いい子の呪い~失敗できない呪い~
毒に育てられた人の多くは、《いい子の呪い》にかかっているのではないでしょうか。私自身も家族をはじめ、学校の先生や周囲の大人に「いい子だね」と言われることが多い子供でした。
しかし健全な自己肯定心を持ち合わせていなかった私は、いい子であるためにそれらをやっていたに過ぎません。親や家族が喜んでくれるから、評価してくれるから、あるいは叱られなくていいから、それで家の平穏が保てるから──そんな理由でいい子で居続ける子供たちや青少年は今も絶えないのではないでしょうか。
毒によっていい子であり続ける呪いをかけられた──少なくとも私は今もそう感じています。
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「真のいい子」と「偽りのいい子」
健全な親の元で育った人は、健全な自己愛や自己肯定心をもってして日々努力を積み重ねて自ら進んで人助けや献身的行動に尽力する《真のいい子(人)》になります。彼らは自分の軸が強固で気の置けない関係の人の前では"いい意味で"わがままになれます。理想的な人物像であるとともに勤勉で真面目と評価されたり、リーダーに抜擢される可能性が高いです。
一方、毒に晒され続けると健全な自己肯定心と自尊心が育たないので、他者にに嫌われたくない、周囲に良心的な人間だと評されたいと思うようになります。そのため自身の感情に逆らってでも、本来やりたくない努力を重ねたり、人のやりたがらない仕事を請け負う《偽りのいい子(人)》になりがちです。誰に対しても顔色を伺って相手に合わせてしまうため、一般的には「優しい」「気が効く」と評されますが、毒親と同様の人間に都合よく扱われる可能性が高いです。
「偽りのいい子」の特徴
①怒りや憎しみという感情が稀薄
明らかに被害者の立場なのに、加害者に対して抱いてもいい最低限の怒りや憎しみを感じられない、逆に自分に非があったかのようなことを言い出します。例えば完全に悪意が含まれている発言を“冗談”ととらえたり、こんな自分だから言われても仕方がないと考えたりします。
②毒と同じような本質の人間に利用される
学校や職場において毒と同等の人間から取るに足らない存在、いじられ役、何をしてもいい存在と認定され、面倒ごと全般を押しつけられます。押しつける側の人間はうわべだけは取り繕いますが、裏では陰口を叩き利用価値がなくなれば見捨てることもあり、毒を持つ人間に"捕食"されやすいです。
③人間関係や恋愛でも弱者になりやすい
男女ともに共通しているのは、自身の感情を押し殺してしまうゆえに都合の良い存在として利用されやすいことです。女性は異性関係において肉体のみの関係を強いられたり、いわゆるセカンドや二番さんの扱いを受ける傾向があります。男性の場合は偽善的な部分を多少気持ち悪がられても、ご飯をおごってもらう(昔の言い方でメッシーくん)、送迎してもらう(アッシーくん)、金品を貢いでもらう(ミツグくん)ために利用されることが多いです。
このような理由から健全で対等な人間関係の構築が難しく、友人関係や恋愛関係が長続きしない可能性が高いです。
私が「偽りのいい子」になるまで
過去の記事でも少し触れましたが、私は小学生の頃から親や先生といった周囲の大人たちから常に優等生と評されていました。掃除当番や給食当番をサボることなく、勉強が遅れている子の面倒を見て、先生の言うことに従順な生徒だったからです。ただ、私の場合はいい子の呪いをかけられた「偽りのいい子」に過ぎませんでした。
母の離婚をきっかけに私はよりいい子でいることを強いられました。思春期に差し掛かっていた姉が遊び惚け、母の頭を悩ませていたからです。さらに毒祖母と母の教育モットーは「他人に迷惑を掛けるな」で、当時の母の口癖は、「片親だからと言って馬鹿にされないように」でした。
私は奔放な姉の分もいい子であるために勉強や課外活動に励みました。人が嫌がることも引き受けてリーダー的ポジションに立ちながら、絵画や作文のコンクールで賞も貰いました。非行や規律違反など以ての外で実に公序良俗に則った生活を送っていました。
すべては母をはじめとした大人達に喜んでもらうために、私の存在意義であるいい子であるために──こうして何一つ疑うことなくかつ妥協することなく私は進級、進学していったのです。その先に大きな壁が立ちはだかることも知らぬまま。
失敗できない呪い
私が優等生たらしめたのは第一に成績だったので学校の試験は常に「戦い」と私は勝手にとらえていました。試験直前、私は息を吸いながら手のひらに渦巻きを書いて手を合わせます。
「90点以上取れますように。取れなかったら、死にます」と、心の中で唱えながら。
当時の私は優等生であることが自分の存在理由だと思い込んでいました。だから「成績が悪い=試験の結果が悪い=死」という方程式が成立したのでしょう。その方程式を常に頭の片隅に置きながら、母や家族、周囲の大人たちを満足させるために私は虚しい努力を続けていました。
試験で失敗しないために。片親だからと馬鹿にされないように。経済負担が軽い公立高校に受かるために。家族の期待を背負って大学へ進学するために──こんな具合に私は《失敗できない呪い》に雁字搦めにされていきました。
「偽りのいい子」の半生
小学校から高校までは親の言うことを聞いて勉強することで、いい子としての存在意義を見出せました。横暴極まりないですが、「勉強さえできれば何をしても許されると」さえ腹の底では思っていました。健全な自己肯定心が育まれなかったせいで、私は実に歪んだ思考で自己を肯定していたのです。
しかし大学とは自分で考え、自分の意志と責任で行動しなければならない場であることを私は痛感しました。
《失敗できない呪い》が《失敗したくない呪い》に変化すると、なかなか新しいことに挑戦できなかったり、積極的に人間関係を築くことができなくなります。当たり前のことですが、勉強や仕事、人間関係にしても何かに取り組むには失敗がつきものです。失敗を積み重ねないと上達しないのと同じように、時には弱みや恥部を晒さないと相手と親密になれません。しかし当時の私のとっては、そういった行動はすべて「失敗と同義」でした。健全な自己愛や自己肯定心がないゆえに、くだらないプライドばかりが肥大化していたのです。
それでも当時の私は大手企業への就職を目標と据え、勉強や研究に自分なりに一生懸命励んでいました。それこそが、私の新たな存在意義でした。しかし大学生活を通して自身の人間としての未熟さや恋愛経験、社会経験の少なさから強い劣等感を抱くようになりました。それと連動するように、勉強や研究でも行き詰まって心身の具合を悪くしました。
人生で初めての挫折でした。
この経験さえも、当時の私にとっては「失敗そのもの」でした。単位を落としてはいけない。研究結果は必ず正しくないといけない。他の学生から後れを取ってはいけない。いつでも完璧でなくはならない──私は常にいい子であるべきで、失敗など許されないし、私はこんなものじゃない── 。
その時です。自分自身が《いい子の呪い》と《失敗できない呪い》に掛かっていることに気が付いたのは。
試験前の焼けるような緊張感。命を賭したおまじない。劣等感の海で溺れていたこと。そして、いい子であることの息苦しさ。時間はかかりましたが、それらを一度認めてから家族に打ち明けることで私はその呪いから脱却する一歩を踏み出しました。
正直に言えば、今もなお完全に脱却はできていません。それでも家族や大切な人、日々の生活に感謝しながら、地に足をつけて生きていくしかないと思いながら今日に至ります。
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