしろとしきたりを教え込まれて、バタバタと葬式にとりかかるのはいいことなのかもしれない。そうでないなら、悲しみに追い立てられながら、途方に暮れてしまうからだ。儀式を形作る役者の一人を演じれば、ほかのことは考えずに済む。

幸か不幸か、僕にはさほど役割は回ってこなかった。おじいちゃんの息子たちがあれこれと準備をしてくれたからだ。そのため僕にはほかのことを考える時間がたっぷりとあった。

僕にとってのおじいちゃんの死は、ほかの誰かにとっては父の死であり、ひいじいちゃんの死であり、友人の死であり、兄弟の死であり、恩師の死であり、お世話になった取引先の死だ。たくさんの人の心の中に、一つの死が生まれた。

5年ほど前、母方の祖父が死んで、親戚一同で遺品の写真を整理しているとき。「これはどこどこのおじいちゃんで、これは・・・どこどこのおばあちゃんのお母さんちゃうかな・・・」と誰かが答えていたのだけれど、一番古びた写真に写る軍服を着た凛々しい男性が誰なのかはとうとうわからなかった。すべての写真を持って帰るわけにはいかないので「もう・・・この写真はええな」となって処分することになった。

いつか僕のおじいちゃんも、こんな風に忘れ去られるのだろう。

二階の窓からひょっこり顔を出してこちらに手を振るおじいちゃん。僕の子どもたちを追いかけて走り回るおじいちゃん。キッチンですき焼きを準備するおじいちゃん。ごっついオフロードカーで小学生の僕を釣りに連れて行ってくれたおじいちゃん。

僕が死ねば、僕の中のおじいちゃんも死ぬことになる。でも、まだ僕の息子の中では生き続けているかもしれない。そして、息子が死ぬ頃には、きっともう軍服を着た男性のように、誰の記憶にも残らない存在になっているだろう。

逆に言えば、おじいちゃんの死は、おじいちゃんが出会ってきた人々の死でもあったはずだ。どれだけの人との、どれだけの思い出が死んでいったのか、もう僕には知る由もない。

棺にしまわれるとき、棺の窓が閉まるとき、火葬場に消えていくとき、まだ行かないでほしいと思った。でも、行ってしまって骨になって帰ってきた。骨になった途端、火葬場の人が「これは〇〇骨で‥」と、やたらと淡々と説明してくれる。さっきまで泣きじゃくっていた親族たちはケロッとして、まるで社会科見学にでもきているように「へぇ、そうなんやぁ」と他人事のように感心している。

骨になってしまった以上、僕にできることはもう、おじいちゃんとの記憶を宝石箱に大事にしまって、ときどき磨いて、ときどき眺めるくらいだ。あるいは、別の誰かと品評会をしてもいいかもしれない。肉体的に死んだあとのエンドロールも、ときどき盛り上げてやらねば。

いつかは僕も死んで、僕を知る人も死ぬ。僕の写真は燃えるゴミに出される。その瞬間に、ようやく僕の人生は終わる。そう思えばなんだか安心できた。苦しくても、悲しくても、いつか僕は誰でもなくなる。その日を楽しみにしていよう。でも、楽しみはできるだけ後にとっておきたい気持ちもある。僕の人生は矛盾だらけで、うまく整理がつかないものだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!