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【試し読み】重版決定! メンヘラ大学生『君に選ばれたい人生だった』大ボリューム試し読み!

多くの共感を呼ぶバンド「Saucy Dog」の楽曲を素に、SNSで大人気のメンヘラ大学生さんが物語を紡いだ『君に選ばれたい人生だった』。 
収録作は「あぁ、もう。」「煙」「シンデレラボーイ」「ナイトクロージング」「ノンフィクション」の5篇。緩やかにつながる5つ物語が、感動のラストへと導きます。

感動・共感の声が続々と寄せられ、この度、重版が決定しました!
記念して「あぁ、もう。」を全文公開します。
恋、夢、就活――。選ばれなかった人たちの共感必至の連作小説集、ぜひお楽しみください!


『君に選ばれたい人生だった』試し読み


あぁ、もう。


 ひとれだった。高校生にもなって、好きなタイプが更新された瞬間だった。時間が止まる感覚っていうのは、こういうことを指すのかと他人ひとごとみたいに思った。こんなかっこいい人、学校にいるの? それとも、あたしが今までちゃんと見ていなかっただけ?
 目にした瞬間は、まるでスロー映像を見ているみたいに時間がゆっくりになった。スタバのカウンター席でだるそうに座っていたその人は、背が高くて、女のあたしがうらやましくなるくらいまつ毛が長くて、いま話題の<外字>流アイドルみたいに切れ長二重の目がバランスよく配置されていた。

【今日やっぱ、あり変じゃね?】
 スマホの向こう側から、ふわりとまことの声が聞こえた。
「変って何が? 別にいつも通りだけど」
【いつにも増して上の空じゃん。なんなら、今日一緒にスタバの前歩いてたときから。もしかして、また一目惚れでもした?】
 からかうような口調にむっとしながら、怒っていても仕方ないとあたしは素直に告げる。
「一目惚れっていうか、まあ、気になるというか」
 一瞬、誠が息をんだのが電話越しに伝わった。
【いや、ほんとに一目惚れしてんのかい!】
「うるさいな、別にいいでしょ」
【ほんと分かりやすいな。たぶん、今日スタバの窓際に座ってた人でしょ? あれ、俺の部活の先輩】
「え?」
 いきなり降ってきた情報に、変な声が出る。
ゆい先輩。二個上でもう引退しちゃったからそんな関わりある訳じゃないけど、かっこいいからやっぱ人気あるし、有咲が惚れる気持ちも分からんでもない】
 見透かしたような声が聞こえたけれど、無視して探りを入れてみる。
「誠、じゃなくて誠さま。唯人さんのこと色々教えろ、教えてください」
【言葉遣い終わってんだろ。先輩なー、とりあえずめちゃくちゃモテるとは聞くよ。時々ファンっぽい人、試合観に来たりするし。推しみたいな感じ? でもって、たしか今は彼女いないって言ってた】
 誠は、ライバルが多いことに変わりはないけどねーと言葉を続けた。予想外の情報を手に入れて、やっぱり持つべきものは情報通の幼なじみなのかもしれない、と思う。
 今日、スタバで見かけた男の人。同じ制服を身にまとって、うでまくりをして机に向かっていた姿がずっと頭から離れないでいた。
「いやいやいや、彼女がいないって分かっただけでも収穫、ほんとに助かる。誠のこと、幼なじみから大親友に格上げしとくから」
【都合いいよなーほんと】
 変に茶化してしまったけれど、親友だと思っているのはほんとのことだ。誠とは家が近いのもあって、小学校からの幼なじみだった。家だけじゃなく学力も近かったあたしたちは、高校生になった今も同じ制服を着て、登下校中もよくその背中を見かけ合う。
 昔から、誠はあたしの少ない人間関係の中の大切な一人だった。いつだって電話をかければ、まるで待機していたかのような速さで出てくれる。照れくさいから口には出さないけれど、都合いいだなんてこれっぽっちも思ったことはない。
「先輩彼女いないのか、そっかー。やば、もう既に明日学校行くの楽しみになってきた。片想いって、なんかテンション上がらない?」
 誤魔化すように同調を求めると、
【分からんでもないけど。ま、かなわない片想いは地獄だけどな?】とイタズラっぽく笑う。
 コイツほんとやなこと言うな。口が悪いところだけは、たまにキズだ。

 誠から先輩の情報を仕入れ終えて、そのままベランダで黄昏たそがれる。夜の街には数え切れないほどの光の粒が散らばって、この中に先輩がいるかもしれない、なんて想像してみると、誰と会話している訳でも無いのに一人で楽しくなってきてしまう。
 冷えた風が頰にあたって気持ちがいい。冷たさの中に、どこか優しさを含んでいる気がする。四季の中でも、やっぱり秋が一番過ごしやすくてダントツで好きだ。だけど夏と冬に挟まれて、すぐにいなくなってしまうところだけは好きになれない。
 見慣れた風景を眺めながら先輩の情報を頭の中で整理する。なか唯人。まず、名前が良い。韻というか、というか、とにかくなんか良い。顔もすごくタイプだ。モテるはずなのに、それを鼻にかけてなさそうな所もいい。部活は誠と同じハンドボール部。歳は二つ上。クラスはたしか、三年五組。まだ知らない事ばかりだけど、それすらも日々の楽しみに変換できる。
 次誠に会ったら、ハンドボールのルールだけはちゃんと聞いておこうと思う。学校の授業で軽く触れたことしかないけれど、いつか先輩と話せるようになったときの話の種になるはずだ。
 今までは、学校なんて行くのも面倒くさいと思っていた。毎朝六時に起きるのはつらいし、学校で楽しい何かが待っているわけでもないし。どう過ごすかよりも、どうやり過ごすかがあたしにとっての最重要項目だった。
 それが、モチベーションの源に新しく先輩の存在が追加されただけで、明日の学校が楽しみで仕方ない。先輩の顔を拝めるなら、土日だって学校に通えてしまう気がする。単純だなー、と誠のあきれ声が聞こえた気がして、全力で振り払う。
 考え事をしている間に足の指先が少し冷えていた。指先をグーパーさせるように力を込めてみても、思うように動いてくれない。クロックスを脱いで部屋に戻り、かじかんだ指先を手のひらで包んでいると、外の肌寒さと暖房の効いた部屋とのギャップがちょうどよくて、ぼうっと眠気がさしてくる。
 布団に潜り込んでも、なかなか寝付けなそうだった。落ち着かない頭の中で、明日はどんな口実で先輩がいる校舎へ行こうかと思いを巡らす。
 そうだ、三階の購買までいちご牛乳を買いに行くついでに、先輩のクラスの前をゆっくり歩いてみようか。少しでも先輩の顔を眺められたら、その記憶だけで一週間は生きていける。
 行き場を無くした妄想が膨れ上がっていって、次第に夢との境目が分からなくなってくる。柔らかな布団の重みが身体の隅々にまで同化していって、意識がなくなっていく間際、面倒だけど、明日は早起きしてシャワーを浴びようって思った。

    〇

 教室の窓の隙間から入ってくる陽射しはほんのりと暖かい。ガラス越しに見える紅葉色の夕焼けはいつも眺めているものと同じとは思えないほどれいで、時間も忘れてれてしまう。時折聞こえてくる運動部のかけ声が耳元で弾んで、何故か心が落ち着いてくる気さえする。
 窓際の一番後ろの席で、用もないのにひたすら赤紫色のアプリを開いては、フォロワー欄に【唯人】と名前が表示されているのを確認する。気を抜くと頰がだらしなく緩んでしまいそうで、けんをぐっと引き締める。
 画面の下へと続いている投稿を、一通り人差し指の先ででていく。いいねを押し間違えないように気を配りながら、画像を拡大したり、写っている友人らしき人を眺めたり、さっきからそんなことを意味もなく繰り返していた。
 ……あ、あいつもいるじゃん。ユニフォーム姿が並んだ集合写真の左端の隅で控えめにピースする誠を見つけて、あたしは心の中でありがとうとつぶやく。

「唯人さんに言っといたよ」
 今日の朝、生活指導に引っかかる時間ギリギリに教室に着いたあたしに誠はいきなり駆け寄ってきた。
「急になに? なんの話してんの?」
「だからー。唯人さんと仲良くしたいって子がいますよって話したら、インスタ気軽にフォローしてよって言ってたから。本人のお墨付き。安心してフォローしな」
 そのしらせはあまりにも急で、まだ脳みそが寝ているあたしは誠の吐いた言葉をうまくしやくできずにニヤつく誠の顔を二度見する。
「……待って、急展開すぎて話についていけない。それって、あたしの名前出したってこと?」
「いや、名前は出してない。俺の友達がー、とだけしか」
 なんの問題もない、というふうに顔色ひとつ変えずに言う。
「いやいやいや、名前出してなくても、そんな言い方したら先輩にあたしの気持ちバレバレじゃん。逆にフォローしづらいって」
「あのさー、そんなん言ってたらまた有咲は遠くから眺めたままでしょ。いつまでその感じでいんの? あとで先輩のアカウント名ラインしとくから、覚悟きめてフォローしなよ」
 余計なお世話だ! ……そう言おうとしたところで見計らったようにチャイムが鳴って、誠は教卓前の自分の席に戻っていった。担任が入ってきて、流れ作業のように点呼を取っていく。
 覚悟。心の中を見透かされたようで、正直何も言い返せなかった。誠に言わせれば、あたしにはその二文字が圧倒的に足りていないらしい。
 今までも気になる人ができたことはあった。だけど、その度にあたしは陰から眺めているだけで満足して、相手から認知されることもなく、誰かの彼氏になったことを風の便りで知り、人知れず失恋していた。一部始終を聞いてもらおうと泣きながら誠に電話をかけると、いつも面倒そうな声色をさせながらも、なんだかんだで「絶対またい奴見つかるから」と慰めてくれた。
 一切学ぶことなくそんなやり取りを繰り返して生きてきたけれど、全く成長の見えない現状も、いよいよ向き合わなければいけないのかもしれない。
 昼休み、クラス中の雑音を聞き流しながら、誠から送られてきていたアカウントのIDを虫眼鏡マークの真横に打ち込んだ。yuito_0208_tanaka。待って、0208ってことは。カレンダーアプリを開いて二月八日の欄に薄ピンクのあざといフォントで【先輩の誕生日】と入れると、空欄ばかりだったカレンダーがほんの少しだけ華やぐ。よし、先輩の情報またゲット。
 そうして、あたしは【フォローする】という行為から目をらし続けていた。
 だって、先輩のアカウントをフォローしてしまえば、先輩はまず間違いなく好意に気付く。それって、かなり怖い。遠回しにでも他人に感情を伝えるということは、同時に拒否されるかもしれない可能性をはらむということで、それはまさにあたしが避け続けていたものだった。ひび割れた液晶にちょうど重なる【フォローする】のアイコンは、いつもよりずっと小さく目に映る。

 覚悟きめてフォローしなよ。

 悩んでいると、いつだって誠の声が頭の中ではんすうされる。たぶん誠は、あたしよりもあたしのことを分かっている。
 安全な場所から眺めているだけじゃ、きっと世界は動いていかない。先輩への気持ちをぎゅっと指先に詰め込んで、その文字に触れた。

 フォロワー欄の一番上に先輩がいる。当たり前のことだけど、先輩のフォロワー欄の一番上にもあたしがいる。おおかもしれないけど、指先で世界はたしかに動いた。
 窓を開けると、勢いよく飛び込んできた秋の風に前髪がさらわれそうになった。噓みたいに綺麗な夕焼けも、先輩の名前を表示させているスマホの画面も、遠くから聞こえる野球部のかけ声も、夢みたいに思えるけれど、この瞬間は紛れもなく現実だ。
【下校時刻になりました。残っている生徒は速やかに帰ってください】
 ふと校内放送にかされて、とつにスマホを腰のポッケに突っ込む。黒板の横の壁に押し込まれた時計は六時を示していて、慌てて手提げバッグを手にとった。肩にかけたバッグは心なしかいつもよりも軽い。
 ブブ。ポッケの中からスマホが呼んで、取り出して薄目で見てみると、液晶には、誰かからのメッセージが表示されていた。
【誠から話聞いたよ、フォローありがとね!】
 滑り落ちそうになったスマホを手のひらでなんとか受け止めて、画面を何度も確認する。そこに、【唯人】の二文字がある。見知ったIDがある。心臓がどくどくと脈を打ち始めて、視界が静かに揺れる。先輩からのDMを開かずに、なんて返信しようか考えを巡らせる。
 あと少しの間だけでいいから、この画面のままにしておきたい。

    〇

 今までの人生が昭和のモノクロ映画だとしたら、先輩とメッセージをやり取りをするようになってからの人生は令和の青春映画だ。そう感傷に浸ってしまえるくらい、日常は急激に色を付けた。好きな人に認識してもらえて連絡を取り合えることが、こんなにも心躍るだなんて想像もしていなかった。
 誠に聞くまでもなく、先輩がどんなものが好きで、どんなものに囲まれて生きているのかをインスタやラインでのやり取りから探った。最近は、そこで知ることができた先輩の生活をなぞるようにして生きている。
 アラームの音で目を覚ますと、スマホの画面には友達からのメッセージが二、三通表示されている。その中に、先輩からのラインは見当たらない。先輩は朝が弱いらしく、あたしが夜中に送ったメッセージは朝見ても大抵既読は付いていない。
 へこたれずに、熱めのシャワーで寝ぼけた脳みそを無理やり起こす。今まで早起きするのがおつくうでしてこなかったけれど、朝にシャワーを浴びるのは意外と気持ちがいいことに気付いた。さっきまで見ていたはずのうろ覚えの夢だとか、寝起き頭の隅に残ったモヤだとかを溶かしてくれる気がする。
 シャワーを浴びた後は、タオルで髪の水分を丁寧にき取りながら、洗面台の前で先輩が好きなロックバンドの音楽を流す。ボーカルの透き通った高音が特徴の、今流行はやりつつあるらしいバンド。先輩のラインミュージックに設定されているのを目にしてから、あたしは血眼になってユーチューブでそのミュージックビデオを探し出した。
 前奏のメロディに思わず身体が揺れる。先輩と同じ曲を聴いているという事実だけで、朝からじわじわと元気が湧いてくる。たぶん、あたしだけで百回は再生数に貢献していると思うし、サビならもう余裕で口ずさめる自信すらある。
 適当にインスタをスクロールしていると、先輩がいいねしていたせい派女優の写真が流れてきて、髪を乾かしていたぐしにぐっと力が入る。きっと、先輩の好みなんだと思う。写真に写る女優のつややかな髪の毛は、腰の横辺りまで綺麗に伸びていた。
 ボブくらいの長さを保っていた、あたしの髪の目標値が定まる。最低でも胸元までは伸ばすんだ、絶対に。

 恋をするってものすごく怖いことだと最近思う。今まで自分のために使っていた時間が好きな人のために消費されていって、好きな人のためなら躊躇ためらいなく自分自身さえも変えようとして、しかもそれが意外と悪くないって思えてしまう感覚。洗面台の鏡に映るあたしは、先輩と学校ですれ違うことを考えただけでニヤけてしまっている。
 今の今まで、自分のことを冷静な人間だと思い込んでいた。恋に落ちて分かりやすく自分を見失ったり、情緒が乱れていったりする人たちと、あたしは違うと思っていた。でもそれはたぶん、今まで自分を傍観者だと決め込んでいたからだった。
 好きな人を遠くから眺めていた頃は、顔を見られるだけで満ち足りていた。それはきっと、アイドルを推すときの感情に似ていた。心のどこかでその人たちは別次元の人なんだと認識して、交わらない人として一線を引いていた。
 なのに、当事者になった途端、好きな人とラインのやり取りまでしているというのに、それだけじゃ物足りなくなっている。ひびの入った花瓶に水を注ぎ続けるように、満たされない。先輩の声が聞きたい。直接会って、先輩の好きなバンドの話をしてみたい。一番近いところで、その綺麗な横顔を眺めたい。
 際限ないわがままが胸の内を満たして、自己嫌悪に陥る。あたしってこんなに欲張りな人間だったっけ?
「有咲、時間大丈夫なの?」
 お母さんの声が引き戸を挟んだ向こう側から聞こえて我に返った。こうやって先輩のことを考えていると、時間は一瞬で溶ける。
 八時二十分には校門に入っていないと、数学教師で生活指導のハゲやまに怒られる。ハゲ山は、いつでも他の生徒の前でさらすようにして怒る。くわえて、遅刻した生徒を授業中でもお構いなく名指ししてくるから、そのターゲットにされるのだけはどうにか避けなきゃいけない。
 髪型とまゆがおかしくないか、玄関前の鏡で確かめる。急いでドアノブを押すと隙間から冷えた空気が潜り込んできて、露出させた肌を容赦なく襲う。
 ほんの少しの期待を込めてちらとスマホの画面をのぞく。どんなに朝に弱い人でも流石に起きていそうな時間なのに先輩専用の通知は届いていなくて、先輩からのメッセージにだけ鳴るバンドの歌は流れてくる気配すらない。あきらめて、スマホをマナーモードに設定した。
 ──先輩からのラインが届くか。それだけのことで朝のモチベーションは容易に左右される。肩に食い込むバッグの持ち手がやけに重い。重いのはバッグなのかあたしなのかも分からない。
 日に日に自分の中で先輩の存在が大きくなっているのを感じる。幸せだと思えるハードルがぐんぐんと上がっていて、このままじゃだめだと唇をむと、血の味が口の中で広がった。久しぶりに巻いたマフラーからは、ふわっとクローゼットの匂いが香っている。

    〇

 早歩きで学校へ向かっていると、見慣れた猫背姿が目に留まった。
「誠ーおはよ!」
「……おはよ。朝からテンション高くね? 一日もつ?」
「高くしないとやってられないの。先輩から昨日ライン返ってこなくて」
「朝早くからのろるなって。お腹いっぱい」
「そんなんじゃないから。それより誠がこんな遅い時間に歩いてんの珍しくない? さては夜更かし?」
「そりゃ、昨日も夜遅くに誰かさんから電話きて、恋愛相談に乗ってましたからね。普通に寝坊したっつーの」
 誠のわざとらしい口調に思わず笑ってしまう。
「いや、いつも夜中まで電話ありがとね? 誠のお陰で先輩と連絡取り合えるようになったし、そこはほんとに感謝してる」
「まあ、いいけどさ」
 誠は興味がないというふうに、眠そうな顔を隠そうともせず大きくあくびをした。あたしも気を遣うことなく言葉を続ける。
「朝から申し訳ないんだけど一個相談いい? そろそろ先輩と電話してみたいんだけど、もし誠だったら自分からかける? いきなりかけたら迷惑だって思われない? その辺、男の人ってどうなのか教えてよ」
 誠はあごに手を当てて、左上の方をぼうっと見上げた。つられて見上げると、重たそうな雲がつらなって空に浮かんでいる。
「皆が皆そうかは分からんけど。好きな人から電話きたら迷惑だなんて少しも思わないし、誰だって迷わず出ちゃうと思うよ」
 それは、そうだ。もし先輩から電話がきたら、あたしは光にも負けない速さで通話ボタンに触れてしまうと思う。でも、もし自分からかけたとして、先輩が電話に出てくれなかったら一生立ち直れない。
 誠はいつもと変わらず気だるそうに背中を丸めている。少し投げやりにも思える空気感も、飛んでくる的確なアドバイスも、全部含めて居心地が良い。またちょっとした悩みが浮かべば、頼ってしまうんだろうな、と思う。
 この、あたしばかりが相談するという構図は、昔から変わらない。そのせいか、誠が誰を好きになった、みたいな話は聞いたことがなかった。好きになられた、というのは時々噂で耳にする。誠も顔はかなり整っている部類に入るし、好きになる女の子の気持ちも分からなくはない。わざわざ口に出していないだけで、裏では色々あったりするんだろう。
 いつかあたしも、誠から恋愛相談をされる日がくるんだろうか。その仏頂面をあかく染める姿を想像したらなんだかおかしくて、それをいじる日が待ち遠しい気もした。
「なにニヤついてんの? 間に合わないと、またハゲ山に怒られるよ」
「別にニヤついてないし。ハゲ山に怒られるのだけは勘弁、ちょっと校門まで走ろ!」
 地面をると、足の裏に硬いアスファルトの反動が伝わった。段々と息が切れてきて、乾いた空気がのどを行ったり来たりする。肌を撫でる空気は冷たいのに、背中にはうっすらと汗がにじむ。
「大丈夫?」
 振り返った誠の仏頂面の中に、ほんの一筋、あたしへの気遣いが浮かんだ、ような気がした。
 もしもあたしと先輩が付き合うことができたら、誠との関係も変わっていくんだろうか。誠に恋人ができたら、こんなふうに朝偶然居合わせて並んで登校することも、気軽にはできなくなるんだろうか。背中を眺めているとそれはそれで少し寂しいような気もして、自分でもよく分からない感情を振り払うように大きな背中を追いかけた。

    〇

 先輩に会いたい。
 その一心で、今日の昼休みも友人をつれて長い渡り廊下を踏みしめる。わざわざ購買のある校舎まで通っていちご牛乳を買い続けてもう八日目になるけれど、一目惚れして以来、学校ではいまだにすれ違うことができずにいた。
 最近は、何をしていても先輩のことを考えてしまう。グラウンドから声が聞こえれば、窓際の席から先輩のジャージ姿を探した。全校集会があれば、精一杯背伸びをして、広い体育館の中で先輩の影を探した。そこまで脳内を支配されていたのに、姿を目にすることはなかなかできなかった。
 何でも無い顔をして、今日だけで二本目にもなるいちご牛乳を買う。桃色の飲み口にストローを当てながら、廊下をゆっくり歩く。友達が今日はあと何回行くのー? と聞いてきて、あたしは心の中で先輩と会えるまで! と答えた。もう半分は意地だった。
 今回も駄目かもしれない。そう諦めかけたところで、十メートル先の曲がり角がぱっと輝いた。物理的にじゃなくて、感覚的に、輝いた。それは、たしかにスタバで見かけたあの人だった。
 どうにかして気付かれたい、と思った。でも、気付かれてもどんな顔をすればいいか分からないから、やっぱり気付かれなくていい。でも、やっぱり気付かれたい。先輩の顔を拝むために離れた校舎を三往復もしたくせに、いざというときにおじいてしまう。
 いつもこうだ。あたしは変なところで積極的なくせに、変なところでおくびようなのだ。購買までは何度だって通えるくせに、三年五組の教室まで行くのは怖い。好きな人を遠くから眺めていた頃の癖が、大事な場面になると自分の首を絞める。
 先輩は数人の男友達に囲まれて、談笑していた。友達らしき人が何かを口にして、先輩が笑う。先輩のじりは線みたいに細くなる。ふと、心臓が押しつぶされそうな感覚に陥る。もっと近くで先輩の顔を眺めてみたい、と思う。
 先輩と向かい合って、お互いに歩みを止めない。一歩進むだけで、距離は一気に縮まる。もう目線を逸らさないと決心する。一方的に見ているだけじゃなくて、あたしの存在を先輩にも知ってほしい。あたしだけ眺めているのは、もう嫌だ。
 すると想いが直接届いたかのように、先輩の視線は友達からゆっくりとあたしの方へ移動して、そして完全に、焦点が合った。あれだけ願っていた瞬間が、ようやく訪れた。
 永遠にも思える時間が流れた。きっと現実では一秒に満たない長さだったけど、あたしたちはお互いの存在をたしかに認識した。
 うれしいことはそれだけでは終わらなかった。先輩はネクタイの結び目辺りに左の手のひらを持ってきたかと思うと、あたしだけに分かるくらいに小さくひらひらと振った。先輩の穏やかな視線は、間違いなくあたしをとらえていた。
 花瓶から水があふれた。一日における幸せの許容範囲を、完全に超えていた。

 ……許容範囲を超えているはずだった。
 その夢のような時間はまだ終わっていなくて、何故か今、あたしは家のベランダで先輩と電話している。起こること全てが初めてくめで、心臓が嬉しい悲鳴を上げ続けている。
 いつもなら一時間は返ってこない先輩からのラインの返事が、今日はリズムを刻むように早く返ってきていた。いつも付かなくてやきもきさせられる既読の二文字が、拍子抜けするくらいすぐに付いた。
 何かがいつもと違う。そんな嬉しい違和感が連続した後、
「声聞きたいんだけど、よかったらいま電話しない?」
 先輩はそう言って、違和感を確かな形に変えてくれた。

【誠がね、有咲ちゃんのことほんといいやつなんです──、っていつも力説してくれるんだよ】
「ほ、ほんとですか」
【ほんとほんと。二人は幼なじみなんだっけ?】
「そうなんですよ。小学校からの腐れ縁ってやつで」
 誠はあたしのことをかなり印象良く紹介してくれたみたいで、ベランダのさくから乗り出して、誠の家のある方へ頭を垂れる。持つべきは、本人のいない所で褒めてくれる幼なじみだ。
【ラインはずっとしてたけどずっと会えなかったもんね。一瞬誰かなって思ったんだけど、すぐ有咲ちゃんだ! って気付けた】
 改めて言われて、今日の奇跡のような光景がまぶたの裏で鮮明に思い出される。
「会ったことないのに、どうして分かったんですか?」
【えー、インスタとかでなんとなく顔写真見たことあるし、あと今日俺のことじっと見てたじゃん。もしかしたらそうかなーって】
「そんなあたし見てましたっけ?! めっちゃ恥ずかしいんですけど……」
【見てた見てた。視線刺さってたもん】
 先輩は面白いものでも見つけたみたいにけらけらと笑った。
 耳に触れる先輩の声は、想像していたよりも低くて、細くて、人の集まる場所ではき消されてしまいそうな危うさがあった。耳を澄まさないと、すぐ消えていってしまいそうな声。
【これからも学校で見かけたらさ、今日みたいに手振ってもいいかな?】
「ぜひ! あたしも手振り返しますから」
【おっけー。なんか、俺たちだけが分かるサインって感じで、わくわくすんね】
 魅力的な提案の後に、遅れて先輩の笑い声が届く。あれだけ心待ちにしていた先輩の声が、当たり前のように耳を捉える。先輩の笑い方は、豪快に笑うというよりは、どこか引き笑いに近かった。ちょっとダサいけれど、そこがたまらなくかわいいと思えてしまう。
 自分だけが知っている先輩のダサいところ。大事に胸の中にしまってから、けっして夢中になりすぎてなんかいないと自分に言い聞かせる。

 あたしたちは、真夜中の通話でありふれた話を共有した。先輩が学校に遅刻して、校門前でハゲ山に怒られた話。やたらと厳しい頭髪検査を突破しやすくするための裏技。学校から駅までの帰り道に、野良猫に会えるとっておきのスポットがある話。先輩がラインミュージックにも設定している、ロックバンドの話。
 先輩が、好きなバンドのことを話すときだけじようぜつになるところが好きだ、と思った。好きな曲を一通り挙げてから息継ぎをして、その理由をまた一気に語り出す。最近のありがちな邦ロックとは違うんだよ。なんていうのかな、歌詞に込められた意味が聞けば聞くほど変わっていく感覚、みたいな。スマホのスピーカーは、先輩の息遣いをひとつ残らず拾う。いつも穏やかそうな先輩が、子供みたいにはしゃぐ。先輩をいとも簡単に少年時代に戻してしまうロックバンドに、ライバルでもなんでもないのに、ほんの少しだけけてしまった。
 気付けば通話は一時間半を超えていて、奇跡のような時間にも終わりが訪れる。かじかんだ足の指先の感覚が鈍い。吐く息はいつの間にか白くなっていて、やっぱり秋はすぐいなくなるから嫌だな、と思う。
【俺、これからもう少しだけ勉強するから切るね。声聞けてよかった、今日はありがとう】
 その言葉を最後に、先輩の声が遠くなっていくような感覚があった。このまま切ったら、もうこれ以上先輩と仲良くなれない、そんな予感がした。
 先輩に初めて認識してもらえた。手を振ってもらえて、電話までかけてくれた。今日という日をこのまま終わらせちゃいけない。眺めるだけで満足していた自分を変えるなら、きっと今しかない。
 冷えた空気を打ち破るように、声を震わせる。
「先輩。今度、もしよかったらですけど。どこか、一緒にお出かけしたいです」
 勢いで口にしてから、すぐに後悔が脳みそに追い付いてくる。一回電話したくらいでお出かけなんて、誰がどう考えても距離感がバグってる。
 今の無かったことにしてください! そう言おうとしたら、先輩の声が先に聞こえた。
【……ごめん。受験控えてるから、流石に遊ぶのはキツいかも】
 吐息を挟んで、更に言葉が続く。
【遊ぶのは時期的に厳しいけど、最近放課後は駅前で勉強して帰るようにしてるから。よかったら、一緒に勉強する?】
 先輩は、好きなロックバンドを語るときみたいに早口で言った。
 あたしは、スタバの前を通った日を嚙み締めるように思い出す。あの日眺めるだけで精一杯だった景色は、ゆっくりだけど、たしかに変わろうとしている。

    〇

 先輩と初めて電話をした日から一週間が経っていた。あれから先輩は『勉強できる日ありそうだったら連絡するねー』と言っていたけれど、その言葉が飛んでくる気配は全くと言っていいほど感じられずにいた。もしかしたらあの提案自体がていのいい断り文句だったのかと、正直なところ疑ってしまっていた。
『今日駅前のスタバで勉強してくから。有咲ちゃんも時間あったら好きなタイミングで来て。奥の窓際の席ね』
 先輩専用のラインの通知音で、午後一番の眠気はぱっと吹き飛んだ。タイミングを見計らったように届いた誘いは、購買で買う紙パックのカフェオレなんかよりもずっとかくせい効果がある気がする。
『分かりました! 一緒に勉強できるの楽しみにしてます!』
 あたしの指先は無意識に液晶を撫でていて、先輩のメッセージが届いてから返信するまでに一分も経っていなかったことに気付く。即レスしてしまったトーク画面を誤魔化すために、去年誠がくれた猫のスタンプを追加で送る。動く猫のスタンプは、不思議な踊りを繰り返しながらあたしのことを見ている。

 大袈裟かもしれないけど、先輩とのラインのやり取りは戦いに近い。
 まず、先輩からのラインを受け取る。メッセージが来たことにひとしきりニヤついてから、先輩をなんとからそうと返信をめてみる。そう意識してみても我慢できるのは三十分が限界で、あたしの指先はあえなくトーク画面に触れる。一度返信してしまえば容赦なく攻守交替で、また先輩からのラインを待つターンを迎える。せっかく着せ替えしたトーク画面の背景を、あたしの文章ばかりがいつも寂しそうに埋める。
 攻守の時間があまりにも偏りすぎて、全くフェアじゃない。ズルい。そう思うけど、この試合を始めたのも、この試合を終わらせたくないのも、あたしだ。
 たまには先輩を慌てさせてみたいと思う。あたしからのラインが来なくて、あいつどうしたんだろ? 俺なにかしたかな? って、頭の中の隅の隅だけでいいから気になって欲しいと思う。
 でもきっと、先輩はそんなことは全く気にしない。あたしが返信しなければ先輩は追ってラインを送ってくることなく、そのままフェードアウトするんだろう。

「おーい、チャイム鳴ったぞお」
 野太い声とともにガラガラと大袈裟にドアを開ける音が響く。うわ、次の授業ハゲ山だったっけ? 慌ててスマホを机の中にしまって、代わりに数学の教科書とシャーペンを机の上に放る。教科書は半年近く使っているはずなのに新品みたいに真っ白で、自分でも笑えてきてしまう。
 ハゲ山はいつも口癖のように、教科書にクセが付いて汚くなるくらいにやり込めと言う。そのくらい使い込めば、どんなに苦手な人でも理解できるようになるから、と。この教科書も使い終わる頃には少しは黒くなるんだろうか、と不安になる。その頃のあたしは、授業に付いていけているんだろうか。進路は決まっているんだろうか。先輩との関係は、どうなっているんだろうか。
 時計をちらと眺める。長い針があと一周するのを耐えれば、先輩との勉強会が待っている。そう考えたら、あと一時間の授業なんかどうってことない。

「俺ちょっと集中するから。なんかあったら声かけてね」
 スタバで合流するなり、先輩はそう言ってだらんと伸びたイヤホンの先を耳に押し込んだ。カウンター席に座って、すでに自分の世界に入り込んでいるようにも見える。目の前には窮屈そうに何冊かの参考書が並べられていて、仕方なくその隣に腰を下ろした。
 心のどこかで、世間話でもしながら勉強を教えてもらう、なんて漫画で見かけるようなデートを期待していた自分を恥ずかしく思う。先輩は受験を控えているんだから、よくよく考えてみれば当然のことだけれど、やっぱり少しだけ寂しい。
 なんかあったら声かけてね。先輩から告げられた魅力的な言葉が、じゆもんのように耳にこびりついていた。何もなくても声をかけたいあたしは、その呪文を唱えないようぐっと我慢する。
 メイク道具のごちゃついたバッグから、特に厚みのある本を表紙も見ずに適当に出してみた。テーブルに積まれた参考書たちの表紙はやっぱり綺麗で、真新しいままだ。そういえば、ハゲ山がテストで参考書の例題の中から出すって言ってたな。数ⅠAのテキストを乾いた指の先でぺらぺらとめくると、指数法則、三次式の展開、因数分解、なんて堅苦しい用語たちが無意味に頭の中を流れていく。
 現実から目を逸らすように横を覗き見ると、先輩は大きな体を丸めて、エネルギーを一点にぶつけるようにテーブルに向かっていた。あの日眺めていた先輩の顔が、すぐ隣にある。バンドのライブには行ったことがないけれど、これが本当の特等席というやつなのかもしれない。
 先輩の横顔は、近くで見ると彫刻みたいだった。絵画ではなく、彫刻。かっこいいというよりは、整っているという表現が似合っていた。表情からはどこか冷たさが感じられて、先輩に四季を当てはめるなら、秋か冬が選ばれるんだろうなと思う。
 顔をしかめて問いに悩んでいる素振りにすら目を奪われてしまう。雪みたいに真っ白な頰をつついてみたくなって、懸命にこらえる。
 先輩はすらっと伸びた指先で何ページも教科書を捲った。あたしはホットのチャイティーラテを飲みながら、一応右手にシャーペンを持って、参考書に書き込む振りをして、先輩のころころ変わる表情を眺めた。あ、眉ひそめてる。問題解けなかったのかな。口角が上がってるのを抑えられてない。答えが合ってたんだろうな。
 二時間半は、先輩の隣だとあっという間に溶ける。数学の参考書は、最後まで真っ白いままだった。

 てつく寒さが露出させた太ももに突き刺さって、思わず顔をしかめる。昼間はうっすらと覆ってくれていた優しい空気も、太陽がいなくなると一緒に隠れてしまう。
 また今年も冷えてきたなー。誰に言うわけでもなく先輩は呟いて、ねずみ色のネックウォーマーをいそいそとリュックサックから取り出す。首元にかぶると、首輪をつけた犬みたいに見えた。かわいい。
「有咲ちゃん、家近いんだっけ?」
「はい、ここから歩いて五分とかなので」
 大体の場所を人差し指で指し示す。
「うっわ羨ましい。学校まで10分とかじゃん。そういや、誠も家近いって言ってたもんな」
「そうなんですよ。だから、誠とはよく登校中にも会ったりします」
「いいなー、すげー仲良さそうで。幼なじみみたいなのいたことないから憧れるわ」
「そんな良いものじゃないですって」
 先輩が意味ありげに笑って、あたしは咄嗟に否定する。誠とそういうふうだなんて、先輩にだけは勘違いされたくない。
「そんな否定しなくても良いじゃん。あいつ俺らの代からも好かれてるし、マジで良い奴よ」
「……良い奴なのは認めますけど」
「だよなー。俺、同じポジションだったからさ、なんか余計に頑張って欲しいんだよ、誠には」
 先輩は満足したように大袈裟に首を縦に振った。一方のあたしはただ焦っている。せっかく先輩と話ができるチャンスなのに、誠の話しかできていない。話そうと思ってあれほど考え悩んできた話題が、上手うまく頭の中でまとまらない。
「有咲ちゃんはまだ帰らなくていいの?」
「はい。勉強してきたって言えばごまかせるので、まだ全然余裕です」
「じゃあさ、俺の電車くるまで一緒に時間つぶしてよ」
 駅の改札前に設置されたグレーのベンチを見付けて、並んで腰を下ろす。スタバで座ったときよりも段違いに全ての距離が近く感じられて、先輩の手のひらも、太ももも、左肩も、ふっと力を抜けば寄りかかることのできる位置にある。ゆるっとした髪の毛先までがよく見える。口元に、ちいさなホクロがある。特等席なんて言葉じゃ足りない、神席という存在がそこにあった。
 見上げると、くすんだ黒のスーツを身にまとったサラリーマンたちが足早に改札に飛び込んでいって、あたしたちはそれを他人事のように眺めた。自分とは縁がないように思えて実はそう遠くないだろうその景色に、一瞬息苦しさを覚える。
「先輩って、将来の夢とかあるんですか」
「俺ー?」
 先輩は首をひねって、
「ないなー。今はとにかく勉強して、いい大学入って、ってことしか考えてないよ」
 と力無げに笑う。
「ですよねえ」
 先輩の言葉に頷きながら、ほっと息を吐く。
 高校に入ってから将来について考えさせられる機会が格段に増えた。親、先生、周りの大人はみな口を開けば「将来のことを考えて行動しろ」と言う。だけど、あたしは未だに大人になるということの意味がよく分からない。
 周りの人は、誰だってすごく大人に見えて、それぞれが遠くの何かを見据えている気がする。皆、何も考えていない、みたいな顔をしながら、自分が何をするべきなのか理解して、自分の軸を持って、将来に向けて勉強したり、何か行動を始めたりしている。
 でも、大人になるって、なんなんだろう。二十歳になれば、スーツが似合えば、お酒が飲めるようになれば、どこかの企業に入れれば、自動的に大人になれるんだろうか。あたしなんて、今やっている勉強が数年後にどうつながっていくのかさえも、うまく想像できていないのに。
「有咲ちゃんは夢とかあんの?」
「……あたしも先輩と同じです。まだよく分からないです」
 だから、将来の夢、みたいな仰々しい明確なものはまだない。
「そっか、そうだよな。この歳になったら夢っていうよりも、現実っつった方が正しいもんな」
 あたしと先輩の間を時間が緩やかに流れる。同じ時間を生きているようにはどうしても思えないけれど、いつかこの二つの時間軸がぴったりと重なるときが来るんだろうか。
 ふと、先輩の右肩があたしに触れて、「あと二分で来るわ」と大きな身体がベンチから立ち上がった。追うように視線を上げると、電光掲示板がはちおう行きの電車がまもなく着くことを知らせていた。結局、先輩と話せた時間は電車を待つわずか十五分に満たないほどだった。
 改札の前で先輩を見送る。寒いからか、先輩はネックウォーマーで口元を隠していた。
「また誘うから、連絡待ってて」
 そう言って、先輩の姿は人混みに溶ける。あたしはその姿が見えなくなるまで改札の前に立ちほうけていた。
 見送るとき、先輩の後ろ姿が一瞬スーツ姿のサラリーマンと被った。歩き方も背丈も服装も、何もかもが違うはずなのに、被った。
 先輩はこの冬、どこかの大学を受験する。明確な夢はないと言いながらも、自分の意思で次のステップへ進もうとしている。
 先輩と触れた左肩がじんわりと熱を持っていた。先輩の肩が背負っているものは、きっとあたしとは比べ物にならないくらい重い。
 先輩の近いようで遠い後ろ姿がチリチリと瞼の裏に焼き付いていて、あたしが思っているよりも先輩と過ごせる時間はもう残されていないのかもしれないと、身体が感じ取っていた。

    〇

 先輩からの『今日スタバいくけどどうする?』というメッセージはいつも唐突に届いた。あたしの学校では、三年の冬を迎えると六限の授業が「それぞれで自主勉強するべし」という名目で免除される。だから、六限が始まる直前の休憩時間に先輩からのメッセージが届けばその日は会える。来なかったら、その日は会えない。午後の授業中、クラスで一番あたしが一喜一憂している自信がある。
 先輩はその日の店の混み具合で勉強する場所を変えるようで、毎回のように違う店を選んだ。誘われた一回目はスタバで二回目はタリーズ、三回目はドトール。いつだって人混みの少ない場所を先輩は好んだ。カレンダーのアプリに刻まれた【先輩との勉強会】の印は、今もなおあたしのお守りになっている。
 カレンダーにまた勉強会の印を付け加えられそうだ。液晶にはちょうど二週間ぶりの先輩からのお誘いが表示されている。久しぶりの連絡に驚いて机にぶつけた小指が、赤みを帯びてじんじんと広がるように痛む。
 たった一つの通知で、あたしの日常はまた軽率に色付く。この前タリーズで勉強会をするのが決まったときも、誠に顔を一目見られただけで、「今日唯人さんと会うでしょ」と見抜かれたことがあった。誰にも悟られないよう、口角が上がってしまいそうになるのを必死に抑える。
 授業に集中しようと顔をあげる。教室の窓は完全に閉め切られて、ヒーターの送り出す暖気で溢れかえっていた。昼休み直後のこの時間はどうしたって眠くなる。後ろの隅の席周辺は、少しだけかび臭い。生ぬるい風がうなじに直接当たって、ぼんやりとした眠気に襲われる。

 ──先輩と出会って、二ヶ月近くが経った。出会う前からしたら考えられないくらい沢山のことがあった。だけど、あたしは先輩の特別な人にはなれていないし、なろうともしていない。なる気もない。
 前よりは間違いなく距離も縮まっているはずだ。校舎で先輩とすれ違えば、お互いに小さく手を振る。ラインだって、先輩からの返信頻度と速度に目をつぶれば、ちゃんと続いている。ときには先輩から『声聞きたくなったんだけど、電話しない?』なんて胸をときめかせるメッセージが届いたりもする。これはあたしの思い上がりなんかじゃない、と思う。
 でもきっと、付き合えそうとか、そういうのではないんだって分かる。あたしが一人舞い上がっているだけで、先輩からしたら、そういうんじゃないんだ。言葉にされてないだけで、先輩はあたしとの間に一線引いている。勘違いするなよと、自分に言い聞かせる。

 だって、先輩は他の女の人とも勉強会をしているから。

 一回だけ、偶然を装って先輩に会うために学校帰りにスタバに寄ったことがあった。ちょっとした出来心だった。それは先輩からのお誘いがちょうど途切れていた時期で、勉強の邪魔をしたらいけないと分かっていながらも、顔を見るだけならいいじゃん、という下心にあたしは勝つことができなかった。
 先輩は相変わらずスタバにいた。人がまばらな店内の、いつもの窓際の隅の席に座っていた。制服姿の女の子と、並んで座っていた。あたしじゃない、誰かと。
 きっとそういうことなんだ。隣にいた人が彼女じゃなかったとしても、ただの友達だったとしても。あの特等席はけっして特別な場所ではなかった。だから、一人で盛り上がってちゃ駄目なんだ。

 でも、これでよかったのかもしれないと、どこか諦めかけている自分もいる。彼女になりたいだなんて欲張らずに、それなりに仲良しで、たまに電話をかけられるようなポジション。別に、今のままで充分じゃん。ぬるま湯みたいな心地よさは、「先輩の特別な人になりたい」という決心すらもぼんやりと溶かしこんでしまった。
 想いなんか伝えないで、この緩やかな幸せにずっとかっていられれば、それで満足だ。

    〇

 街は季節よりも先に冬の仕様を取り入れようと、どこか慌ただしい様子でいた。駅前のクレープ屋の看板には付け足されたようにサンタクロースの絵が描かれていて、街中を行き交う人たちも、クリスマスを前にどこか浮き足立っているような気がする。あたしは違う、と言い聞かせながらいつものスタバのガラスのドアを引こうとすると、だらしなくニヤけた顔が映って、思わず目を逸らした。
 先輩はいつもと変わらず、スタバの奥のカウンター席に陣取っていた。背中を丸めて机に向かう姿には強い既視感がある。
 先輩の隣に腰を下ろす。切れ長の目があたしを捉えて、すぐさまイヤホンを外した。
「お、授業おつかれさま」
「先輩もおつかれさまです。聴いてるの、いつものやつですか?」
 聞くと、先輩はニヤッと笑って、
「分かってんじゃん。勉強するときはこの曲リピート確定」
 嬉しそうに目を細めて人差し指でイヤホンのハウジング部分を撫でる。かと思うと、すぐさま視線はくたくたになった参考書へと戻った。くすんだ紙の上を、シャーペンが何度も行き来している。横顔を見ていると、なんか、あたしも頑張れるかもしれない、と思う。バッグから参考書を出して、狭いテーブルの上に広げた。
 先輩との勉強会は、相変わらずれっきとした勉強会だ。関係ない話で盛り上がったりはしないし、勉強を教えてもらったりもしない。会話もほとんど存在しない。そのお陰で、真っ白だった数ⅠAのテキストには、ほんの少しの折り目とシャーペンの黒鉛の擦れたあとが勲章のように残っている。
 でも、強がりなんかじゃなく、先輩の隣にさえいられればあたしの意識は宙を舞える。二人で並んでいるのが、外からカップルみたいに見えていたらいいのに。
 窓際の席からは外の駅前の様子がよく見えて、街の至るところに赤、青、緑の色がちりばめられていた。通り過ぎていく男の人は比較的厚着をしているのに、女の人は足を出したり肩を出したり、見ているこっちが冷えてきてしまいそうな格好をしている。だけど、あたしは、女の人の気持ちが痛いくらい分かってしまう。一緒に頑張ろう、恋する乙女たち。

「急だけどさ、まだ時間あったら今から猫スポット寄ってかない?」
 恒例の改札前のベンチで電車を待っていると、先輩が白い息と共に言葉を吐いた。半ば反射的に首を縦に振って、意味が遅れて頭の中に届く。あたしはなんでもない顔を装いながら、その魅力的な提案に内心どきどきが止まらずにいる。
 先輩の言う猫スポットは、学校と駅の間にある芝生の広場のことを指しているようだった。そこのベンチにはうちの制服を着たカップルがよく座っていて、たびたび目撃情報が学校内でも噂になっていた。
 広場に向かう道中、先輩は自然に車道側を歩く。その手慣れている感じがどうしても憎い。きっと、あたし以外にも同じことをしているんだろう。ちく、と心臓の奥が痛んだ気がして、揺れるネックウォーマーを見て、隙間から先輩のうすい唇が見えないか、そんなことを考えて気を紛らわす。
「先輩って、ほんと猫好きですよね」
「めっちゃ好きだよ?」
 先輩は食い気味に答える。自分に向けられている訳ではないその二文字を、あたしはどうしようもなく意識してしまう。今にも手を繫げそうな距離に先輩がいて、歩く度に肩と肩がくっつきそうになって、またすぐに離れる。
「あたしも、猫、好きです」
「ほんと? 運命じゃん」
 先輩が茶化して、ほんの少しだけ心にモヤが残る。あたしは、本当は犬派だ。
「先輩は猫飼ってるんですか?」
「飼ってるよ、二匹」
 先輩は自慢するみたいにピースしてみせる。
「うわ、いいなあ。でも、猫飼ってるのに野良猫触って大丈夫なんですか」
「いや、たぶん匂いでバレてるよ。触った後はシャーシャー威嚇してくるしね。でも、しつされるのがいいんだよな」
 家にも猫いるのいいでしょ、と誇らしげにふふんと引き笑いする。先輩の笑い方、やっぱりダサいな。そして、そのダサいところすらも好きだと思えてしまうのは、本当に沼だ。い出せる気がしない。この人に冷めるイメージが全く湧いてこない。

 十五分ほど歩いて着いた猫がいるという広場は、昼間とは違って人のいる気配すら感じられなかった。カップルの姿も見えない。広場の中央にはちゃちな滑り台が一つと、バネが前後左右に跳ねる遊具が二つぽつんと置かれていて、隅にある砂場辺りに頼りない街灯が一つ立って、全体を弱々しく照らしていた。
「猫なー、滑り台で時々寝てんのよ」
 先輩はそろそろと滑り台に忍び寄った。その動きに合わせて、先輩の影が大きくなったり小さくなったりする。
「先輩、すごい不審者みたいですよ」
「確かに。猫から見たら不審者かもな」
 先輩はあたしに構わず、猫探しに夢中になっている。せっかく、公園に二人きりなのに。
「いや、人間のあたしから見ても、不審です」
 恨みも込めて、そう言ってやる。先輩は、「そんなん言わんでよー」とあたしの言葉の意図を何も分かっていなそうに笑った。

 寒い時間はどこか暖を取れる場所に身を潜めているのか、結局猫のシルエットすらも見付けることはできずに公園を後にした。駅へ向かう道すがら先輩の背中は分かりやすく落ち込んでいて、口には出さないけれど、正直猫だけでそんなになる? と思ってしまう。
「俺さ、あいさつしたかったんだ」
「挨拶?」
 目を合わせずに先輩は頷いた。
「高校入ってからよくここの猫と遊んでてさ。しんどいこととか、家に帰りたくないな、なんてときに、この場所にいやされてきたのよ。猫に名前付けたりしてね」
 話しながら歩く先輩の歩幅は大きくて、あたしは付いていくのがやっとだ。
「まあ俺もこう見えて受験生だから。上手うまくいけば来年から大学生になるんだけど」
 先輩が手のひらに口を当てて、指の隙間から白い息が漏れる。
「志望校が結構遠くて。引っ越したらなかなか帰ってこれなくなるだろうから、会えるうちに会っておきたかったんだ」
 そう言って、ゆっくりあたしの方へ振り向く。車のライトに照らされて、反射で表情が見えない。
「結局会えなかったな。春になって暖かくなったら、また会いに来ようかな」
 もう猫の話なんてどうでも良かった。
「……どこ行っちゃうんですか?」
 聞きたくない。
「受かるか分かんないけどね。長野にある大学目指してるんだ」
 気軽に会える距離じゃないって、分かる。
「先輩がいなくなるの、寂しいです」
 本気で言ったつもりだった。一瞬、時が止まったような気がした。

「じゃあ、有咲ちゃんも再来年長野来てくれる?」
 冗談だけどさ、と先輩は軽い調子で言葉を付け足して、口元をネックウォーマーで隠した。真意が全く読めずに先輩の顔を見つめると、ただいつもみたいに優しく目を細めていた。
 どんなつもりで、長野来てだなんて言うんだろう。あたしが本気にしたら、この人は一体どうするつもりなんだろう。
 最後までなんて返すのが正解なのか分からないまま、アスファルトを歩いた。長野で待っててくださいねと即答するのも、受験頑張ってくださいと応援するのも、どんな台詞せりふ相応ふさわしくない気がした。
 改札に着くと、先輩は学校ですれ違うときと同じように小さく手を振って、かすかに笑みを残して、人混みに溶けた。
 あたしは先輩を見送りながら、ここから長野までの距離を調べる。電車を乗り継いで、三時間はかかるみたいだった。

    〇

 まだ起きないのー? おお晦日みそかだよー?
 お母さんの声がドア越しに聞こえてきて、思わず耳をふさぐ。とっくにカーテンの隙間からは光が溢れてきているのに、まだパジャマすら着替えられていない。全身がすっぽりと布団に包まれたまま、外に出ることを拒んでいる。
 布団の中からにょきっと手だけ伸ばして、枕元にあるスマホをいじる。一昨日おととい先輩へ送ったメッセージには、返信はおろか既読すら付いていない。

 先輩は本当に思わせぶりだ。
 声が聞きたいなんて電話をかけてくるくせに、ラインの返信はいつだって遅い。あたし以外の女の人とも勉強会してるくせに、長野来れば? なんて言ってあたしの気持ちを試してくる。きっと、それすらも無意識にやってるんだろうなと思う。本当にズルい。絶妙な距離感が心から憎い。
 それでも、好きだ。これは理屈じゃない。先輩があたしの手の届かないところに行ってしまっても、この気持ちは変わらない。
 インスタを起動させる。数秒の待機時間の後、並ぶストーリーズの中に先輩のアイコンが更新されている。ラインはまだ返ってきていないのに。

 きっと、そういうことなんだ。あたしの優先順位は、そこなんだ。

 好きという気持ちが変わることはないけれど、もうこのまま、緩い関係でいいのかもしれない、と思った。暖かい布団にずっと包まれていたい。
 そう思った瞬間、スマホが手元で震える。一瞬期待したけど、流れてくるのは先輩用の通知音じゃない。
【誠】の文字がひび割れた画面に表示されていた。
【明日、てか今日の夜。初詣行くだろ?】
 用件を伝えるだけ伝えて誠は電話を切った。布団の誘惑は強かったけれど、思い切って外に出るのも、久しぶりに誠と話してみるのも、気分転換になるかもしれないと思えた。

 コートを着込んだ誠が、玄関の前で無愛想に手を振る。冬休みに入ってからは一度も顔を合わせていなかったけれど、気まずさは全くない。これが幼なじみの強さなんだろう。家族ぐるみで仲の良いあたしたちは、小学生の頃からはつもうでは一緒に行くようにしていた。
 除夜の鐘が遠くから聞こえてくる。あたしたちはその音が鳴る方を目指して歩く。
「すごい久しぶりって感じしない?」
「まあ、有咲から電話がかかってくることも最近は無かったしな」
 思い出すように言いながら、誠は手のひらをこすり合わせる。
「そうそれ、その話しようと思ってたんだ。実はさ、前は先輩から電話かかってきてたのに、最近全然してくれないの。もしかして無意識にしつこくしちゃったのかな」
「気にし過ぎだって、唯人さんいま受験生だし。そんな心配しなくていいだろ」
 あたしが愚痴って誠が慰める。日常茶飯事だったはずのそれすらも数週間振りで、気持ちが次第に落ち着いてくるのが分かる。
「そういえば、今日あかさん来ないの?」
「ねーちゃん? よく知らないけど、今日は彼氏と初詣行くって言ってた」
「そっか。一緒に行けないの、なんかちょっと寂しいな」
 いつも初詣に連れていってくれた誠のお姉さん。会わない間に、きっと人間関係はどんどんと移り変わっていく。
 神社が近付いてくると、人の数が目に見えて増えた。あたしはいつたん辺りを見回して、先輩の姿が見えないことに一抹の寂しさを覚えて、誠と二人きりなのが見られないことに、ほっとあんする。
 耳を澄ますと、手のひらを合わせる音が響いた。皆神様を前にして、今年の願い事を唱える。
 あたしは何を神様に願ったらいいんだろう。先輩と付き合えますように? それとも、先輩が長野に行きませんように?
 参拝客の列の後ろに二人で続く。シャンと、鈴を揺らす音が段々と近くなっていく。
「誠はなに祈る予定?」
「どうしよっかなあ」
 誠はあちこちを見回したり、かと思えば足元をじっと見つめたり、忙しそうにしている。
「去年は金運祈ったから、今年は別のこと祈ろっかな」
「好きにしなよ」
 少しずつだけど列が進んでいく。ゆっくりだけど確実に。
「今年こそは先輩と付き合えますように! とかどうかな」
「声大きいよ。ってか、先輩と付き合えるかどうかは、神様に祈っても仕方ないでしょ」
「あたしはいつでも神頼みなの。そういう誠は決まったの?」
 そして、また誠は考え込む素振りを見せる。
「うーん、有咲にだけは言いたくないな」
「なにそれ、反抗期?」
 くだらない会話をしていると人の波が開けて、あたしたちの前に大きなおさいせん箱と古びた仰々しい鈴が現れた。
「……俺、願い事決めた」
「え、何にすんの、教えてよ」
 誠はあたしの問いに答えずに五円玉を投げる。黄銅の塊はきらきらと宙を舞って、木彫りの箱へと吸い込まれる。
「結局さ、願い事なんて神様に任せたり、目の前の現実から逃げたりするんじゃなくて、ちゃんと行動に移さなきゃ意味無いんだろうな。好きなら、付き合いたいなら、その人に直接伝えなきゃいけないんだよ」
 誠は珍しく真面目な顔をして言った。見慣れたはずの横顔が、何故かいつもより綺麗に見えた。
 大きな鈴が右へ左へと波打って、シャンシャン、としい音が鳴る。
「俺は有咲のことが、小六の頃からずっと好きだった」

    〇

 叶わない片想いは地獄だけどな。

 先輩のことを相談したあの日、電話の向こうで誠はそう言った。誠はあたしの片想いを皮肉っていたのだと、ずっと思っていた。
 でも、違った。
 隣であたしが好きな人のことを話すのを聞きながら、誠はその地獄を、あたしとは比べ物にならないくらい長い間味わっていたんだ。あの日から、もしかしたらそれよりもずっと前から。
 記憶がよみがえってくる。

 好きな人から電話きたら、誰だって迷わず出ちゃうと思うよ。

 思えば、誠からあたしに電話がかかってくることは今まで一度もなかったし、先輩のことを泣きながら相談すると、面倒な素振りを見せながらも、いつも優しい言葉をかけてくれていた。

 誠があたしからの電話に出なかったことは、一度たりともなかった。

 鈴を揺らしながら、誠のことを思う。手を合わせてみたけれど、神様に何を祈るかなんてどうでもよくなっていた。
 誠はいつも、どんな気持ちで電話に出てくれたんだろう。どれだけの苦しみを抱えながら恋に協力してくれてたんだろう。
 あたしが同じ立場だとしたら。先輩が他の女子の相談をしてきたとしたら、そんなふうに笑顔でいられただろうか。自分がされたら苦しいはずなのに、なんであたしは自分への好意に鈍感でいられたんだろう。
 人混みを抜けて、二人並んで歩き出す。誠の顔を見ることができない。
「俺もようやく伝えられたけど、有咲も好きだって気持ちは絶対に伝えなきゃだめだよ。好きって伝えられなかった記憶は、いつの日か、もしかしたら付き合えたかもって呪いに変わっちゃうから」
 先輩とはこのままでいい。好きって伝えられなくても、このまま心地よい関係でいられるならそれでいい。そう自分に言い聞かせていた。
 でも、きっと、それじゃだめなんだろう。先輩にこっぴどく振られようが、今までみたいに気軽に話せなくなろうが、自分の気持ちは伝えなきゃいけないんだ。無謀な挑戦だと笑われようが、言葉にしなきゃいけないことってあるんだ。
「とりあえずこれだけは言わなきゃね。あけまして、おめでとう」
 誠の声がして、遅れて鐘の音が届いた。気付けば神社からはかなり離れたところまで歩いていたみたいだった。
「そうだね、あけましておめでとう」
 心を覆っていたモヤが、晴れていく。
 ちらと横にある顔を盗み見てみると、誠は笑っていた。今まで溜め込んできたうつぷんを晴らしたみたいに、月の光をその横顔に宿していた。
 それはあたしが先輩の前で作る笑顔なんかとは、比較にならないほど真っ直ぐで、まぶしい。
「あたし、先輩に告白する」
 言うと、誠は黙ってあたしの肩を優しくたたいた。有咲も頑張れよ。そう言ってくれた気がした。

    〇

 桜が咲いていた。あんなにも寒くて早く去ってほしいと思っていた冬も、暖かくなってくると少しもの寂しいような気がしてくる。布団だって、寒い季節だからこそ価値があるんだし。結局、あたしは無い物ねだりばっかりだ。
 先輩に想いを伝える、そう心に決めてから二ヶ月半が経った。先輩の受験勉強を邪魔しないようにずっと気持ちを胸のうちに秘めていたけれど、ようやくスマホに「大学合格したよ!」というメッセージが届いた。
 高鳴る感情を落ち着かせながら公園に向かうと、待ち人は既に来ているようだった。砂場の隅でその大きな体をかがませながら、小さく動く何かに声をかけている。
「先輩、何してるんですか」
「有咲ちゃん! ほら見て。こいつが例のトラ猫」
 言って、キジ柄の猫の腹を撫で続ける。トラと呼ばれる猫は先輩にお腹をだらんと晒していて、その気の許しようは野良猫と呼ぶのには違うような気もした。
 今なら、言える気がする。
「先輩、あたし実は猫派じゃないんですよ」
「え、そうなの?」
「はい。猫も好きですけど、犬の方がやっぱり好きなんです」
「そうだったんだ、猫被ってたんだね。でもまあ、両方かわいいからいいんじゃない?」
 先輩に、きっとあたしの緊張感は伝わっていない。そういうところがたまらなく好きだった。
「というか先輩、話あるって言ったじゃないですか。猫ばかり構ってないで聞いてくださいよ」
「お、そうだったね、ごめんごめん」
 先輩は上目遣いでこちらを見上げる。
 先輩の切れ長のひとみをぐっと見つめ返す。あの日、誠があたしの目を見つめていたように。
 あたし、先輩のことが、ずっと──

    〇

 駅前へ向かう沿道に咲く桜の花びらが風に吹かれて舞った。そのうちの一片ひとひらが、はらりと髪の上に落ちてくる。
 載った花びらを取ろうとして、驚く。自分でも気付かないうちに、髪が長く長く伸びていた。そっか。先輩のことを想ってここまで伸ばしていたんだ。
 このまま行きつけの美容室へ向かおう、ときびすを返す。やっぱりあたしは猫より犬が好きだし、ロングよりショートボブの方が好きだ。

 イヤホンからは、先輩の好きなバンドの歌が繰り返し流れてくる。

(他の短編は、ぜひ本書でお楽しみください。)


書誌情報

書名:君に選ばれたい人生だった
著者:メンヘラ大学生
発売日:2023年09月26日
ISBNコード:9784041127650
定価:1,760円(本体1,600円+税)
総ページ数:232ページ
体裁:四六判
発行:KADOKAWA

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