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母はね、父が通勤時に乗っていた電車に飛び込んで自殺したの/小林由香『イノセンス』発売前特別試し読み#9

連載中から賛否両論の嵐。
小林由香『イノセンス』期間限定「ほぼ全文試し読み!」

カドブンノベル一挙掲載、WEB文芸マガジン「カドブン」で連載中から大きな反響を読んでいる話題作『イノセンス』。
10月1日の発売に先駆けて、このたびnote上でほぼ全文試し読みを行います。

主人公・星吾を追い詰める犯人の正体は?
犯人当てキャンペーン、近日実施予定!
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 駅の構内は、朝の通勤ラッシュでひどく混み合っていた。
 星吾はホームに向かう乗客たちと歩調を揃え、足もとを見ながら長い階段を下りていく。
 朝のホームは、蛹が羽化するときのような独特の緊張感が漲っている。乗客の誰もが素の自分から社会に適合する人間に変わろうとしているようで、少し息苦しさを覚えた。
 ホームを歩くたび、あの色白の男を思いだしてしまう。彼が生きていたと知ったときの喜びが忘れられないでいた。もしかしたら、彼は羽化に失敗し、羽が伸びきらず、うまく飛ぶことができなかったのかもしれない。あの朝、そんな人物にひどい言葉をかけてしまったのだ。
 微かに自己嫌悪を感じながら、人混みをかき分けてホームの端まで進み、電車を待つ列の最後尾に並んだ。前にはスーツ姿の男女が三人ほどいる。
 電車の到着を伝えるアナウンスが流れると、周囲の空気はいっそう張りつめた。
 突然、肩になにかが触れた。
 横断歩道での恐怖がよみがえり、弾かれたように振り返ると、そこには紗椰の姿があった。
 彼女は、長い髪をサイドに集めて緩く結んでいる。淡い紫のノースリーブのワンピースが涼しげで、とてもよく似合っていた。
「ごめんなさい。驚かせてしまったみたいで……」
 恐縮しきっている姿を見ていると、こんなことで震えおののいている自分が無性に情けなくなってくる。
 星吾は沈んでいく気持ちを紛らわすように、平静を装いながら尋ねた。
「黒川さんもこの駅の近くに住んでるの?」
 彼女は笑顔でうなずくと答えた。
「私は実家から大学に通ってる」
 前に光輝は、紗椰と同じ高校だったと話していた。きっと、ふたりともこの近辺で生まれ育ったのだろう。
 突然、笑みを浮かべた紗椰が誰かを指差した。その先を追うと、スーツ姿の男に行き当たった。
 胸の中に不思議な感覚が走り抜けていく。同時に高揚感が湧き上がってくるのを感じた。
 乗客に紛れるように、あの色白の男がいたのだ。
 皺だらけだった灰色のスーツには、綺麗にアイロンがかけられている。無精髭はなく、見違えるほど血色もよくなっていた。
 紗椰は安堵した表情で、到着した電車に乗り込む男の姿を見守っていた。その慈愛に満ちた横顔を目にしたとき、妙な気持ちになった。
 笑うと少し下がる目尻、右頬にある小さな黒子、長いまつげ、彼女の細部を一つひとつ眺めていたい心境になる。
 後ろにいる乗客たちに急かされるように、ふたりは車内の中ほどまで押し込まれていく。周囲は肩が触れ合うほど混雑していた。
 華奢な肩から伸びる白い腕。星吾は慌てて視線をそらし、正面に目を向けた。手を伸ばしてつり革につかまると、自分の腕によって彼女との間に隔たりができた気がして、少しだけ気持ちが落ち着いていく。
 ドアが閉まり、電車はゆっくり動きだした。
 密着した空間での沈黙は耐え難いものがある。なにか会話の糸口を探そうと試みたが、気が急くばかりでなにも言葉が思い浮かばなかった。
 電車に揺られ、ときどき彼女にぶつかってしまう。つり革につかまる手に力を込めた。
「幽霊って、本当に存在すると思う?」
 一瞬、耳を疑った。
 隣を見やると、視線がぶつかる。先ほどまでの緊張が一気に消し飛ぶほど、彼女は冷たい表情を浮かべていた。
 紗椰はぼんやりした声で、また奇妙なことを口にした。
「電車に飛び込んで死んだ人の霊は、いつまでも車内にいる気がする」
 目の前に座っている中年男性が、不審な目つきでこちらを見上げてくる。
 星吾は胸騒ぎを覚えながら小声で訊いた。
「もしかして……お母さんのこと」
 紗椰は黙ったままうなずいた。彼女の横顔には哀しみではなく、皮肉めいた笑みが浮かんでいるように見えた。
「通学途中でうたた寝をすると、たまに怖い夢を見るの」
「どんな内容?」
「車内に血だらけの母が立っている夢」
 彼女は微かに笑んでいるが、どこか怒りを含んでいるような声音だった。
 冷房が効きすぎているせいか、少し肌寒さを感じる。
「母はね、父が通勤時に乗っていた電車に飛び込んで自殺したの」
「どうして……」
「父に対する当てつけかもね。『あなたに殺された』って言いたかったのかもしれない。でも、本当に悪いのは父じゃない。母の背中を押したのは、私」
 しばらく沈黙が流れたあと、紗椰は感情のない口調で続けた。「父の浮気が発覚してから、母は別人みたいになった。いつもアルコールの臭いが漂うようになって……精神的に病んでいた母は、娘だけが頼りだったのに、私は『そんなに死にたければ死ねばいい。毎日、愚痴ばかり聞かされるのはもうウンザリ』、そう投げつけた。母が自殺したのは、その翌朝だった」
 ――そんなに死にたいなら、夜にやってよ。朝やられると迷惑なんだ。
 あの日、色白の男に投げた言葉に、とてもよく似ていた。
「音海君と駅で会った日、母の命日だった」
 思い返せば、彼女は白百合の花束を抱えていた。もしかしたら、墓参りに行こうとしていたのかもしれない。
 突然、不快な音を響かせて急ブレーキがかけられた。
 乗客たちのどよめきと同時に、身体が一気に傾く。
 星吾はつり革を強く握り、倒れそうになる紗椰を支えた。
 車内には『急停車します。ご注意ください』という自動アナウンスが繰り返し流れてくる。
 電車が完全に停まると、周囲がざわざわし始めた。
 人身事故でないことを祈りながら、胸に抱えている紗椰の姿を確認した。細い肩が小刻みに震え、押し殺した泣き声がもれてくる。
 しばらくしてから、彼女はなにもなかったかのようにそっと離れた。
 かける言葉が見つからない。なにを言っても慰めにはならないのを知っていたからだ。
 恐ろしい夢に苦しめられているのは、星吾も同じだった。
 血潮に染まった海。海底に沈んでいく少年の身体。苦しくて必死に手を伸ばしても、誰も助けてはくれない。空なんて見えないはずなのに、嘲笑うかのようにカラスが上空で旋回しているのがわかる。夢から醒めると決まって、枕が涙で濡れていた。
 紗椰は俯いたまま静かな声で言った。
「音海君を見ていたら……自分の姿と重なった。まるで自分自身を見ているみたいで、あなたが許せなくなって……」
 色白の男が自殺したと告げに来たときの彼女の心情が、今なら痛いほど理解できる。
 紗椰は少し顔を伏せ、声を振り絞った。
「夢の中の母に追いつめられるたび、いつも消えてしまいたくなる」
 この世界から消えてなくなりたい――。
 ずっとそう思いながら、星吾も生きてきた。
 血まみれの氷室の姿が脳裏をかすめた。これまでも亡者に追われる日々の苦しさを嫌というほど経験してきた。あの男に謝り続け、幾度許しを求めただろう。
 夢の中にあらわれる故人は、抱えている気持ちを語ってはくれない。ただ静かに恐怖と痛みだけを残していく。だからこそ、いつまでも記憶の中から消し去れないのだ。
「消えないでほしい」
 星吾は自分でも驚くほど素直に言葉を紡いだ。「僕は……黒川さんを絵に描きたい。描きたいから、消えないでほしい」
 時が心の傷を癒やしてくれるという人もいる。けれど、長く生きるほど徒労感が増していく人間も存在する。だからこそ救いを求め、生きる意味を求めてしまうのだ。
 電車は何事もなかったかのように、少し揺れながらゆっくり動き始めた。

 大学の講義をサボったのは初めてだった。
 動物園に行きたいと言いだしたのは紗椰だ。そのあと、自然公園に行きたいと言ったのは星吾だった。まるで子どもの遠足のようで、少しだけ気恥ずかしくなる。
 星吾は園内の売店で画用紙を購入し、筆箱からデッサン用の鉛筆を取りだして動物たちの絵を描いた。小学校の写生大会のときのような、わくわくする気持ちが込み上げてくる。
 光源の向きを確認して陰影を描いているとき、唐突に色を塗りたいという衝動に駆られた。自分の中に色彩を求める気持ちが隠れていることに少し驚かされた。
 彼女から依頼された絵を次々に描いていく。
 リスザル、ライオン、キリン、梟――。
 梟の顔の部分を宇佐美にしてみると、紗椰は声を上げて笑った。彼女は、星吾の心に様々な感情を連れてくる。不安にさせたり、哀しくさせたり、楽しくさせたりする。だからこんなにも落ち着かなくなるのだ。
「もし草食動物に生まれたら、自由に生きられるサバンナと安全だけど自由には生きられない動物園、どっちで暮らしたい?」
 紗椰の質問に、星吾は即答した。
「動物園」
 なぜか彼女は「そう言うと思った」と、優しげな笑みを浮かべた。
 自然公園でパンを食べ、ふらふらと散歩をし、歩き疲れた頃、芝生の広場に座って紗椰の絵を描き始めた。
 人間を描くのは苦手だった。それなのに彼女を描きたいという思いが湧いてくる。細部まで正確に描写していく。さっきよりも、色彩を求める気持ちが増していた。心が彼女に似合う色を探している。その気持ちに寄り添うように鉛筆は動きだす。
 風が心地よかった。近くにある木々がさわさわと音を立てて揺れている。
 芝生に西日が射し込む頃、紗椰は描き上げた絵を見つめながら訊いた。
「私はこんなふうに笑ってるの?」
「そんなふうに笑ってる」
「それなら……お葬式のときの遺影は写真よりも絵のほうがいいな」
「僕も同じことを思ったことがある」
「パステルカラーで描かれた優しい絵」
 紗椰は自嘲気味に微笑むと言葉を継いだ。「ずっと音海君が苦手だった。自分に似ていたから……それなのに一緒にいると安心する。なぜか気持ちが穏やかになる。音海君なら他の人には理解してもらえない感情をわかってくれる気がするから、だから……気づいたら大切な人になっていたんだと思う」
 一瞬、心が浮き立つような感動を覚えたが、諦めに似た感情がじわじわと光源を塗りつぶしていく。不幸な結末ばかり経験したせいで、人生がうまく回り始めると心は強い不安に駆られる。
 誤解から始まる人間関係はうまくいかない。いちばん哀しくてやりきれないのは勘違いされることだ。勘違いは、いずれ失望へと変わるのだから――。
 星吾は喉もとまで出かかった言葉を必死に呑み込んだ。
 あの事件以来、人から好意を寄せられることは二度とないと思っていた。
 紗椰に惹かれている自分に気づくと同時に、激しい嫌悪感に襲われた。
 胸の中に芽生えた感情を嘲笑う者がいる。
 お前に人を好きになる権利、幸せに生きる資格はあるのか。過去の出来事を隠して、誰かに好きになってもらうのは卑怯者のすることだ。そう責め立てる声が耳の奥から響いてくる。
 十四歳の頃の自分の愚かさや、苦しい気持ちをすべて打ち明け、彼女の同情心に訴えかけたくなる。けれど、なにひとつ言葉になってくれない。
 血だらけの氷室の姿が脳裏に浮かんでは消えていく。
 すべてを知ったら彼女はどう思うだろう。助けてくれた人を置き去りにした、あの日の少年をどう感じるのか――。
 嫌われたくないという切実な思いが込み上げてくる。
 紗椰は混乱の原因を勘違いしたのか、戸惑った様子で言った。
「突然、ごめんね」
 星吾は、彼女の目をまっすぐ見据えながら正直な気持ちを吐露した。
「また黒川さんの絵を描きたい」
 もしも神様がいるなら、どうか許してください。もう少しだけ一緒にいたい。いつか必ず、真実を話します。だからもう少しだけ――。
 できるのは、いつだって虚しく祈ることだけだった。

 駅から十分ほど歩いた先に、単身者向けの二階建てのアパートがあった。築二十六年、1DKの間取りが十二部屋ある。
 一階のいちばん奥、一○六号室が星吾の部屋だった。
 静まり返った部屋に入ると、照明をつけてから鞄をローテーブルの近くに置いた。テレビやパソコンのモニターには黒い布が掛けられている。埃がかぶるのを防ぎたいわけではない。少しでも姿が映るものが怖かったのだ。
 星吾はテレビを覆い隠している布を外すと、コンビニで買った弁当を袋から取りだしてテーブルに置いた。リモコンを手に取り、液晶画面を見ないようにして電源を入れる。
 夜の報道番組では、昨日発生した土砂災害の状況を伝えていた。
 山が崩れ、土石流が民家を押しつぶす映像が映しだされる。まるで巨大なクモが山の傾斜を這い下りてきて、なにもかも飲み込んでいくようだった。インタビューを受けている少女は、弟がまだ見つからない、と唇を震わせながら泣いていた。すぐに弟を捜しに行きたいと懸命に話す姿を見ていられなかった。
 チャンネルを変更すると、隣県の公園で男性の遺体が発見されたというニュースが報じられている。男性は刃物で背中を刺されて死亡していたようだ。
 物騒な事件から遠ざかりたくて、またチャンネルを変えようとして手を止めた。
 思わず息を呑み、画面に見入ってしまう。
 映しだされた被害者の写真に、強い既視感を覚えたのだ。写真の男の首には、イーグルのタトゥーが刻まれている。
 冴島翔哉。二十四歳――。
 首筋にぞわっと鳥肌が立った。動悸が激しくなっていく。
 瞬時に、月野木礼司の名が頭に浮かんだ。たしか、彼について調べたとき目にした名前だ。スマホで検索してみると、間違いなく冴島翔哉は、氷室の事件の加害者のひとりだった。
 冴島の刑期は、懲役五年。きっと仮釈放が認められ、すでに出所していたのだろう。
 早朝、公園をランニングしていた男性が、冴島の遺体を発見したという。犯人はまだ見つかっていないようだ。
 去年、月野木はバイク事故で死亡した。誰かに命を狙われ、事故に見せかけて殺害されたのではないか、一度はそう疑ったが、荒唐無稽な考えだと思い直した。けれど、冴島が殺害されたとなると、単なる偶然では片付けられない。あのときの加害者が、ふたりも亡くなっているのだ。
 もしも冴島を殺害した人物が、氷室の関係者だとしたら――報復殺人の可能性も考えられる。
 びくりと上体を震わせ、呼吸を止めた。
 アパートの外階段を駆け上がる靴音が聞こえてきたのだ。聞き慣れているはずの生活音なのに、今はなにもかもが怖く感じる。
 ――テメェが逃げだしたせいだからな。逃げたお前も同罪だ。
 犯人の非難めいた声が耳によみがえり、ぎくりとした。
 慌てて立ち上がると窓に駆け寄り、星吾は震える手でカーテンを乱暴に開けた。
 ベランダに不審なものはない。窓ガラスには不気味なほど憔悴した自分の顔が映っているだけだった。
 視界が狭まり、すべてが暗転していく。
 バイト先への嫌がらせがなくなった理由に気づき、絶望に打ちのめされた。
 深い憎悪の感情は嫌がらせのレベルを超え、殺意にまで昇華されたのかもしれない――。
 なんの確信もないのに、湧き上がった疑念は簡単に払拭できなかった。
 自然公園で紗椰と過ごしたときの甘やかな気分は消え去り、胸の中の不安が増大していく。
 心安らかに暮らせる日は永遠に来ない。どこまでも堕ちていく呪いをかけられたのだろうか。もうその呪いからは決して逃れられないというのか。
 もっとひどい地獄を目にすればいい、誰かがそう嘲笑っている気がした。
 気象予報士は少し顔をしかめ、「しばらく雨が続くでしょう」と告げた。

 天気予報どおり、七月に入ってからも雨は降り続き、日中でも薄暗い時間が多かった。どんよりした灰色の空は嫌な予感を掻き立てる。
 冴島が殺害されたというニュースを目にしてから、星吾は一時も心が休まらなかった。なんの確証もないのに、日毎に恐怖心は増していく。刑の執行に怯える死刑囚のような心境だった。
 次に殺されるのは自分かもしれない――。
 余計なことばかり考えてしまい、講義の内容がまったく頭に入ってこない。星吾は居ても立ってもいられなくなり、一限目が終了すると、すぐに新図書館へ急いだ。
 館内のいちばん奥にはパソコンが設置されたブースがある。周囲はガラスのパーティションで仕切られていた。
 誰もいないのを確認してからブースに足を踏み入れ、椅子に腰を下ろした。
 すぐにパソコンを起動する。過去の新聞記事のデータベースを利用し、氷室の事件について検索した。次にポータルサイトを開き、検索窓に事件と関連のあるキーワードを入力していく。様々なウェブサイトや掲示板などにもくまなく目を通し、必要な情報は随時プリントアウトした。マウスを握る手がべたついている。
 胸がちくりと痛んだ。
 数は断然少ないが、「助けてもらった少年は、被害者を置き去りにした」と書いてあるサイトを発見したのだ。
 星吾は辺りに視線を這わせた。ただ調べているだけなのに、妙な噂が立ちそうで恐ろしくなる。不審な人物がいないのを確認してから、また検索を再開した。
 ネット上には加害者たちの生い立ちや性格などは詳細に載っているのに、氷室の家族についての情報はほとんどなかった。よく考えれば、当然のことだ。きっと、被害者の関係者たちは、公判で死刑を強く望んだだろう。出所後の報復を懸念し、遺族の情報はほとんど掲載されていないのかもしれない。
 それでも諦めずに検索を続けていると、氷室の父親に関する情報が載っているサイトを発見した。
 氷室の父親は、『氷室リゾート』の経営者だと書いてある。氷室リゾートが運営しているホテルは、東京、大阪、福岡にあるようだ。
 真偽を確かめるために、ふたりの関係性を調べてみるも、親子だと確信できる情報は見つからなかった。
 ふいに、ある記事に目が留まった。
 先月、氷室リゾートが運営する東京のホテルで食中毒事件が起きている。宿泊客の七十三人が下痢や発熱の症状を訴え、管轄の保健所が調査をしたところ、集団食中毒が判明したようだ。
 ひと通り検索を終えてから、今度は旧図書館へ向かった。
 受付カウンターにいる松原は、熱心に本を読んでいる。髪を明るくしたせいか、彼女の外見は以前よりも柔らかい雰囲気になった。けれど、週刊誌について尋ねると、抑揚のない声で「四年以上前の古いものは置いていません」と切り捨てるように言われた。
 仕方がないので、星吾はいちばん奥の四人がけの机まで行き、鞄からプリントアウトした資料を取りだして、氷室の事件について知り得た情報をノートに書きだしてまとめることにした。
 氷室と冴島の事件には、なんらかの関連性があるように思える。けれど、どれだけ詳細にまとめてみても真相は不明のまま、悪い妄想だけが膨らんでいくだけだった。
 交番に被害届を提出したあと、警察から一度だけ連絡があり、星吾はその後の状況を訊かれた。防犯カメラには事件現場の映像は映っていなかったようだ。けれど、ここ数週間は危険な出来事に遭遇することもなく、穏やかな日々を過ごせていた。
 すべては考えすぎなのだろうか。偶然、氷室の事件の加害者がふたり死亡した。ただそれだけのことなのかもしれない。いや、それならば画集や花瓶を落とし、車道に向けて突き飛ばしたのは誰の仕業だったのだろう。もちろん、氷室とは関係のない第三者の犯行の可能性も捨てきれない――。
 星吾は、誰かに見られているような気配を感じて周囲を見回した。
 妙な胸騒ぎを覚えた。
 窓の外には光輝がいる。いつもの穏やかな表情は影を潜め、眉根を寄せ、鋭い目で館内を睨んでいる。その視線の先には、松原がいた。カウンターにいる彼女は本に夢中になっているようで、気づいていない様子だった。
 以前、同じような場面に直面したことを思いだした。
 学食での出来事だ。あのとき、光輝は険しい表情で、中庭にいる松原と武本に目を配っていた。
 彼女との間に、なにか問題を抱えているのだろうか――。
 見てはいけない現場を目撃してしまった気がして、目をそらそうとしたとき光輝と視線がぶつかった。
 彼は強張った表情から一転、いつもの人懐っこい笑みを作った。スマホを取りだし、それをこちらに見せるようにして振った。
 慌てて鞄からスマホを取りだすと、十分前に光輝からメッセージが届いていた。
 ――もうランチ食べた?
 すぐに「まだ」と送ると、数秒で「一緒に食べよう」と返ってきた。
 こんなにも近くにいるのに、窓ガラスを隔てて会話をしているのがおかしくて、奇妙な気分になる。恐怖と孤独の中を彷徨っていたせいか、光輝の明るい笑顔に救われる思いがした。
 外に出るとじめじめと蒸し暑く、湿気が肌にまとわりついてくる。見上げた空は、相変わらず灰色で埋め尽くされていた。
 軽い挨拶を交わしてから、ふたりで肩を並べて学食まで歩き始めた。
 花瓶が落ちてきて以来、建物のそばを歩くときは上空が気になり、ときどき恐怖に襲われることがあった。けれど光輝と一緒にいると、不安は驚くほど和らいだ。
 ちょうど昼時だったため、学食は空席が見つからないほど混み合っていた。
 星吾はハンバーグ定食、光輝はオムライス。ちょうど窓際のテーブル席に空きが出たので、そこに向かい合って座った。広々とした中庭のベンチには、スナック菓子を食べている数人の学生たちがいる。みんな一様に笑顔だった。
「それにしても旧図書館が好きだよね」
 光輝は呆れたような口調で言った。
「オムライスが好きだよな」
 星吾はこの前も同じメニューだったのを思いだして言い返した。
「他人に興味がないのに、俺の好きなものを覚えていてくれるなんて嬉しいねぇ」
 光輝は言葉とは裏腹に、どこか哀しげな表情を浮かべている。
 星吾は思わず迂闊には訊けないような質問をした。
「松原っていう司書となにかあったの?」
 すぐに後悔が押し寄せてくる。一瞬、光輝の顔が険しくなったのだ。少しの沈黙のあと、彼は目を伏せて言った。
「俺の好きな人って……あの司書なんだ」
 その告白に、星吾は驚きの声を上げてしまいそうになり、どうにか堪えた。
 松原から連想されるのは無愛想で近寄りがたいイメージだ。星吾からすれば、彼女のような人は安心できる。けれど、普通の学生からしたら関わりたくないタイプに思えたので意外だった。
 バイト中に聞いた話によれば、彼女とはうまくいっていない様子だった。先ほど鋭い眼差しで松原を見ていたのは、なにかあったからなのだろうか――。
 光輝は言いづらそうに口を開いた。
「彼女は松原陽菜乃。みんなは陽菜乃のことを悪く言うけど、本当はすごくいい人なんだ」
「それは……なんとなくわかる」
「なんでわかるんだよ」光輝は苦笑した。
「本棚をいつもしっかり整理しているし、愛想はないけど真面目でいい人そうだったから」
「なんか嬉しい。他の友だちからは、いつも『どこがいいの?』って訊かれるから……」
「どこがいいの?」星吾は笑いながら訊いた。
 光輝は声を上げて笑ってから素直に話してくれた。
「声が好きなんだ。俺が入っている心理学研究会はメンタルフレンドのボランティアに参加していて、そこで彼女は不登校の児童に本の読み聞かせをしている。そのときの優しい声が好きだった。彼女独特の世界観があって、芯が強くて、そういうところも好きだったんだ」
 すべて過去形なのが気になったが、それ以上に、松原が可愛らしい雰囲気に変化したことが気がかりだった。
 星吾は思いきって言いづらいことを口にした。
「前に、ベランダに男物の洗濯物が干してあったって……」
 光輝の目が泳ぐ。動揺しているのか、彼は腕時計に触れている。指でパステルオレンジのベルトを幾度も撫でていた。
 しばらく間を置いてから光輝は沈んだ声で言った。
「彼女は五つ歳上で、ガキだと思われているみたい。この前、俺みたいな優柔不断な人間は好きじゃない、ってはっきり言われた」
「吉田は優柔不断な人間なんかじゃない」
 星吾が断言すると、光輝は目を丸くして否定した。
「いや、彼女は間違ってないよ。俺はすぐに人に流されるタイプだし、子どもの頃からなにをやっても、自分の考えは間違ってないか、って常に不安になる。情けないけど自信がないから、いつもひとりで正しい決断が下せないんだ」
 自分だけは正しいと思って生きている人間は多い。それなのに、彼は己の価値観を疑っている。それが光輝の優しさの所以なのかもしれない。
「吉田みたいな人と一緒にいると安心する」
 星吾は偽らざる思いを口にした。「常に自分は正しいと思っている人と向き合うと、ときどき怖くなるんだ」
 星吾は胸の内を素直に語っている自分が奇妙に思えた。冷静になると急に恥ずかしくなり、少し顔を伏せた。
「そういう気持ち……俺もなんとなくわかる」
 光輝は賛同するようにうなずいてから、弱々しい笑みをみせた。
 まったくタイプが違うのに、互いの気持ちを理解し合えるのが不思議だった。だからこそ、もう嘘を重ねたくない。彼にはなるべく本音を伝えたくなるのだ。
 そのとき、ポケットのスマホが振動した。
 電話の相手は、宇佐美――。
『犯人を捕まえたぞ! すぐに美術室に来い!』
(#10に続く)

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