見出し画像

あの子の母親、電車に飛び込んで自殺したらしいんだ/小林由香『イノセンス』発売前特別試し読み#6

連載中から賛否両論の嵐。
小林由香『イノセンス』期間限定「ほぼ全文試し読み!」

カドブンノベル一挙掲載、WEB文芸マガジン「カドブン」で連載中から大きな反響を読んでいる話題作『イノセンス』。
10月1日の発売に先駆けて、このたびnote上でほぼ全文試し読みを行います。

主人公・星吾を追い詰める犯人の正体は?
犯人当てキャンペーン、近日実施予定!
>>>


「包丁を向けられてもまったく動じなかったのに、どうして学食で紗椰を見たときはあんなにも動揺したの?」
「彼女を見ていると……妙にイライラするんだ」
 星吾は思わず本音を吐露した。
「どうして」
「自分でもよくわからないけど……」
「俺とは逆だね。高校の頃、紗椰のことが気になっていた時期があったんだ」
 光輝はいつも素直で自分の感情に正直だった。きっと、過去に一点の曇りもないのだろう。まっすぐ生きられる人間を目にすると、常になにかに怯え続けている生活に嫌気が差す。
「星吾と紗椰って、雰囲気が似ている。ふたりとも俺にはないものを持っているから好きなんだ」
 最前から光輝は、しきりに腕時計を触っている。緊張しているときに見せる仕草だ。バイトの初日に業務内容を教えているときも、何回も腕時計に触れていたのを覚えている。
 腕時計のベルトはパステルオレンジ。文字盤は澄んだ海のようなライトシアン。右上部には淡い緑色の二匹の蝶。蝶たちはなにか囁くように寄り添っている。
 星吾が中学の頃、同じ塾の友だちがほしがっていた腕時計だ。当時、雑誌に載っているのを見せてもらったことがあった。数量限定のブランド品で、確かベルトと文字盤の色が選べるというものだったはずだ。
 光輝は少し視線を落とすと、かすれた声で打ち明けた。
「俺の姉貴は、双子なんだ。ふたりとも優秀で、ひとりは法律事務所で弁護士をしていて、もうひとりは外資系企業で公認会計士として働いている。しかも姉貴たちは容姿端麗で……でも、俺は幼稚園の頃から身長、体重、成績もすべて普通で、特に人より秀でているものはなにもなかった。唯一自慢できるのは、友だちが多いことくらいでね。人気者っていう以外は、なにも誇れるものがないから、それだけは守ろうと必死だった。だから他人の目を気にせず、ひとりでいられる人間に惹かれるんだと思う」
 そう話す声は、どこか沈んでいるようだった。
 姉たちに対して、劣等感を抱いているのだろうか――。
 いつも周りから愛されている光輝しか知らなかったので、コンプレックスを抱いているなんて思いもよらなかった。接客態度はもちろん、仕事も慣れてくれば完璧にこなし、彼のネガティブな部分を見つけるほうが難しい。
 光輝はどこか遠くを見つめながら唐突に話し始めた。
「紗椰、高校二年の頃、しばらく学校に来なくなったことがあったんだ。俺は紗椰が好きだったから、チャンスだと思って電話をかけた。緊張しながら携帯電話を握りしめて連絡したら、淡々とした口調で『なに?』って返されたんだ。一時間くらい考えて用意した言葉が全部吹っ飛んじゃって、頭の中が真っ白になった。しょうがないから、素直に『どうして学校に来ないの』って尋ねたら、冷静な声で『なんのために学校に行くの』って訊き返された。すげぇ難題だと思わない?」
 光輝は苦笑しながら言葉を継いだ。「偉そうに励まそうとして撃沈。自分の無能さに泣きたくなったよ。余計なことしなければよかったって後悔した」
「それから、ずっと学校には来なかったの?」
「いや、二週間後くらいに、なにもなかったかのように登校してきた。でも、それ以来気まずくて……まともに話せなくなった」
 入店音が鳴り響くと、五十代くらいの白髪の男性が店内に入ってきた。灰色のスーツが雨に濡れて部分的に変色している。
「いらっしゃいませ」
 そう言いながら、ふたりは同時に立ち上がった。
 白髪の男性は籠を手に、カップラーメンや弁当の棚の前を行き来していた。ときどき商品を手に取り、成分表示を確認している。
 他人に無関心な星吾でも覚えているほど、よく見かける常連客だった。いつもは終電に間に合わず、タクシーで来る日が多かったが、今日は普段よりも早い帰宅のようだ。
 星吾は常連客に目を配りながら、頭の隅にあった疑問を小声で訊いた。
「学校に来なくなった理由を知ってる?」
「噂で聞いたんだけど、ひどい出来事があったみたいで……」
 光輝は珍しく思案顔になり、少し言いづらそうに言葉を継いだ。「あの頃、紗椰の母親が電車に飛び込んで自殺したらしいんだ」
 星吾は頬を強く張られた気がした。胸の奥が震えているような感覚がする。
 彼女が駅のホームで泣いていた姿を思いだすと、やりきれない気持ちが押し寄せてきて、息苦しいほどの罪悪感に襲われた。
 なぜ駅で執拗に絡んできたのか、奇妙な嫌がらせをしてきたのか得心した。
 きっと、色白の男と自殺した母親の姿が重なり、星吾の暴言を許せなかったのだろう。もしも駅のホームで母親の自殺を止めてくれる人がいたら――そう夢想する日もあったはずだ。
「由紀恵さんに頼まれていたから、在庫のチェックしてくる」
 星吾はそう声を振り絞ってから、素早くレジカウンターを出てバックヤードに向かった。
 後ろから「了解」という光輝の明るい声が響いてくる。
「いらっしゃいませ。今日はいつもより早いですねぇ」
 光輝は白髪の男性に屈託のない笑顔を向け、無駄のない動きでレジ対応をしていた。
 その姿を確認してから、星吾は急いでバックヤードの中に駆け込んだ。
 明かりはつけないまま顔を伏せ、しばらく足もとを睨みつけていた。呼吸をするたび、自身に対する怒りがじわじわと込み上げてくる。
 紗椰の腕を強く振り払った手が微かに痺れていた。
 フラッシュバックのように、幾度も彼女の泣きだしそうな顔が脳裏に浮かび、胸に暗い翳が広がっていく。
 辛い過去を抱えながら生きている人間は、身近にもたくさんいる。それなのに自分だけが不幸だと嘆き、人に理解されない苦しみから他人を平気で傷つけるような生き方しかできなくなっていた。
 震えている指で電気をつけると、覚悟を決めてパソコンの前に腰を下ろした。
 なぜか氷室に会いたかった――。
 目をそらさずに彼と対峙してみたいという思いが込み上げてくる。
 ぼんやり暗いモニターを眺める。罵られる覚悟はできていた。
 十四歳の頃から変わらない卑怯な男を嘲笑い、叱責してほしかった。けれど、どれだけ待っても亡者は姿を見せてくれない。まるで浅薄な覚悟を見透かされているようだ。
 モニターには、愚か者の顔が虚しく映っているだけだった。

 店の裏口のドアを開けると、傘が意味をなさないような激しい雨が降り注いでいた。雨粒がアスファルトに強く打ちつけられ、水しぶきを上げている。
 上がりが三十分早かった光輝は先に帰り、星吾も日付が変わる頃、深夜番のバイトと交替した。光輝は帰り際まで、星吾の顔色が悪いと心配し、幾度も「大丈夫か」と声をかけてきた。そのたびに笑顔で「大丈夫」と答え、平静を装いながら仕事を続けた。
 どうしても光輝の前では、本心を隠そうとしてしまう。
 ビニール傘を広げ、緩慢な足取りで大通りに向かって歩き始めた。
 力仕事をしたあとのように全身がぐったり疲れ切っている。身体だけでなく、ひどい脱力感が心を覆っていた。
 傘を持つのも面倒で、投げ捨てたい衝動に駆られる。
 鬱々とした感情を抱えたまま、ひたすら重い足を前へだす。足を動かすことだけに意識を集中した。そうしなければ立ち止まってしまう予感がしたのだ。
 深夜のせいか、大通りには大型トラックしか走っていなかった。
 ヘッドライトが雨に滲んで、ぼやけた光を放っている。
 ビニール傘を激しく叩く雨音が、やけに耳障りだった。
 横殴りの雨が服を濡らす。傘はほとんど役に立たない。それなのに、傘を手放せないのはなぜだろう。歩道の水溜まりを避けることなく歩き続けた。
 靴の中に水が入り、不快な気分になる。
 子どもの頃は、雨の日にわざと靴の中に水を入れ、傘も差さずに家に帰ったこともあった。風邪をひくのも気にせず、無邪気に自然と一体になれた頃が懐かしい。
 思い返せば、氷室の事件が起きる前は、世界は楽しいことで満ちていた。
 幸せだった頃に思いを馳せながら、駅とは逆方向の街灯の少ない歩道を進んでいく。
 突如、前方から強い光線が射し込んできた。
 星吾は双眸を細めた。大型トラックのヘッドライトが煌々と光を放っている。水しぶきを上げて通り過ぎていくと、また後方から別のトラックがやってくる。
 歩を止め、ヘッドライトに照らされた前方に目を凝らした。
 まっすぐ続く歩道の先に、蹲っている人影が見えたのだ。
 脳は警告を鳴らしているのに、意思に反して足はどんどん前へ進んでいく。強い不安を感じながらも、近づこうとする足は止められなかった。
 幻のように見えた人影は、距離を縮めるにつれて現実味を帯びてくる。
 星吾はあと数歩のところで立ち止まり、雨音に掻き消されそうな声で尋ねた。
「こんなところで……なにしてるの」
 顔を上げた紗椰は、弾かれたように立ち上がった。
 大きな瞳は困惑に揺れている。怯えからか、それとも雨のせいで凍えたのかわからないが、薄い唇がわなないていた。前髪が額に張りつき、頬にはまったく血色がない。その憔悴した顔に見覚えがあった。
 鏡に映る自分によく似ていたのだ。
 出会った頃から不思議だった。彼女からは憎しみだけでなく、戸惑い、怒り、哀しみの感情がいつも漂っていた。
 紗椰にかかる雨を防ぐように傘を差しだすと、彼女はかぶりを振った。
「平気だから」
 そう言うと傘を軽く手で押し返し、黙ったまま目を伏せた。
 傘は誰の役にも立てず、中途半端な位置で戸惑っているようだった。
 当たり前の言葉が、星吾の口からこぼれた。
「ひどい雨だよ」
「今日、どうしても言わないといけないことがあって……」
 紗椰は絞りだすような声で言った。「あの男の人は自殺なんてしてない。勘違い……嘘をついてしまったの」
 そう打ち明ける声は、自供を迫られた犯人のように震えていた。
 星吾は呆然と彼女を見つめながら口を開いた。
「でもスマホで検索したら本当に……」
「あの人じゃない」
「どういうこと」
「駅で人身事故が起きたのを知って、あの人が死んでしまったと思った。だから、あなたの発言が許せなくなった。でも、同一人物かどうか急に不安になって、さっき駅員さんに教えてもらったの」
 あの日、色白の男は駅員室に連れていかれ、必要な書類に個人情報を記入していたという。彼女が何度も頭を下げて尋ねると、人身事故の被害者は彼ではないと教えてくれたそうだ。
 動揺している彼女とは対照的に、星吾の心は急速に鎮まっていく。怒りは心のどこにもない。今あるのは、感謝の思いだけだった。
「もしかして……それを伝えようとしてコンビニで待っていてくれたの?」
 紗椰はうなずくと、「ごめんなさい」とつぶやいた。
 星吾は行き場を失った傘を閉じた。
 全身を打つ雨は、なぜか子どもの頃のように心地いいものに感じられた。
 紗椰は顔を歪めて言葉を吐きだした。
「ひどい嘘をついてしまって……」
「違う。悪いのは僕だから」
 星吾は断言した。「この先、あの人が自殺しないとは言い切れないし、あのときの言葉は、暴言だったと思う」
 泣きだしそうな彼女の顔を見ていると、心が共鳴するような不思議な感覚が走った。
「さっきコンビニで……お母さんの話を聞いた。僕の言動を許せなくても当然だよ。やっぱり、ひどいことをしたと思っている」
「勝手に母の出来事と重ねて……八つ当たりみたいなことをしてしまった。それに、ひどい誤解をしていたみたいで」
「誤解?」
「光輝君から聞いたの」
 先ほど、彼にいっさい変わった様子はなかった。紗椰となにか話したような素振りも雰囲気も感じ取れなかった。いや、彼女の話をするとき、しきりに腕時計に触れていたのを思い返すと、もしかしたら動揺を隠していたのかもしれない。
 紗椰は驚くべき言葉を口にした。
「光輝君は、『星吾はとてもいい奴だ』って言っていた。あんなに優しい人間は見たことがないって」
 なにかに引き寄せられるように、星吾はコンビニを振り返った。そのまま明るい光を放つ看板をしばらく見つめていた。ゆっくり視界が滲んでいく。心を覆っていた分厚い殼が雨に打たれ、ひび割れて剥がれ落ちていくのを感じた。
 次の瞬間、咄嗟に身を強張らせた。
 トラックに多量の水しぶきをかけられたのだ。
 ふたりの視線が交差すると、強張っている肩が丸くなり、口もとが緩んだ。
 激しい雨の中、どちらからともなく笑い合っていた。

 宇佐美の研究室に入ったのは一週間ぶりだった。
 学会に出席していたため、ここ数日は大学にいなかったようだ。
「これは刑事の勘だが、その女は怪しいな」
 宇佐美はそう言うと、まるで敏腕刑事を演じるように腕を組んだ。
 突っ込みを入れるのも面倒になり、星吾は率直に尋ねた。
「なにが怪しいんですか?」
「初めて黒川紗椰と会ったのは、お前がいつも利用している最寄り駅のホームで間違いないな?」
 星吾はしかたなく刑事ごっこに付き合うように「間違いありません」と軽くうなずいてみせた。
「つまり、お前が出会ったのは駅が最初だが、向こうは違うということになる。彼女は以前からこっそり音海の行動を観察していた。まるでストーカーみたいにな」
「僕にストーカーしてなんのメリットがあるんですか」
 宇佐美は難しい顔で顎を掻きながら、「問題はそこだ。まったくメリットがない」と破顔した。
 現実感の伴わないあの夜は、激しい雨が降り続いていたため、あまり会話ができなかった。まだ宇佐美には、紗椰の母親が自殺したことを話せないでいた。そこまで話してしまうのは彼女を軽んじているようで憚られた。人に言えないような過去を抱え、噂に苦しめられてきたせいか、他人のことを語るときは慎重になってしまう。
 星吾は故意ではない可能性を口にした。
「もしかしたら住んでいるところが近くて、僕の姿を偶然見かけただけなのかもしれません」
「偶然見かけた人間を覚えてるなんて、ずいぶん記憶力がいいな」
「印象に残るような……冷淡な行動ばかりだったから」
 暗い空気を消すように、宇佐美は軽い口調で言った。
「まぁ、どちらにしろ、そいつはミステリ小説でいうところの謎の女だな。でも大抵、恋は謎から始まるものだから、そういう出会いも悪くない」
 星吾は急に白けた気分になり、わざとらしく溜息をついた。
「この大学に彼氏がいるみたいですよ」
「彼氏がいたら恋しちゃいけないのか? いくら法治国家でもそんな決まりはないだろ」
「そもそも恋なんてしていませんから」
「誰にも遠慮する必要はない。お前はもっと肩の力を抜いて学生生活を楽しんでもいいんだ」
 その言葉には軽口以上の深い意味が含まれている気がして、急に居心地が悪くなる。
 罪を抱えている人間にとって、幸福感と罪悪感は常に一体となってあらわれる。永遠に消し去ることはできないのに、心が少しでも幸せを感じるたび、誰かが頭の中で被害者遺族の苦しみを忘れるなと叫ぶのだ。その声を打ち消すことはできない。なぜなら、叫んでいるのは他の誰でもなく、もうひとりの自分自身だからだ。
 宇佐美は胸中を察したのか、真剣な面持ちで苦言を呈した。
「お前が闘うべき相手は、見えない敵じゃない。恐れるものは、いつだって己の心が作りだす」
 その言葉はあながち間違いではないのかもしれない。
 数日前、パソコンのモニターをしばらく凝視していたが、いつまで待っても氷室はあらわれなかった。自分の弱さが、亡者を映しだしているのかもしれない――。
「とにかく、悩み事があるときは研究室に来い。お茶くらいならいつでもだしてやる」
 星吾はできるだけ明るい声で言った。
「大丈夫だと思います。最近は嫌がらせもなくなって、普通の生活が送れていますから」
「普通の生活か……」
 宇佐美は憐れむような表情になると「そりゃ、なによりだ」と微笑んだ。

 五限目まで講義が入っていなかったので、研究室を出てから遅めの昼食をとるために学食へ向かった。腕時計に目を向けると、もう一時半を過ぎている。
 混み合う時間帯を避けたせいか、学生の姿はほとんど見当たらず、学食は閑散としていた。
 星吾は人の少ない時間に昼食を済ませるのが好きだった。けれど、今日はたくさん席が空いているのに、どこに座るべきか悩んでしまう。
 窓際のテーブル席に、光輝がひとりで座っていたのだ。どことなく険しい表情を浮かべている。すでに食べ終わったのか、テーブルには飲み物のカップと本が置いてあった。本を読む様子はなく、ときどき眉根を寄せて中庭のほうに目を向けている。
 彼はいつも大勢の仲間たちに囲まれ、賑やかに食事をしていたので珍しい光景だった。仲のいい友だちは、みんな講義が入っているのかもしれない。
 光輝が他の学生たちといるときは、星吾はできるだけ離れた場所に座り、気づかれないように努めた。友だちを紹介されるのが面倒だという理由もあるが、それ以上に人間関係をうまく築けない自分が仲間に加わり、光輝に迷惑をかけるのが嫌だったのだ。けれど、相手がひとりのときに離れた席に座るのは、あまりにも不自然だ。
 これだけ学生が少ないのだから、声をかけても問題ないような気がする。
 自分が面倒くさい人間だと再認識し、思わず溜息がこぼれた。
 あっという間に出来上がったカレーをトレイに載せてからも、しばらくその場に佇んで、どうすべきか悩んでいた。
 一瞬、周囲の音がすっと遠のいた。
 なにか気配を感じたのか、光輝が鋭い目つきでこちらを振り返ったのだ。かつて見たこともないような邪気に満ちた眼差しに気圧され、星吾は内心たじろいでしまった。
「ここで一緒に食べよう! ひとりで寂しかったんだ」
 光輝は大声でそう言いながら手招きしてくる。普段の穏やかな表情に戻っていた。
 見慣れた柔らかい笑顔にほっとし、星吾は同じテーブル席に腰を下ろした。
 すぐに動きを止めた。テーブルに置いてある文庫本から目が離せなくなる。タイトルの『罪の果て』という文字が歪んで見えた。カバーが外された文庫本は、角が少し丸くなって色褪せている。繰り返し読んだ形跡があった。
 視線に気づいたのか、光輝は文庫本を片手に訊いた。
「読んだことある?」
 星吾が弱々しくうなずくと、彼は笑みを浮かべて言った。
「この小説好きなんだ」
「……どんなところが?」
「どんなところって……自分のために命をかけて復讐してくれる相手なんていないだろ。親だって、なんだかんだ理由つけて、『こんなことしても息子は喜ばない』とか言って、結局復讐はしない。でも、この物語の父親は自分の人生ぶっ壊してでも、息子の復讐をした。それって、すごい愛情だよね」
「そうは……思えない」
「どうして」
「自分のために、父親が不幸になるなんて辛いから」
 光輝が息を呑むのがわかった。彼は視線を彷徨わせてから、少し目を伏せて黙り込んでしまった。口をつぐんだまま、鈍い動きで腕時計のベルトに触れている。
 なにか気に障さわるようなことを言ってしまったのだろうか。空気が重く淀んでいく。
「その感想……星吾らしいね」
 顔を上げた光輝の笑顔は、どこか痛々しかった。
 なぜだろう。どこに行っても『罪の果て』がまとわりついてくる。この小説を目にするたび、父の顔が浮かんできてしまう。
 父は、加害者の親になる日が来るとは思いもしなかったはずだ。だからこそ『罪の果て』が好きだったのだ。けれど、あの事件が起きてから父の本棚から一冊の小説が消えた。物語の被害者の父親に傾倒し、寄り添うことはできなくなってしまったのだろう。
 光輝は険しい表情で、中庭に視線を移した。
「あいつが武本」
 そこには意外な人物がいた。
 ひとりは、紗椰が付き合っているという武本伸二。もうひとりは、司書の松原だった。
 一瞬、松原が別人に見えた。彼女は髪を短く切り、ライトブラウンに染めている。陰気な印象はなくなり、マニッシュな雰囲気の中にも少年のような可愛らしさがあった。
 ふたりは中庭にあるハナミズキの近くに立っている。どちらも長身で手足が細長く、まるでモデルのような体形だった。ふたりとも中性的な魅力がある。
 武本は白いシャツにジーンズ姿。髪はやや長く、悠然とした雰囲気を醸しだしている。光輝から聞いていたせいか、育ちのよさが感じられる爽やかな人物だった。
 ファッション誌から抜け出たような武本の姿を目にしたとき、胸がしめつけられるような感覚を味わった。
 ふたりとも深刻そうな表情で立ち話をしている。武本の耳もとに口を寄せ、なにか囁くように話している松原の姿は親密な関係を窺わせた。
 あの雨の夜以来、紗椰とは廊下ですれ違うたび、軽く挨拶を交わすようになった。
 けれど、星吾はやはり彼女が苦手だった。
 紗椰を目にすると全身に奇妙な緊張感が走り、居心地が悪くなるのだ。どんな表情をするのが自然なのか、相手がひとりのときはなにか話しかけたほうがいいのか、そんなことばかり考えて、ひどく疲れてしまう。
「人間ってさ、生まれたときから勝ち組と負け組にわかれてるのかもね」
 光輝はふてくされたような顔でぼやいた。「武本はイケメンだし、あいつの父親は大手企業の重役。マジで羨ましいよ」
 光輝の腕にある腕時計は、何十万もする高価な代物だ。服や鞄もブランドものが多い。彼は裕福な家庭で育ったと思い込んでいたので、金持ちの息子を羨んでいる姿に違和感を覚えた。よく考えれば、コンビニでバイトをしているのも不可思議だ。
 星吾は芽生えた疑問を直接言葉にできず、遠回しに尋ねた。
「その腕時計、かなり高いよね」
 光輝は自分の腕時計に視線を落とすと、嬉しそうに答えた。
「誕生日プレゼントにもらったんだ。自分じゃ買えないよ」
 光輝は急に意味深な笑みを浮かべながら訊いた。「そういえば最近、紗椰と仲よくなったの?」
 想定外の質問に、星吾は「別に仲がいいってわけじゃ……」と言ったきり、二の句が継げなくなる。
 彼女からどこまで聞いているのだろう。駅のホームで色白の男に吐き捨てた暴言のことも聞き知っているのか――。彼の無邪気な表情からは窺い知ることはできなかった。
 光輝は柔らかい笑みを湛えながら言った。
「前に紗椰がいきなりコンビニに来て、切羽詰まったような顔で『音海星吾ってどういう人』って訊くから、正直に答えたんだ」
「そのとき、どうして教えてくれなかったんだよ」
「女の子からの相談を誰かに話したら信用なくすだろ」
 光輝は、なにを勘違いしたのか慌てて言葉を継いだ。「俺は悪く言ってないからね」
「悪く言ってもいいよ。事実なんだし」
「星吾はマジでいい奴だよ。俺が保証する。だけど、なんであんなに気にしているんだろう。ふたりはどういう関係なの?」
 おそらく、詳しいことはなにも聞いていないのだろう。
 星吾は安堵感と同時に妙な後ろめたさを感じながら答えた。
「廊下で会ったとき……挨拶する関係」
 ありのままを正直に伝えると、光輝は噴きだした。
「なにそれ? たまに会う近所のおじさんみたいじゃん。お互い相手のことを気にしているのに、本人たちは『挨拶する関係』って、理解不能だよ」
 光輝の口調は明るいが、よく見ると目の下のくまがひどい。初めて会ったのは三ヵ月前。そのときよりも、ずいぶん痩せた気がする。
「吉田、どこか具合が悪いのか?」
 星吾の心配をよそに、光輝は驚いたように目を丸くし、椅子を弾き倒す勢いで立ち上がった。そのまま微動だにせず、こちらの顔を食い入るように見つめてくる。
「急にどうしたんだよ」
 星吾が戸惑いを言葉に滲ませながら訊くと、光輝は拳を天に高く突き上げ、学食中に聞こえる声で「ついに苗字に昇格した!」と叫び始めた。
 調理場のスタッフや数人いる学生たちの視線を集めてしまい、星吾は最悪な気分になった。
 光輝は身を乗りだし、興奮した口調で言った。
「今度は苗字じゃなくて、名前で呼んでみて」
「嫌だよ」
「リピートアフターミー、ミツキ」
「だから嫌だって」
 恥ずかしくて中庭のほうに顔を向けると、こちらを見ていた松原と視線がぶつかる。そのまま目をそらさず、冷たい眼差しを投げてきた。
 彼女は騒ぐ学生が嫌いだ。うるさい学生たちを目にするとあからさまに眉根を寄せ、嫌悪感を露わにする。おそらく、星吾たちが騒いでいるように見えたのだろう。
 松原はロングスカートを揺らしながら、旧図書館に続く道を歩きだした。
 長身の彼女に似合う細身のデザインだった。
(#7へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?