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左折車が待っているときに、「急いでますよ感」を出すのはなぜか?

横断歩道は歩行者優先。だから、本来なら堂々と歩けばいい。

左折車のドライバーとは二度と会うことはない。つまり、ドライバーに良い顔をする必要はない。

それに、大概は短い横断歩道だ。ダッシュするモーションに入ってから速度が上がりきった頃にはほとんど横断歩道を渡り切っていて、ダッシュの意味は、ドライバーに対してダッシュするモーションを見せつける以外にない。

それでも僕たちはダッシュするモーションを見せつけずにはいられない。

同様の現象は他にもある。満員電車の中にいるときに。自分の力ではこれ以上スペースを空けることが不可能であることが分かりきっていても、後ろを振り返り、詰めるかのようなモーションを周囲に見せつけることはよくある。

これも実質的に意味はない。単に周囲に対して、「自分は詰める努力をしている」と見せつけているだけだ。

逆の立場だったとき、僕たちはモーションに納得する。そして、モーションが無いときに「あいつはマナーがなっていない」とイライラする。

なぜだろうか?

モーションがなかったとき、その人が「こちらに配慮したい気持ちはあるが、モーションが無意味であるがためにノーモーションを貫いている」のか、あるいは「こちらに配慮する気持ちが全くない」のか、周りからは判断できない。

わからない状況はストレスになるし、大抵の場合、後者と判断されることが多い。

だから、「配慮がないor無意味なのでノーモーション」という不確定な状況で認識を宙吊りにしてしまえば、それ自体が「配慮がない」と感じてしまう。そのため、「こちらには配慮する気持ちがある」で確定させてあげることは、それ自体が配慮になるのだ。

結果は変わらないけれど、気持ちを示すための行動で、僕たちの社会は溢れかえっている。名刺交換のときに下から差し出そうが、上から差し出そうが何も変わらない。

しかし、僕たちは見かけと本心を見分けることができない。それに、見かけを取り繕えば、それが本心にすり替わっていくことはよくある。見かけだけ丁寧に取り繕い続けて、相手を永遠に見下し続けることは難しい。だんだん相手に敬意を感じるか、とんでもないストレスに苦しめられるかのどちらかだ。行動と心が一致していない状況(いわゆる認知的不協和)に、人は耐えられない。

だから、見かけだけを重視するのは、ある意味で合理的だと言える。イスラム教の教えでは、本心なるものはアッラー以外知りえず、それを詮索することは無意味であり、行動と本心は一致するものとされている。孔子はとことん見た目を取り繕うことを推奨した。パスカルは「神を信じているかのように振る舞えば、神を信じられる」と言った。

外に出る言動とは別にある本心なるものは存在しない。ヴィトゲンシュタインもそんなことを言っていた。

一方で、「感」だけで納得してはならない場面もある。事実調査委員会なるものは、「事実調査が行われている感」を演出する以上の効果をもたないにもかかわらず、それだけで人は納得してしまう。コンプライアンス研修にセクハラやパワハラを防ぐ効果は皆無だが、それだけで人は納得してしまう。パーテーションやアルコール消毒が無意味な場面であっても、それだけで人は納得してしまう。

ときに「感」を出すためのコストによって、実質的な活動に割くはずのコストが圧迫されることもある。というか、そういう場面の方が多い。特に政治やビジネスの場面はそうだ。

実質的な活動や効果が伴っているかどうかという目線は、失いたくないものだ。それでも、「感」の便利さは揺るがない。

僕もこれからも「急いでますよ感」を出し続ける。それで納得してね。ドライバーさん。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!