先生は殺したいほど恨んでいる相手がいると言っていた――/小林由香『イノセンス』発売前特別試し読み#7
連載中から賛否両論の嵐。
小林由香『イノセンス』期間限定「ほぼ全文試し読み!」
カドブンノベル一挙掲載、WEB文芸マガジン「カドブン」で連載中から大きな反響を読んでいる話題作『イノセンス』。
10月1日の発売に先駆けて、このたびnote上でほぼ全文試し読みを行います。
主人公・星吾を追い詰める犯人の正体は?
犯人当てキャンペーン、近日実施予定!
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涼しい屋内とは打って変わり、外は蒸し暑くて不快な気分になる。
四限目に講義が入っている光輝とは、先ほど学食で別れたばかりだった。学食を出る間際まで「名前で呼んでみて」とせがまれ、対応に困ってしまった。
講義のない星吾は時間をつぶすため、のんびりした足取りで美術室まで進んでいく。B棟の建物に沿うように延びている道を歩きながら、同じ疑問ばかりが頭の中をぐるぐる回っていた。
学食にいたとき、光輝が険しい表情を浮かべていたのはなぜだろう。あのとき中庭には、親密そうに話をしている松原と武本の姿があった。ただの偶然かもしれないが、『罪の果て』がテーブルに置いてあったのも気になる。
まさか、ベランダに投げ込んだ犯人は光輝なのだろうか――。
それは浅薄な考えだと思い直した。理由が見つからないうえ、もしも彼が犯人なら、嫌がらせをした相手の前で投げ込んだ文庫本を見せるはずがない。そんなことをすれば、自分が犯人だと主張しているようなものだからだ。
宇佐美の研究室にも同じ小説が置いてあった。ミステリ好きなら所持していてもおかしくない有名な作品だ。光輝もミステリ小説を好んで読んでいるのだろうか。
今まで他人に興味を持てなかったのに、光輝のことは知りたくなってしまう。それなのに、いつも素直に質問できなかった。
木々の枝葉が風に揺れ、生き物のようにさわさわと動いている。
星吾はなんの気なしに空を見上げた。分厚い雲間から光がもれ、輝く帯が地上に向かって放射状に降り注いでいる。その幻想的な光景に誘われ、足を止めた。
次の瞬間、びくりと肩を強張らせた。
突然、上空から白い物体が落下してくるのが目に入ったのだ。直後、ガラスが割れるような音を響かせて、白い物体はすぐ目の前で粉々に砕け散った。
破片が足もとに飛んでくる。ぎこちない動きで、慌てて身を引いた。
数秒遅れて、上空から青紫の花がひらひらと舞い落ちてくる。
ドライフラワーのラベンダー。砕け散ったのは、陶器の花瓶。そう認識した途端、恐ろしい想像が頭に浮かんだ。
ゆっくり首を動かし、周囲に目を向ける。
陶器が割れる音が聞こえたのか、少し離れた場所にいるふたりの男子学生たちが不思議そうな顔つきでこちらを眺めていた。どちらも見知らぬ学生だ。
その場をすぐに離れなければならないのに、切迫感が募るばかりで動けずにいた。
B棟を見上げると、二階、三階の窓は閉まっている。けれど、四階の窓は開いていた。美術室の窓だ。風に煽られ、カーテンが揺れている。
思わず目を凝らした。
鼓動が急速に速まっていく。
カーテンの向こうに人影が見えたのだ。
星吾は美術室に向かって全速力で駆けだした。
B棟のエントランスを抜けて廊下に出ると、長身の男と視線がぶつかる。
武本伸二――。
彼とは一度も言葉を交わしたことはない。それなのに、武本は因縁の相手に向けるような鋭い視線を投げてくる。その挑戦的な眼差しに射すくめられ、星吾は額にじっとりと汗が滲んでくるのを感じた。
咄嗟に嫌な予感を覚えて身構えたが、武本はさっと目をそらし、涼しい顔で横を通り過ぎていく。柔軟剤のような甘い匂いが漂ってきた。
星吾は我に返り、また廊下を駆けだした。
人影を見てから二分も経っていないのを考慮すると、犯人はまだ美術室の近くにいるかもしれない。
エレベーターのインジケーターは四階を示していた。降りてくるまでに時間がかかる。
星吾は乗降用ボタンを押すのをやめて、全速力で廊下を走り、階段を駆け上がった。
肉体的な疲労か、それとも精神的な恐怖からなのかわからないが、心臓は張り裂けそうなほど早鐘を打っている。足がもつれ、何度も階段を踏み外しそうになった。
旧図書館で画集が落下してきたのも、誰かが故意に行った可能性が高い。
犯人は自分を狙っているのだ。
四階の廊下に出ると、突き当りにある教室に向かって走っていく。
美術室のドアは、まるで誘導するかのように口を開けて待っていた。鼓動が速まるほど、胸の中の不安はどんどん色濃くなっていく。
あの先には、いつもの教室はなく、不幸へとつながる闇の世界が待ち受けている気がして足がすくみそうになる。
ふいに、醜悪な自分の姿がよみがえってきた。
怒りに支配され、なにかに取り憑かれたかのように画用紙を幾度も踏みつける足――。
その後の記憶をたどってみたものの、数日前の出来事だったため、美術室を出たときにドアを閉めたかどうか思いだせなかった。普段なら必ず閉めているはずだ。
ドアまであと数歩のところで、恐怖を伴う戸惑いが生まれた。
宇佐美を呼んでから室内に入るべきだろうか。いや、もう犯人はいないかもしれないが、一刻も早く確認したいという気持ちが勝った。
鞄の外ポケットに手を滑り込ませ、お守りを取りだして強く握りしめる。覚悟を決めて駆け込むと、そこには意外な人物の姿があった。
星吾は肩で息をしながら、広い背中を呆然と眺めた。
静寂に包まれた教室に、自分の激しい呼吸音だけが響いている。心臓が脈を打つたび、困惑はさらに深まり、思考が麻痺していくようだった。
窓際にいる男の服装も体格も見慣れている。それなのに顔を確認するまで心が休まらなかった。
「先生……」
声は届いているはずなのに、宇佐美は窓の外に視線を据えたまま、まったく反応しない。
室内を見回すと、どこにも花瓶とラベンダーが見当たらなかった。落下してきたのは、間違いなく美術室に置いてあったものだと確信した。
嫌な予感が頭をもたげた。
先生は殺したいほど恨んでいる相手がいると言っていた――。
星吾が近寄ろうとすると、甚平姿の男は硬い表情で振り返った。
そのまま彼は怪訝そうに目を細め、観察するようにこちらをじっと見つめてくる。視線は、星吾の右手に注がれていた。
慌てて手にあるお守りを隠すように鞄のポケットに戻し、少しだけ顔を伏せた。うまい言い訳が見つからない。
場は険悪な雰囲気になり、余計になにも話せなくなってしまう。
宇佐美は、なにを持っていたのか気づかなかったのか、星吾の全身に目を走らせてから尋ねた。
「怪我はなかったか?」
「僕は……大丈夫です。でも、どうして先生がここに……」
数秒の沈黙が流れたあと、彼は顔をしかめた。
「おいおい、俺はなにもしていないぞ。美術室のドアが開いていたから様子を見に来たんだ」
冷静に観察してみたが、宇佐美が嘘をついているようには見えなかった。
窓から顔をだして地面を覗き込む宇佐美に倣い、星吾も隣に立って覗いてみる。無残に砕け散った花瓶とラベンダーの残骸が見えた。
「俺がこの部屋に来たときは誰もいなかった。でも、窓が開いていたから気になって外を覗いてみたら駆けていくお前の後ろ姿が見えたんだ。地面には破片のようなものが散らばっていたから、まさかと思ったんだが……」
きっと、カーテンの向こうに見えた人影は宇佐美だったのだろう。
初めて事の重大さに気づいた。
花瓶が落下してきてから窓の人影に気づくまでに要した時間はほんの数秒だ。宇佐美が犯人と鉢合わせしていてもおかしくない状況だった。もしも犯人が凶器を持っていたら深刻な事態に陥っていただろう。
最悪な現場を想像するだけで息苦しくなってくる。
「先生は、ここに来る途中で誰かに会いませんでしたか」
「俺は誰にも会わなかった。一体なにがあった? 詳しく状況を説明してくれ」
「学食を出てから美術室に向かおうとしているとき、花瓶とラベンダーが降ってきたんです」
星吾が簡潔に伝えると、宇佐美は呆れたような笑みを浮かべた。
「花瓶が空から降ってくるわけがない」
「自然現象ではないなら……誰かに命を狙われているのかもしれません」
「心当たりはあるのか?」
星吾は小さく首を傾げた。
恨まれる覚えなら山ほどある。けれど、これまでは精神的な嫌がらせだけで、命を狙われるようなことはなかった。いや、旧図書館での出来事が故意に行われたものだとしたら――。
宇佐美は眉根を寄せ、顎鬚を撫でながら言った。
「昼のニュースでやっていたが、児童が七階のマンションのベランダから卵を落下させて遊んでいたらしい。この大学に善悪の分別がつかないガキがいるとは思いたくないが、もしも偶然ではない誰かの仕業なら、これは悪ふざけじゃ済まされない」
「たぶん、悪ふざけではないと思います」
「思い当たるふしがあるんだな? ひとりで抱え込まず、すべて正直に話せ」
宇佐美の声は珍しく怒気を孕んでいた。
星吾は記憶をたどりながら、おもむろに口を開いた。
「最近、赤色の絵具でデッサン画を汚されました。先生が学会に出席していて大学にいなかったとき、雷で停電になった日があって……そのとき旧図書館の棚から重量のある画集が落ちてきたこともありました」
文庫の脅迫文のこともあり、画集が落下してきたときは警戒心が増したが、日が経つごとに恐怖は薄らいでいった。その後、不審な出来事に遭遇しなかったからだ。
宇佐美はきつい口調で言葉を吐きだした。
「その出来事をどうして言わなかった?」
「先生に……心配かけたくなくて」
「嫌がらせを受け続けたせいで、感覚が麻痺してないか? 起きている出来事は、お前が想像する以上に重大だぞ。当たりどころが悪ければ、重傷を負った可能性もある。今回の花瓶もそうだが、お前は死んでいたかもしれない」
書架から本を落とされた程度だと軽く考えていたため、なにも反論できなかった。
誰かに命を狙われていると実感した途端、胸に恐れの感情が芽生えた。あれほど死にたいと願っていた時期があったはずなのに、相反するような生への執着も併せ持っていることに気づき、少しだけ自分が哀れに思えた。
宇佐美は憤った気持ちを鎮めるようにイーゼルの前まで歩いていくと、床に落ちている画用紙に視線を向けた。
画用紙はイーゼルの真下に寂しく放置されている。描かれている双眸は、何度も踏みつけられたせいで、いくつも靴跡が残っていた。
宇佐美は怪訝そうな面持ちで、画用紙を拾い上げてから訊いた。
「これも犯人の仕業か?」
星吾は気まずくて目をそむけた。落ち着こうとして握りしめた自分の手が氷のように冷たかった。
「それは……自分でやりました」
宇佐美は動揺する素振りも見せず、「相変わらず、変わった学生だな」と、目を細めて笑った。
その優しさを無下にしたくなくて、星吾はできるだけ明るい声で説明した。
「描き上げた絵が気に入らなくて、つい苛立ってしまって……」
「絵を描いていれば、そういうときもある。ところで、花瓶を窓の近くに置いていた覚えはないか?」
ぼろぼろの画用紙なのに、宇佐美は丁寧にイーゼルに立てかけながら問いかけた。
星吾はしばらく考えてから答えた。
「花瓶もラベンダーも教卓に置いていました」
「そうだよな。俺も教卓にあったのを覚えている」
その証言に安堵の気持ちが湧いてくる。氷室の事件以来、自分の記憶に自信が持てないでいた。今もなお事件当日の記憶は曖昧なままだった。
宇佐美はこちらをまっすぐ見据えながら尋ねた。
「最近、誰かに恨まれるようなことをしていないか」
ホームで自殺しようとした色白の男に暴言を吐いたが、彼が大学までやってきて、さらに美術室に忍び込み、花瓶を落として仕返しするとは到底思えなかった。
「黒川紗椰……あの怪しい女はどうだ?」
唐突な質問に、星吾は顔をしかめた。
「彼女は違うと思います」
紗椰のことが頭に浮かばなかったわけではないが、以前ならともかく、あの雨の夜の出来事を思いだすと彼女が悪意を持っているとは考えられなかった。
宇佐美は毅然と言い放った。
「警察に被害届をだしたほうがいい」
「被害届?」思わず声が裏返った。
「相談はしてみるが、大学側に訴えても警察に連絡してくれる可能性は低い。事件が起きても、大抵の問題は学内で処理される。講義室の戸締まりを強化し、施錠のない教室は新たに鍵の設置を検討するだけだ。次にやるのは鍵の徹底管理だ。そんなルールを作ってお茶を濁す。前にも別の学校で似たような事件があったが、教育現場はどこも隠蔽体質だ。真剣に捜査してほしいなら自分で警察に訴えるしかない」
被害届が受理されれば、警察が大学まで来て捜査するのだろうか。
大学関係者に事情聴取を行うかもしれない。忌まわしい過去を掘り起こされ、また変な噂が立つ可能性もある。噂はどこまでも広がり、コンビニのバイトも辞めさせられる事態に陥るかもしれない。光輝や多くの学生たちに過去を知られるのが恐ろしかった。それ以上に心配なことがあった。大学側が内密に処理したかった場合、警察沙汰にすれば宇佐美にも迷惑がかかるのは目に見えている。
星吾は不安を顔にださないように努めた。
「近くに防犯カメラはないし、警察が捜査しても誰がやったか特定するのは難しいと思います。怪我もなかったから、そこまでしなくても……」
「今回は運がよかっただけだ。だが、この先も危険なことが続いたら命に関わらないとも言い切れない」
「それなら、やればいいと思います」
星吾は、眉をひそめている宇佐美の顔を見つめながら言葉を継いだ。「そこまで憎いなら、僕を殺せばいい」
「どんなポリシーだよ。強がって投げやりになるな」
「投げやりではないです。ネットで誹謗中傷され、家族にまで迷惑をかけてしまって、自分が情けなくて簡単に死ねる方法ばかり考えていた時期もありました。でも、臆病だから実行できなかった。それを誰かがやってくれるなら望むところですよ」
氷室を見殺しにしたのに、自分は生にしがみつくなんて不条理な気がした。
室内に重い沈黙が流れ、呼吸が苦しくなる。
しばらくしてから、宇佐美の無機質な声が響いた。
「お前の人生だから好きにすればいい。だけどな、常に死を覚悟して生きるのは、そう簡単じゃない。もしも簡単じゃないと気づいたら、そのときは正直に俺に話せ」
「どうして先生は……そんなにも親身になってくれるんですか」
「他人に親身になる人間は偽善者か? 怪しいか?」
図星だったので星吾は返答に窮した。
宇佐美は自分の動かない左指に視線を落としながら言った。
「お前に干渉するのは、俺自身のためだ。音海がいなくなったら、しゃべる相手がいなくてつまらなくなる。それに、このまま放っておいて、お前になにかあったら俺が苦しむ結果になるからな。残りの人生、そんなくだらない贖罪を抱えながら生きたくない」
「誰かと関われば……僕はいつも相手を不幸にしてしまう」
「俺は痛みを知っている人間が好きだ。今は気が済むまで卑屈になればいい。だけどな、そういう観念的思考は身を滅ぼすだけだ。真実を捻じ曲げて、どこかに逃げようとしても、必ず最後は真実に追いつかれるときが来る」
「僕は真実から目をそむけている、っていうんですか」
「人間はみんな安全に自由に生きる権利がある。もちろん、お前にもその権利はある。そこから目をそむけるのは真実を見ていない証拠だ。それを認めない限り、永遠に立ち上がれない。人間は誰かの操り人形じゃない。お前を救えるのは、お前の意志だけだ」
厳しい口調とは違い、宇佐美は穏やかに微笑んでいた。
こんなにも強く忠告してくるのは初めてだった。
想像以上に危険な状況に身を置いているのかもしれない。そう認識しても、宇佐美の言葉を素直に受け入れられない自分がいた。すべてが空疎な導きでしかない。安全に自由に生きる権利を求めた先に、希望に満ちた未来が待っているとは思えないからだ。
「あの、すみません」
突然、室内に弱々しい声が響き、ドアのほうを見やると、意外な人物が立っていた。感情的になっていたせいか、人がいることに気づかなかった。
紗椰は少し申し訳なさそうな表情を浮かべ、こちらの様子を窺っている。涼しげなオフホワイトのワンピース姿だった。
星吾は動揺を悟られないように尋ねた。
「……どうしたの?」
「光輝君から、ここに来れば音海君に会えるって聞いて……」
紗椰はどこか気まずそうに答えてから宇佐美に挨拶した。「教育学部の黒川紗椰です」
「あぁ、お噂はかねがね伺っています。汚い部屋ですけど、どうぞ、どうぞ」
驚くことに、宇佐美は満面に笑みを浮かべ、まるで自分の家に招くような仕草で彼女を誘導し始めた。ついさっきまで『怪しい女』だと言っていたのが嘘のようだ。
あまりの豹変ぶりに唖然としている星吾を歯牙にもかけず、宇佐美は近寄ってくると小声で「可愛い子だな。一時休戦だ。まだ話は終わっていないから、あとで研究室に来い」と言い残して教室を出ていってしまった。
ドアがバタンと閉まると、室内がしんと静まり返った。
妙な緊張感が漂う中、星吾は額の汗を手で拭った。気を利かせたつもりなのかもしれないが、ふたりきりにした宇佐美が恨めしく思えてくる。
気詰まりな時間が流れていく。
用事があるから美術室に来たはずなのに、彼女は床に視線を落としたまま、なにも話そうとしない。
「急に……なんの用?」
星吾はぶっきらぼうな口調で尋ねた直後、わずかに胸が痛んだ。
彼女の動揺した表情を見て居たたまれなくなる。また失言してしまったことに気づき、己の愚かさに嫌気が差した。
周囲に溶け込めない原因を自覚していた。自然な会話ができないからだ。氷室の事件が起きるまでは、自分の言動に注意してこなかった。それでも周りから疎まれることはなく、多くの友人たちと楽しく過ごせた。けれど、今は慣れない相手との会話が極度に苦手になった。なにか言葉を発するたび、相手を不快にさせてしまいそうで怖くなるのだ。
「嘘をついたこと……もう一度、ちゃんと謝りたくて、先生と話していたのに邪魔をしてしまったみたいで、ごめんなさい」
紗椰はそう言うと、ドアに向かって歩きだした。
「邪魔じゃない。暇だから」
星吾が慌てて声をかけると、振り返った紗椰は目を丸くし、少し戸惑っている様子だった。
「暇っていうか……時間はある。それも、たくさん」
星吾が慎重に言葉を探して伝えると、彼女はくすくす笑いだした。
唐突に、雨の夜の記憶が舞い戻ってくる。
トラックに水をかけられ、ふたりで笑い合った歩道――。
どうしてだろう。胸の辺りがあたたかくなるのを感じた。
彼女の笑顔を目にしたせいか、先刻までの不安は収まり、わずかに呼吸が楽になっていく。
彼女はイーゼルの前に立つと、そこに置いてある画用紙に目を向けた。
誰にも観られたくない絵なのに、どこまで運が悪いのだろう。
いつもは感情が剥きだしになるような絵は描かなかった。どちらかといえば、穏やかな印象の風景や花を好んで描いていたのに――。
星吾は陰鬱な気分を押し殺し、言い訳めいたことを口にした。
「失敗作だから捨てようと思っていたんだ」
それでも紗椰は、感情の読めない表情で絵をじっと見つめている。
星吾は気まずくなって視線を落とした。小さな溜息がもれる。鎮まったはずの胸のざわめきが、またぶり返してきた。
絵は時として、描く人間の本性をあらわしてしまうことがある。胸の奥に隠し持っている、卑怯で薄汚い部分を覗かれているようで落ち着かなかった。
「この人……」
紗椰はなにかつぶやいた。
思いきって見た彼女の顔は、憐れみも嫌悪感も宿していなかった。予想に反して、安堵しているような、嬉しそうな表情を浮かべている。
「この人は誰を見ているの?」
その質問に胸が騒ぐ。心が乱れ始めた。
いたってシンプルな問いなのに、窮地に追いつめられた気分になる。氷室が見ている相手を答えれば、どういう関係なのか尋ねられそうで怖かったのだ。心を覗かれたくないから、いつだって嘘が口からこぼれる。
「その人は誰も、なにも見ていない」
星吾の答えを聞いても、紗椰は黙ったまま真剣な眼差しで絵を眺め続けていた。
しばらくすると憂いを帯びた表情になり、彼女は弱々しい声で意外なことを口にした。
「この人と……同じ目をしている人を知っている」
「それは、誰?」
星吾はなにかに誘われるように問いかけた。
「私の母」
紗椰の瞳は、深い哀しみを湛えていた。
どうして彼女の母親が、氷室と同じ目をしているのだろう。その目は誰に注がれているのか。瞬時に様々な疑問が湧き上がってくる。
「黒川さんの……」
学食で光輝のことを「吉田」と呼べるようになってから、彼女の苗字も自然と口にすることができた。そんな自分に驚きながら、星吾は言葉を続けた。
「黒川さんのお母さんは、その目で誰を見ているの?」
「私よ」
紗椰はさも当然のように答えてから、窓際まで行くと外を見やった。「光輝君から、音海君と私は似てるって言われた。それから、いろいろ気になり始めて……」
自分と似ていると言われれば、その相手が気になる心理は理解できる。
「それから音海君を見かけるたび、目で追ってしまうようになった」
「僕たちは似てないよ」
「とても似ていた」
紗椰は、有無を言わせない断定的な口調だった。
星吾は強張った声で訊いた。
「僕らのどこが似ているっていうの?」
「愚かで、卑屈で、自分本位で、自己愛が強くて、自意識過剰で、それなのにとても弱くて……生きるのがとても苦しそうで……」
屈辱的な言葉を投げつけられるたび、平常心が決壊するほどの哀しみが胸に押し寄せてくる。歯を食いしばってどうにか堪えた。そうしなければ、立っていることもできないほど震えていたからだ。
これまでも自分に向けられた暴言はネット上で幾度も目にしてきたが、面と向かって言われたのは初めてだった。的を射ている残酷な言葉にどう向き合えばいいのかわからず、星吾は本音を吐きだした。
「黒川さんには、僕のことはわからないよ」
その言葉は憤りからではなく、過去を知っているのではないかという怯えと恐怖心から出たものだった。
紗椰は我に返ったかのように、はっとした表情をみせた。
「失礼なことを言ってごめんなさい。でも、音海君の行動を見ているうちに、私とあなたは同類なんじゃないかと思えた」
以前、星吾は自分の顔が彼女に似ていると感じた。シンパシーを覚えたのは事実だ。あのとき、紗椰自身も星吾の中に自分の姿を見たのかもしれない。
「いつか……お互いあの目から逃れられる日が来ればいいのにね」
紗椰は憐れんでいるような、軽蔑しているような複雑な表情で言った。
あの目から逃げたいと思っていることを、なぜ彼女は知っているのだろう――。
頭に浮かんだ疑問は言葉にならなかった。
素直に理由を尋ねられないのは、己の過去を語りたくないからだ。後ろめたい過去がある人間ほど、質問が下手になる。
紗椰は嘘をついたことを丁寧に謝罪してから歩きだした。
星吾が振り返ろうとしたとき、バタンとドアが閉まった。
吐きだした溜息が周りの空気を孤独に染めていく。見知らぬ場所にひとり取り残された気分になり、次になにをすればいいのかわからなくなる。
屈辱的な言葉を浴びせられても、なぜか怒りは湧かなかった。『同類』という甘美な響きが、負の感情を溶かしていく。
あの事件以来、普通の人間とは違う卑怯者、普通とは違う愚か者だと感じて生きてきた。ネットでもひどい言葉を浴びせられた。匿名の書き込みを読んでいて気づいた。彼らは『卑怯な少年とは違い、自分だけは正義を貫く崇高な生き物だ』ということを証明したいのだ。
そのせいか『同類』という言葉は胸に感動を呼び起こし、大きな安らぎを与えてくれる。同時に、深い同情を覚えた。
自分の痛みさえ対処できないのに、ある疑問が頭から離れなかった。
彼女の過去になにがあったのだろう。
同じくらい深い罪を抱えていればいいのに、そんな卑しい感情が芽生えた瞬間、すぐに現実に引き戻された。
助けてくれた人を置き去りにし、逃げだしてしまったときの心境を彼女に話しても、きっと理解してもらえないだろう。
おそらく同様の事件に巻き込まれたら、彼女はすぐに救急車を呼び、被害者を助けたはずだ。それは宇佐美も光輝も同じだ。そう考
えると、やはり自分には決定的になにかが欠けていると思い知らされた。
先ほどまで抱いていた同類という安堵感は、思い込みに過ぎない。誰にも期待しないと決めたはずなのに、ここ最近は他人に希望を見出そうとしてしまうことが増えた。
あの事件以来、同じ夢ばかり見ている。
ひとつは氷室の夢。
もうひとつは、海で溺れている少年の夢――。
凪いだ海原。どこまでも広がるのは、血液の混じった赤い水。どうしてなのかわからないが、それは氷室が流した血だと夢の中で認識していた。
少年は海底でもがきながら必死に上空を見上げている。今にも泣きだしそうな表情だった。
遥か彼方に見える海面には、太陽の光がゆらゆら揺れている。どうにか浮上したくて、少年は光に向かって必死に手を伸ばす。けれど、手足にまとわりつく赤い水がそれを許してくれない。身体が重くなり、深く沈んでいく。息が苦しくて、こめかみの血管がはち切れそうなほど浮き出ていた。
少年の口からごぼごぼと気泡が上がり、次第に意識が遠のいていく。
決まって、いつもそこで夢から覚める。実際に海の底にいたかのように全身は汗だくになり、呼吸まで荒くなっていた。
今もなお、どれほど考えても、どれだけ祈り続けても、氷室の血の中でもがく少年を救う術は見つけられないままだった。
(#8に続く)
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