「経済のため」に使ってやるから、僕に金配れよ大阪府よ。

「大阪の経済の発展のため」に舞洲にカジノができるらしい。近所のおばちゃんたちは、せっせと拡声器で声を上げて署名運動をしながら、若者に白い目で見られている。

実際のところ、大阪府民の多額の税金がどこに流れるのかは知らないが、ゼネコンやら、海外のよくわからないカジノ業者やら、そういったところだろう。トリクルダウンの恵が僕の番が来る頃には出涸らしになっているどころか、むしろ逆効果で、僕から税金を搾り上げる結果にしかならないはずだ。

ならば「経済のため」というのは事実上「利権のため」という言葉の言い換えにすぎない。結果としてカジノを作るという政策は、貧民から搾り上げて、金持ちに配る政策なわけだ。

その金は知らんけど飛田新地とかに流れるんだろうけど、儲けるのはそこのオーナーだけじゃん。金持ちが金持ちに金を回してるのを見て、何が楽しいのやら。

あるいはどこかの国の美しい湖にクルーズ船が浮かぶかだね。そこで金持ちは楽しいパーティを繰り広げて、その様子をインスタグラムで見た庶民たちはまた、あくせくFacebookの金稼ぎに協力するわけだ。

金持ちは自分のために政治を動かして、貧民は「これはみんなのためになる‥」と政治を見過ごす。そりゃ金持ちが金持ちになるわけだ。

どこかが儲かれば、循環して全体が豊かになる‥そんなことが起こり得ないことはもう十分に証明されているように見えるのだけれど、経済が公平に循環しているという古典的な神話は維持される。金持ちと政治家にとって都合がいいからだろうね。

なぜ僕たちは、もっと自己中心的になれないのだろうか?

もっと自分の暮らしが豊かになるかどうかで政治を判断するべきだ。GDPが増えるかどうかなんてどうでもいい。GDPが増えようが減ろうが、儲ける奴は儲けるし、儲けない奴は儲けない。GDPが増えたからといって僕は幸せにならないが、僕の収入が増えれば多少は幸せになる。ならば「金持ちに渡すんじゃなくて、俺に金を寄越せ」と主張しなければならないわけだ。

警戒しなければならないのは「周りのせいにするのではなく、自分で努力すべき」という自己責任論に帰着してしまうことだ。そうこうしている間にゼネコンは利益を掻っ攫う。金持ちが自分のことしか考えていなくて、貧民は全体の利益のことを考えるか、あるいは無責任を貫いてせっせとクラウドワークスで小銭を稼ぐ(副業と言えば聞こえはいいが、掛け持ちバイトじゃん)。

結果、金持ちが勝つ。当たり前の話だ。

まずは、金持ちを妬もう。あいつらは利権で稼ぐゴミのくせに「努力して得た正当な報酬だ」というしらばっくれた顔をしている(実力主義ってのは、「これは実力による公平な結果なのだ」と言い張るためのプロパガンダに過ぎない)。

親父たちは悪銭身につかずというが、この世に悪銭ではない銭などない。
寺山修司

全てを悟った風の若者たちはまんまと搾取され、近所のおばちゃんたちは拡声器で声を荒げながら搾取される。結果搾取されるのだけれど、ならばせいぜい声を荒げたいものだね。

ていうか金あるんなら、適当にその辺に配ってくれればいいのにね。全員にばら撒けばいいじゃんか、マジで。維新はベーシックインカム推奨してるんだし、勝手に大阪でやってくれよ。

うん、そうしよう。カジノとか、訳のわからない箱物は全部無くして、ベーシックインカムやろう。財源がないならお得意の地域クーポンでもばら撒けばいいよ。

あー、金くれ、金。

この記事が参加している募集

週末プロジェクト

多様性を考える

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!