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救えたはずの命。殺人と同等。/小林由香『イノセンス』発売前特別試し読み#5

連載中から賛否両論の嵐。
小林由香『イノセンス』期間限定「ほぼ全文試し読み!」

カドブンノベル一挙掲載、WEB文芸マガジン「カドブン」で連載中から大きな反響を読んでいる話題作『イノセンス』。
10月1日の発売に先駆けて、このたびnote上でほぼ全文試し読みを行います。

主人公・星吾を追い詰める犯人の正体は?
犯人当てキャンペーン、近日実施予定!
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 自らの意思でなにかを選択すれば、必ず失敗しそうで恐ろしかった。己の決断ほど信じられないものはない。だから誰かに相談し、慎重に身の振り方を考えたかったのだ。
 先生は講義中なのだろうか、いつ戻ってくるのだろう。
 星吾は驚くほどがっかりしていることに気づいた。心が乱れてどうしようもないとき、宇佐美に会いたくなる。
「また、なにか失敗してしまったのだろうか」
 思わず声にだしてつぶやいていた。
 どうすれば正しい生き方ができるのか――。
 人を信じれば裏切られ、友だちがほしいと願えば壊され、未来に希望を見出せば潰される。そんな状況でも他人に優しく前向きに生きろというのなら、誰かやり方を教えてほしい。本当に学びたいのは、今ある苦しみから解放される方法だ。けれど、それを教えてくれるテキストも学べる場所もどこにもなかった。
 氷室の事件以来、いつも答えの存在しない間違い探しをしているようで、うんざりした気分になってくる。
 なにか気配を感じて廊下を確認してみたが、辺りに人影は見当たらなかった。
 首筋の汗を手の甲で拭う。全身が汗まみれになっていた。
 星吾は廊下を足早に進み、美術室に駆け込んだ。素早く後ろ手にドアを閉めてから、教室の中をゆっくり見回す。
 見慣れた光景に包まれると、胸の鼓動が少しずつ鎮まっていく。
 色白の男は、本当に自殺したのだろうか?
 冷静になると、紗椰の言葉を鵜呑みにしていたことに気づいた。
 ただの嫌がらせの可能性もある。鞄からスマホを取りだしてブラウザを立ち上げ、人身事故について検索した。指が強張り、スムーズに動いてくれない。
 目の周りが熱くなり、まばたきを繰り返した。
 たしかに、通学で利用している沿線で人身事故があったようだ。
 リアルタイム検索をして昨日のSNSを確認すると、遅延の不満を書き込んでいる乗客が多数いた。震える指で、もっと詳しい事故の情報を検索していく。
 鉄道人身事故について掲載しているサイトを発見した。
 昨日の午後七時二十分頃、四十代の男性が急行列車に撥ねられ死亡。電車が駅を通過する際、ホームから線路内に飛び込んだという内容が記されている。
 四十代の男性。性別だけでなく、年齢も一致しているように思えた。しかも、人身事故は家の最寄り駅で起きている。昨日は大学の講義を受けたあと、美術室に寄ってから夕方の六時くらいに帰宅したため、その後の電車の運行状況を気にかけていなかった。
 もしも、あの日の朝の自分の暴言をネット上に公表されたら――。
 強い恐怖を感じた瞬間、痛々しい記憶が呼び覚まされた。
 あれは、高校二年の秋だった。
 警察に助けを求めても、しばらくはネットでの悪口は衰えなかった。匿名掲示板に個人情報を晒され、家のドアに『救えたはずの命。殺人と同等』とスプレーで落書きされ、掲示板にも同じ言葉がいくつも躍っていた。
 大手家電メーカーの総務課長だった父は、春の人事異動で工場勤務になった。悪意のある電話やメールが父の会社に届くようになったのだ。
 けれど、家族は誰ひとりとして星吾を責めなかった。
 近隣住民の間に悪い噂が流れているのに、母はいつも堂々としていた。弟の俊樹は極端に口数が減ったが、兄の前では明るく振る舞ってくれた。
 これが家族の絆というものならば、あまりにも残酷だと感じた。血のつながりという言葉に縛られ、なにもかも我慢しなければならないのなら、すぐに縁を切ってあげたかった。
 ドアに落書きされた夜、星吾は家族が寝静まるのを待って、こっそり家を抜けだした。公園の木の枝にロープをかけて首を吊って死のうと思ったのだ。
 助けてくれた人を置き去りにした卑怯者が、ネットで過去の罪を責め立てられ、悪行を償えと追いつめられたから死のうと決心したわけではない。
 暗闇の世界へ背中を押したのは、家族の笑顔だった。
 自分が死ねば、家族は胸を張れる気がした。「あの子は、亡くなった氷室さんのことを思い、自責の念に駆られ、自ら命を絶ったのです。どうぞ許してやってください」、そう伝えれば世間は攻撃の手を緩め、残された家族に同情してくれるのではないかと胸が高鳴った。
 家族が微笑む姿を想像しながら首を吊っている最中、重みに耐えられなかったのか、枝がぽきりと折れた。最後まで不運に見舞われ、どうしようもない惨めさが込み上げてきた。
 地面に強く打ちつけられたとき、靄がかかっていた頭に誰かの泣き顔がぼんやり浮かんだ。
 それは祖父だった。祖父は顔の皺を深くしてむせび泣いていた。
 闇夜にひとり、激しい咳をしながら土下座をして嗚咽をもらした。
 それ以来、二度目には挑戦できなかった。
 星吾はイーゼルの前まで行くと、画板をゆっくり持ち上げた。画板にはダブルクリップで画用紙が留めてある。
 昨日、美術室で描いた絵を呆然と眺めた。バイト中に悪夢を見てから、どうしても描きたくなった絵があったのだ。
 それは、氷室の双眸だ。ラベンダーの隙間から、ふたつの目がこちらを見ている。どれだけ時間をかけて眺めてみても、まったく感情が読み取れない。だから気持ちが知りたくなり、描かずにいられなくなるのだ。
 あの目を絵の中に閉じ込めたいという気持ちも隠れていた。もう二度と現実の世界にあらわれないようにと願いながら――。
 画用紙の双眸を眺めていると、左目がすっと細くなった気がして身体の芯が凍った。
 おそらく、絵の中でも彼は生きている。
 氷室が振りかざしたのは正義ではなく、歪んだ独善だ。
 近くに置いてある鉛筆を手に取り、右目に向けて勢いよく突き刺した。激しく手が震えていたせいで、鉛筆の芯はラベンダーの蕾を汚して砕け散った。
 さっきから耳鳴りがやまない。虫の羽音のような響きがまとわりついてくる。ジョロウグモが背中を這いまわっている感触がした。
 画板ごと床に叩きつけるとダブルクリップが飛び散り、画用紙がはずれた。
 彼の双眸が、今度はイーゼルの下から見つめてくる。相変わらず感情の宿らない目だった。幾度も絵を踏みつけた。足跡がつくほど何度も踏みつける。
 星吾は嘲りの笑みを浮かべながらつぶやいた。
「宝物は……まがい物……宝物はまがい物……」
 祖父は縁側で日向ぼっこをしている最中に死んだ、そう母から聞いた。亡くなったとき、痩せ細った手には四つに折りたたまれた紙が握りしめられていたそうだ。
 その紙には、筆ペンで『いつまでも宝物だ』と書いてあったという。
 通夜のとき、母が「あの紙に書かれていた言葉はなんだったのか」と、親族に尋ねているのを耳にした。弟は暗い雰囲気を掻き消すように、「じいちゃんは、どこかに財宝を隠しているのかも」、そう言って従兄弟たちと盛り上がっていた。
 星吾はそっと部屋をあとにし、もつれる足取りで二階の自室に駆け込んだ。
 心療内科からの帰り道、祖父は真剣な面持ちで言ってくれた。「これだけは忘れないでくれ。星吾はじいちゃんの大切な宝物だからな」、その言葉を思いだし、声を殺して泣いた。
 遺品整理のとき、祖父の部屋からあるものが発見された。丁寧に青いリボンをかけ、綺麗にラッピングされたプレゼント。包装紙を広げると油絵具のセットだった。
 一週間後は、星吾の誕生日。きっと、祖父はプレゼントにメッセージを添えて贈るつもりだったのだろう。あの言葉は孫に向けて書いた最期のメッセージだったのだ。
 けれど、家族や親戚には伝えられなかった。忌み嫌われる存在だと罵られるなら理解できるが、宝物は自分のことだ、とは口が裂けても言えなかった。
 親戚も露骨に言葉にはしないが、事件のことを知っている。
 父が電話口で「お前らにも迷惑かけてしまって悪いな」と謝っている姿を何度か見かけた。電話の口調から、相手は父の兄妹だろうと思った。
 以前、従兄弟たちは「セイちゃん、ゲームしよう」と無邪気に寄ってきた。それなのに今は弟にしか寄りつかなくなった。叔母は、祖父の死因について「心労がたたって急死したのではないか」と話していた。
 もしかしたら悪気はなかったのかもしれないが、星吾は罪悪感から叔母と目を合わせられなくなり、唇が震えてうまく言葉が出なくなってしまった。
 あの日、静寂に包まれた自室には泣き声と雨音だけが響いていた。

 休み時間のたびに研究室に寄ってみたが、宇佐美には会えなかった。講義を聞いていても集中できず、少しでも気を抜くと紗椰が頭に浮かんできて、謎だらけの暗闇に引きずり込まれてしまいそうになる。
 不可解な言動ばかりだったが、ひとつだけ明確なことがあった。
 彼女は、定期券を落とした白杖の女性や横断歩道で泣いていた少年を無視したことを知っていた。単なる偶然だとは思えない。どこかで探偵のように監視していたのだ。
 なんのために?
 考えを巡らすほど、疑問が増えていく。口から深い溜息がもれた。
 電車が最寄り駅に到着したのは、夜の六時半を回った頃だった。
 星吾は乗客に押し出されるようにして降りた。人混みに揉まれながら、改札に続く階段に向かっていく。鞄から定期券を取りだす指先が少し冷たかった。
 ふいに、誰かに名を呼ばれた気がして、足を止めた。急に立ち止まったせいで、肩にぶつかってきた人に舌打ちされ、気持ちが萎縮してしまう。
 通行人にぶつからないように脇にそれてから、ホームに目を走らせた。
 辺りが仄暗くなっていく錯覚に襲われると、「死んだみたいよ」という紗椰の声が耳の奥で繰り返し再生された。
 不気味な声を振り払うように歩きだし、一気に階段を駆け上がった。後ろから誰かに追われているような奇妙な気分になる。
 すべては宿命なのだろうか。いや、生まれる前から決まっている抗えない宿命ではなく、誰かに仕組まれているような気がする。悪意に満ちた誰かの掌の上で踊らされ、望みどおりに悪いほうへと堕ちていくのが不甲斐なくて、情けない気持ちになる。
 まるで氷室に手招きされているようだった。
 ――こっちの世界へ来い。もっと苦しんでから、お前も同じようにこっちへ来い、こっちへ来い。
 急ぎ足で改札を抜け、駅を出ると、放置自転車が何台もドミノのように倒れていた。それを横目で見ながら大通り沿いの歩道を足早に進んでいく。
 六月の日暮れは遅いのに、辺りはすでに薄暗かった。仰ぎ見た空は、雨雲に覆われている。また雨が降りだすのかもしれない。
 無心になり、ひたすら歩を進めていく。いつも安らぎを与えてくれるコンビニの看板を一刻も早く目にしたかった。
 光輝の顔を見れば、少しは明るい気持ちになれる気がした。もしかしたら、安らぐ気持ちにさせてくれるのは看板ではなく、彼の存在なのかもしれない。
 初めは無邪気にまとわりついてくる子どものようで鬱陶しかったが、今では光輝とバイトが重なる日は心が高揚していた。
 けれど、湧き上がる高揚感は一瞬にして霧散した。
 コンビニの駐車場に入ったとき、建物の隅に華奢な人影が見えたのだ。
 バイト先に嫌な噂を広めるために来たのだろうか――。
 関わらないでほしいと伝えたのに、自動ドアの横に紗椰が佇んでいた。彼女の姿を目にした途端、じわじわと悔しさが湧いてくる。
 星吾は拳を固く握りしめた。
 またバイトを辞めなければならないのか。こんなことを何回繰り返すのだろう。もう彼女の姿も見たくない、声も聞きたくないという激しい不快感が押し寄せてくる。
 自動ドアだけを視界に入れて歩きだすと、気づいた紗椰がこちらに素早く駆け寄ってきた。
「少しだけ話す時間をもらえない?」
 無視して歩き続ける星吾の腕を、紗椰は強引に両手でつかんでくる。細い腕を振り払ったが、彼女はなおも強くつかみ、訴えるような眼差しを向けてきた。
 星吾は怒鳴りつけてやりたい衝動を抑えながら言った。
「バイト先に悪い噂を流して、嫌がらせをしたいならすればいい」
 紗椰は虚を衝かれたような顔をした。
「嫌がらせって……私は……」
 こちらの都合などおかまいなしにあらわれて、今にも泣きだしそうな表情で言葉をつまらせている姿が無性に腹立たしくてたまらなかった。
 彼女の手を乱暴に振り払うと、星吾は自動ドアから店内に駆け込んだ。
 従業員は裏口を使用する決まりだったが、建物の裏手まで遠回りしていたら、どこまでも追い駆けてくる気がして怖かったのだ。
 店に入れば、光輝やバイト仲間がいる。おかしな真似はできないだろう。
 普段よりも客は多く、店員はそれぞれ慌ただしく商品を袋に詰めていた。奥のレジカウンターには光輝と男子高生のバイトがいる。
 手前のレジカウンターにいる四十代のパートの由紀恵が「いらっしゃいませ」と挨拶してから顔をしかめた。店内に入ってきたのが星吾だと気づくと、苦い顔でこちらに鋭い視線を投げてくる。
 不吉な予感が頭をかすめ、不安が膨らんでいく。
 自動ドアを利用したのが気に入らないのか、それとも悪い噂を耳にしたからなのか判然としないが、由紀恵は明らかに不機嫌そうな顔をしていた。
 星吾が振り返って店の外を確認すると、紗椰の姿はどこにもなかった。
 ドリンクケースの裏にあるバックヤードに駆け込む。タイムカードを押し、制服に着替えてから急いでレジカウンターに向かった。
 弁当を温めている由紀恵を手伝うために、星吾はカウンターの商品を手早く袋に詰めた。彼女は小声で「自動ドアを使用するのは禁止よ」と、子どもを諭すような口調で注意してから、バックヤードのほうに歩いていく。続くようにバイトの男子高生も光輝に小声で挨拶してから店内をあとにした。ふたりとも退勤時間だったのだ。
 以前、由紀恵は大学受験を控えた息子がいると話していた。
 いつも歯に衣着せぬ物言いをする人なので、最初は気が強そうで苦手だった。けれど、あまり裏表のない人だとわかってからは、気兼ねなく自然体で接することができた。
 それから数時間ほど客足が途絶えなかったので、レジ業務を忙しなくこなし続けた。レジ業務と並行して、納品された商品を検品し、指定の場所に並べ、棚の整理を済ませる。次々に仕事を片付けていく。少しでも手を休めると落ち着かなくなるのだ。
 一連の業務をやり終えてからレジカウンターに戻ると、光輝が対応している客が最後のようだったので手伝うことにした。温めた弁当をレンジから取りだして袋に詰めていく。
 作業をしながら、窓の外にちらりと視線を走らせた。
 辺りは完全に夜闇に包まれている。それなのに、まだ近くに紗椰がいる気がして、どうしても心が落ち着かなかった。
 先ほど目にした泣きだしそうな表情が、いつまでも脳裏に焼きついていた。もうずいぶん時間が経っているのに、つかまれた腕に鈍い痛みを感じる。
 不安を押し隠しながら業務に集中してみるも、意に反して、ついつい窓の外に目がいってしまう。
「ありがとうございました!」
 光輝は客を送りだしたあと、すぐに声をかけてきた。
「裏店長がいるときに自動ドアから入るなんてマゾだよ。さっき怒られたでしょ」
 光輝は、由紀恵を『裏店長』と呼んでいた。
 この店は裏店長のおかげで成り立っているともよく言っていたが、星吾もそう思っている。由紀恵は近隣の学校の行事にも詳しく、運動会や遠足が近いときは、おにぎりや紙コップの発注を増やし、花粉症の時期にはマスクを多めに置くなど、季節に合わせた対応ができる貴重なパートだった。
「遅刻しそうだったから表から入ったんだ」
 星吾が適当な嘘を口にすると、光輝は不満そうな声を上げた。
「遅刻ねぇ。前に冷たい口調で『クビになってもかまわない』と言っていたのは別人ですかね」
「きっと別人だよ」
 星吾は笑いながら返すと、レジカウンターの下にある丸椅子に座った。腰を下ろした途端、鉛のような疲労感が重くのしかかってくる。
 ふと、疑問がよぎった。
 色白の男は、なぜ死にたいと思ったのだろう――。
 実際に自殺現場を目撃したわけではないのに、血まみれの男が線路に倒れている姿が鮮明な映像となり脳裏に浮かんでくる。
 自死を決断したのは、彼自身だ。自分は悪くない。それなのに、胸の中の不安がどんどん濃くなるのはなぜだろう。
 大学の学食で顔を合わせたとき、光輝は紗椰と同じ高校だと話していた。尋ねたいことがたくさんある。けれど、彼女について知りたくて話の糸口を探してみたが、いつまでも切りだすことができなかった。
 紗椰との出会いは最悪だったからだ。光輝には、自分が残酷な言葉を吐いたことをどうしても知られたくない。
 そう認識したとき、彼女の怒りは不自然ではないと思い知らされた。
 あの朝の出来事の一部始終を話したら、いつも寛容な光輝でさえ、星吾を軽蔑するだろう。氷室を置いて逃げた少年時代から、少しも成長していない気がした。
「客もいないからさ、ボーイズトークしようよ」
 光輝は、もう一方のレジから丸椅子を引きずってくると、肩を寄せるようにして座った。
 氷室の事件後、星吾のパーソナルスペースは広くなり、人に近寄られるのも、相手に近づくのも嫌になった。それなのに、光輝に対してはなんの不安も抱かず、そばにいられるのが不思議だった。
 彼は大学でも人気者で、いつも友人たちに囲まれて過ごしていた。コンビニに買い物に来る年配の客からも可愛がられ、「光輝ちゃんがいるからスーパーより高いけど、この店で買うのよ」と言われているのを幾度も耳にしたことがある。
 人に対してだけでなく、彼はどんな生き物にも優しかった。以前、由紀恵が悲鳴を上げたことがあった。レジカウンターに足の長い大きなクモが這っていたのだ。由紀恵が怯えながら箒で払い落とそうとすると、光輝は「待って」と言って、掌にそっとクモを乗せ、外に逃がしていた。
「梅雨の時期ってさ、マジでテンション下がるよね。また雨が降ってきたし」
 光輝はぼんやりした口調で言うと、心配するようにこちらに目を向けてくる。
 その視線に気づかないふりをして、星吾は窓の外を眺めた。
 以前、「雨が嫌いなの?」と尋ねられたのを思いだしたのだ。視線を合わせれば、今度は「なぜ雨が嫌いなのか」、そう問われる気がして怖かった。
 自動ドアに張りつく雨粒を見ていると、あの悪夢がよみがえってくる。今にも氷室があらわれそうで、胸に気分の悪さを覚えた。
「星吾は、紗椰と知り合いなの? さっき、店の外で話しているのを見ちゃったんだ」
 気のせいか、光輝はなにか探るような目をしている。
 星吾は意識的に感情を抑えながら言った。
「知り合いではないよ……たまに買い物に来る客だから軽く挨拶しただけ」
 この店で紗椰を見かけたことは一度もない。もしかしたら来店している可能性もあったが、まったく記憶に残っていなかった。客の顔を見るのが苦手だったため、レジに入力する性別と年齢も適当に打っていた。
 振り返れば、いつも光輝に嘘をついてしまう。
 小さな嘘を重ねるたび、後ろめたさで胸がいっぱいになる。罪悪感は思考を鈍らせ、相手に不信感を与える原因になる。けれど、どうしても自分を守るために偽りの言葉が口からこぼれてしまうのだ。
「星吾は不思議だよね。『包丁男』に刃物を向けられても冷静だったのに、なんでもないときに挙動不審になるんだよな」
 光輝はそう言ったあと、ポケットからチョコレートを取りだしながら続けた。「あのときマジでかっこよかった」
 事件が起きたのは二ヵ月ほど前、夜の十一時半を過ぎた頃だった。
 突然、店に刃渡り二十センチほどの包丁を持った男があらわれたのだ。客は恐怖のあまり悲鳴すら上げられない様子だった。
 星吾は犯人が誰なのかすぐにわかった。
 防犯カメラが設置されているにもかかわらず、犯人は覆面をしていなかったのだ。痩身の男は、バイトの面接を受けに来た人物だった。募集人数はひとり、採用されたのは光輝だ。
 男は不採用に腹を立て、包丁を手に店に乗り込んできたのだ。
 どれだけ「店長は不在です」と丁寧に伝えても、痩身の男は「隠しやがって」と疑いの目を向け、「この世の中はバカばっかりだ。こんなクソみたいな世界はそのうち消えてなくなる」と意味不明なことをぼやき続けていた。
 星吾は鋭い刃物を目の前に突きつけられ、最初は恐怖で足が震えた。けれど、男の話を聞いていると急に白けた気分になり、笑いが込み上げてきた。
 世界が消滅するならすればいい。すべて消えてなくなれば、どれだけ楽になれるだろう。
 光輝は銀紙を広げると、チョコレートを口に入れてから言った。
「どうして壮大な演説をこんな冴えないコンビニでやるんだろうなぁ。うちの店長に訴えても世界は変わらないのに」
「たぶん、ストレスが溜まっていたんだよ」
「加害者にも優しいんだね」
 星吾は身を隠している犯罪者のようにそっと息を潜めた。けれど、光輝は異変に気づく様子もなく、どこか遠くを見つめながら話しだした。
「あのとき、膝が震えるくらい怖かった。それなのに星吾は、『あぁ、そうですよね。早く世界が消滅すればいいですね。僕も期待しています』って、冷たい声で言うんだもん。恐怖を通り越して感動したよ。でも、もしかして星吾は、ただのバイトじゃなくて裏社会で雇われている殺し屋なんじゃないかと思ったら、今度は違う意味で震えたけどね」
 もう逃げるという選択肢はなかっただけだ。
 客を残して逃げたら、また激しいバッシングを受けるだろう。そんな未来には、刃物で刺される痛みよりも強力な苦しみが待ち受けているかと思うと、恐怖は一気に消え失せた。
 氷室の事件現場で同じ感情を抱けたらどれだけよかっただろう。あの夜、痩身の男に刃物を突きつけられながら、激しい後悔に苛まれていた。
 恐怖心が完全に消失した星吾が笑みを湛えながら賛同すると、男は急に怯えたような表情になり、「薄気味悪い野郎ばかり採用しやがって」と言い残し、逃げるように店を出ていった。もしかしたら、最初から人を傷つけるつもりはなかったのかもしれない。その後、店にやってきた警察から事情聴取され、大変な思いをしたが、犯人はあっけなく捕まったようだ。
 光輝は気の毒そうな口調で言った。
「不採用だったのを恨むなんてかなりダサいけどさ、俺はあの包丁男の気持ちが少しわかるんだよね」
 星吾は驚きを隠せず、思わず顔を見た。彼の横顔には深い憐れみの色が浮かんでいる。眼鏡の奥の瞳が、少しだけ潤んでいるように見えた。
 しばらく間をおいてから、光輝は緊張を滲ませた声で言った。
「この前、心理学研究会の先輩が就活に失敗して自殺未遂したらしいんだ。学食でその話題になったとき、メンバーのひとりが『就活中の自殺って、よく聞く話だよね』って半笑いしていた。でも……どうしても笑えなかった。就活のこと考えるとぞっとするし、たとえうまく就職できたとしても、景気がいいときはいいけどさ、会社なんて不況になれば椅子取りゲームじゃん。上司の顔色窺って、いかに自分が有能なのかをアピールして結果をださないと生き残れない。そんな厳しい社会で生きていたら、たまに包丁男みたいなのが生まれるのかもしれない。俺は優秀じゃないからさ、なんか他人事に思えなかったんだよね」
 光輝が心理学研究会に入会しているのを知らなかったし、こんな真面目な話を聞いたのも初めてだった。
 ふたりだけの空間。なにか秘密を打ち明けられたような気がして、星吾も胸の中にしまい込んだ苦しみを吐きだしたくなる。そう思った刹那、心が挫けた。過去の罪を話したら空気が悪くなるだけだ。普通の学生なりの悩みだからこそ、打ち明けられるし、語り合う意味や意義があるのだ。
 光輝は眉をひそめながら言った。
(#6へ続く)

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