境界で息をした日

カン、カン、カン、カン・・・
深夜、三メートルも見渡せない濃霧の中、点滅する踏切を私は潜っていた。
向こう側に行けば楽になれる。
そう聞いた。
私を縛ってくれていたしがらみも消え、約束も霧消した。もう、何も残っていない。
踏切の丁度半分を越えた所で、前へ出した左足と右手から肉が剥がれて消えていく。

「あぁ、これで。相対的にプラスだ」

視線を線路に映し、右手と左足を更に前に伸ばした瞬間、正面からとにかく強い力で後ろに突き飛ばされた。
尻餅をついて、何が起きたかを理解すると同時に、目の前を通り過ぎていく列車が私を置いていった。
そして、私を突き飛ばした人影が喋る。

「やれやれ、こんな形で三途の川を渡ろうとしないで頂きたい。私達の楽しみが減るだろう?」
「ちゃんと六文銭を携えて船に乗ってくれたまえ、そのときの君達の話を聞くのが私達は大好きなのだ。地獄直通の火車特急に乗るなんて、勿体ないよ」

そんなエゴで突き飛ばしたのか、と思ったけれどそれは人間の尺度だ。明らかに人間には見えない彼等が知ったことでは無いのだろう。それより、私は死ねなかったという事実を飲み込むべきだ。

「じゃあ、どうすれば、どうしたらその舟に乗せてくれるんだ?」

声は震えていた。私には鎖も楔も無い。とにかく即物的で良いから座ってぼうっと出来る居場所が欲しかった。たとえそれが三途の川の舟の上だとしても。

「自殺はお薦めしないな。別途に火車が来る。同じく地獄直通だ。ふむ・・・ではこうしよう。」

その夜色のローブを纏った人影は、夜明け前の蒼色、あるいは黄昏後の藍色に辺りを照らす角灯を手渡してきた。
見れば見るほど、息を呑むような鮮やかな青い光を放っていた。

「詳しい事は言えないが、持ち手は右手の方が良い。その方がきっと君に馴染みやすい。さぁ、受け取ってくれ」

私は左手で受け取ってやろうかと思ったが、言葉通りにすることにした。理由は分からないが、酷く違和感を感じたからだ。
私が右手で角灯を受け取ると、一瞬眩く青い光が輝いた。咄嗟に顔を覆ってしまう程に。

「なんだ。まだ死にたく無いんじゃないか。良いね良いね。」
「は・・・?」

これが何になると言うのだ。この人影は私にどうして欲しいのだろうか。全く意図が分からない。

「まぁ、それを持ったからって君は今すぐ死ねる訳じゃない。残念ながらね。でもまだ死にたく無いんだろ? 騙されたと思ってこの踏切の先へ行くと良い。行き先はその角灯が教えてくれる。行けばわかるさ。」
「行けば分かる・・・ってどういうことだ? 船着場でもあるのか?」
「いいや。君が舟に乗るにはまだ早い。今君を乗せても、向こう岸に着くまでに君の話は終わるだろうからね。それだと暇だろ? だから冥土の土産話を沢山作って来てねってことさ。そしたら、舟に乗せてあげよう」
「それじゃあ・・・」
「意味が無いって?そりゃ意味なんて無いだろうよ。死のうとしてたのがその証左だしね。だから、だからこそ、死ぬ時に意味を持ってきて欲しいんだよ。それが最高の土産話になるんだから。それじゃ、頼んだよ。良い人生を!!」
「は・・・?何言って・・・」

私の恨み言が言い終わる前に、その人影は最初から無かったかのように夜闇に溶けて消えてしまっていた。

「待って・・・待てよ・・・なぁ・・・」

いつの間にか濃霧も晴れて清々しい夜空と半月が顔を覗かせていた。

「ふざけんなよ・・・」

恨み言は全て、虚空に消えた。
震えも、止まっていた。
浅い呼吸から、少しずつ深い呼吸に切り換えていく。酸素を肺へ、脳へ届けて状況を飲み込んでいく。

「結局私は・・・死ねなかったのか・・・」

ゆっくりと息を吐くように呟いたその言葉は、周りの空気に染み込んでずうっと頭の中に残り続けた。
居場所を追われ、友人は同調圧力に消え、仲間は去り、理解を示してくれた人も救ってはくれなかった。
いや救いようが無かったのかも知れない。あるいは私に救われる気が無かったのかも。
どちらにしろ、これ以上マイナスがかさみ続ける生よりかは、それらを帳消しにする死の方がマシだと思っていた。
私は何にも残せていない。残るものなど何一つ持っていなかった。なら無に帰っても誰も悲しまないだろうと・・・

「いや、一人だけ悲しむかも知れない奴がいたな。物好きな獏が」

ふと獏のことを思い出し、蹲るのをやめて身体を起こそうとした時に、電話が鳴った。別れはお互い済ませたというのに。

「はい、もしもし?名残惜しくなった?」
「・・・まさか、繋がったことがまず驚きだよ。死ねなかったのか。地獄の番人にでも追い返された?」
「多分ね、三途の川の渡し守じゃないかな」
「そうか、じゃあお互い賭けに負けた訳だ。そして命を突っ返されたと」
「そういうことだね・・・」

私達は文字通り命を賭けた、結果死を勝ち取れず寿命が帰ってきた。

「なぁ、菖蒲はこれからどうするんだ?」
「さぁ・・・」

ね、と言いかけたところで右手に持たされた角灯が淡く光り出し、一筋の光と共に方向を指し示した。

「行けばわかる・・・ね」
「・・・?どうしたんだ?」
「実は行くアテが無いわけじゃないんだ。もしかしたら、もしかするかもしれない。」

今日限りだと思っていた命に誤算が生まれた。ならあの人影の文言に乗るのも一興だろう。どうせ、まだ死ねないのだから。

「今は、もう少し歩くことにするさ、もう後には引けないのだし。」
「そうか」
「またこっちから連絡するよ。期待しないで待っててくれ。寝て待つの、得意でしょ?」
「皮肉を言うな。全く。だけど、言われなくてもそうさせてもらうよ。またな、おやすみ」

電話を閉じると、ふと白骨化した右手が目に入った。不思議な感覚だが、不思議と違和感は無かった。

「なんとなく悪い気はしないね。三割ぐらい死んでるみたいで、ちょうど良い塩梅だよ」

気付けば空が白み始めていた。視界はまだ薄暗くぼんやりしているが、角灯が進むべき道を照らしてくれている。

「行ってみようじゃないか」

この青い光が、これからの生活の一部に溶け込むなんて、このときの私は知る由も無かった。

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