読んだ本の感想『きみの知らないところで世界は動く』(片山恭一 1995年)

読んだ本の感想を書いてみようと思う。
じっくりと腰を据えて感想を書く(あるいは整理する)のは、実は人生で初めての経験かもしれない。

(実際には、じっくりと腰を据えてみるとどうにも腰が痛くなり、メモのような形で終わってしまった。きちんと推敲を重ねるべきか迷ったものの、感想の風化を恐れまずは投稿を試みる。)

もちろん小学生から高校生、大学生の頃にはよく課題として与えられ応えてきた。それでもそれは、あくまで与えられたものに対してのアクションであって、ひとつのゲームのようなものでしかない。
相手がボールをトスしてサーブを打つ、私はそれを打ち返す。サーブに勢いがあればその力をうまく利用するし、サーブに思いの外パワーが乗っていないのであれば思いっきりドライブをかけたリターンをオープンスペースに打ち込むように。
テニスというゲームは予め選ばれ、私はラケットを持ち、ルール通りにポイントを取っていくだけだった。

ゲームによって書かれた読書感想文を除けば、今回のものが私にとっての初めての読書感想文になる。
つまり、白いキャンバスに向かって鉛筆を持とうが、油彩絵具をたっぷりつけた筆を持とうが自由だし、サッカーボールでバスケットゴールに向かって左手を添えシュートをしてもいいわけだ。

(選択、というものを意識するとき、自由という制約が最も厳しいことを痛感する。)

早速読書によってもたらされた感想を整理していきたい。(どうして人生31年目にして初めて試みようとしたのか、そういった類の話も整理しようと考えたが、どうにもタイトルに読書の感想と銘打ってしまっていることもあり、書かないでおくことが賢明だと判断した。)

さて、今回感想を整理したい本は、というよりも人生で初めて感想を整理したい本は片山恭一(「世界の中心で、愛を叫ぶ』の作者)により書かれた『きみの知らないところで世界は動く』だ。(敬称については省いている。)

この本を読むきっかけについての話が”感想”という域の内側にいるのか、はたまた外側にいるのか、しばらく頭を使ってみたものの、明確な応え(あるいは答え)は出なかった。
この本を読むきっかけについての話は省く、着飾るよりも裸でいるほうが潔いだろう、というのが私の持つ価値観だ。


全体を読み終えて、本を閉じ、ふう、とため息に似たような空気を吐き出す。自分が呼吸をしてこの本を読んでいたことに気付く。

終盤には、”死”がきちんと書かれていた。少なくとも私の思うきちんとした”死”が書かれていた。(”死”は寂しい。)
死に化粧、それは私の思うきちんとした”死”だ。死に化粧を施されたものの顔を見て、触れて、その時ほど寂しい思いをすることはない。
唐突な死、それは私の思う”死”のなかでも怖い死だ。(”死”は怖い。)
(この本の中では、カヲルの手によって死に化粧は落とされるが。そして、”ぼく”とカヲルにとっては、死に化粧は虚構であったらしい。私にとって、今のところ、死に化粧は現実だ。とても強い現実のなかのひとつだ。)

読み終えて貼り終えた付箋の数は多くない。そして多くない付箋のほとんどは話の前段にある。

私は、この本を、どのように読んでいたのだろう…。

ジーコが死んだ。ジーコが死ぬ前にはカヲルが摂食障害を患い入院した。

私の張った9枚のうち、8枚の付箋がカヲルが入院する前に貼られており、1枚はカヲルを病棟から1日脱柵させる際に”ぼく”が主治医宛に書いた手紙をその場でカヲルが破いて捨ててしまった、と書かれている文である。

ジーコとカヲルと”ぼく”による病棟脱柵劇の中でのジーコは、どこか遠い目をしながら言葉を発していたようにも思う。なんだか、私は”ぼく”であったように思う。(聞き手としての”ぼく”であり、発話者のとしての”ぼく”ではなかったが…。)彼の言葉を聞き漏らしてはいけない、と。少なくとも乾ききった指で付箋を一枚めくることに神経を使うわけにはいかない状態にはあったのだと思う。

”「もう一度自分をやり直したいって思うことがあるよ」珍しく率直な言い方をした。
「自分を新しく作り直したいって思うことがね。新しいノートを買って、1ページ目から、新しい物語をはじめる。むかし、むかし、あるところに……。」
「動物に生まれ変わりたいんだってさ」
「彼女がかい」
ぼくは黙って頷いた。
(中略)
「しかしきみとは一緒にいたい。ただし女としてではなく」
「病人として」”

3人の高校生(後半では大学生)。
”ぼく”は健全な性欲を持つ多数のうちの1人、ジーコは親からの加護を離れ生きることに向き合おうとしている1人、カヲルは自己の発見に苦労する1人。

”ほとんど自動的な反復に見えた。手を伸ばして物をつかみ、機械的に口へ運んでいる。物を食べることへの羞恥もなければ、悲哀もない。ただ宿命的に。強いて言えば、自分の体を破壊する喜びに取り憑かれているようにも見えた。食べて、食べて、咽喉から胃袋へ流し落としていく。それでいて飢餓の貪欲さはない。淡々と、しかし一瞬の逡巡もなく食べつづけている。”

ここあたりからのすべてに付箋を貼っても良かったのだろうと思う。
ここあたりからの数十ページを私の心のなかで整理しきれてはいない、気がする。

カヲルはどんな気持ちなのか、「帰るぞ」とカヲルに言い放ったカヲルのお父さんに振り絞って言った”ぼく”、ジーコは死に際に何を思ったか。

知りたいという気持ちは、悪いものではない、ただ卑しさのようなものを感じることもある。
ルールだったり、歴史だったり、既に詳らかにされているものを知ろうとする気持ちは私にとっては健全に思える。
個人の世界で起こったことや、その背景、気持ちを知ろうとする際には、私は私になんだか卑しさに似たなにかを感じさせる。
極力、個人的な話はしないようにしている、聞かれば応えるし、私は私の中に秘密はなくて、さらけ出すことに抵抗もない。ただそれはあくまで私のケースであって、人には人のケースがある。
一言でいえば、私の人生は、というより私の人間関係は受動的に出来上がっているのかもしれない。(それを悪いとも良いとも思っていない。それを悪いとも良いとも思っていこうとも考えていない。)
いくつかのことを我慢するケースは少なくないし、胃もたれするような感情を吐き出せず、消化されるまでに苦しい時間を過ごすことを余儀なくされることもたくさんあった。もちろん今でも。人は、そう簡単には変わらない、根の深さは、時間によるものだ、もう巻き戻らない時間によって、私は存在している。

本の中の登場人物たちのことを知りたい、と思う私の心は健全だろうか、私に問いたい。

知りたいと思わせてくる文章なら、知りたいと思ってもいいだろう。私は、そうして人の心に土足で踏み込んでいく。
人の心を、能動的に知るとき、知ろうとするとき、私は私のことを少しだけ嫌いになる。それでも、これは本の中の人たちのことだから、と猫を撫でるように自分をなだめる。

救いはある、登場人物は、私のことを知らない。私のことを知って、好きになることもなければ嫌いになることもない。
ありがたい。


青春時代、に限った話ではないけど、”自分”を探し続けている。
自分は自分自身を見失っているのに自分のことを好きでいる”ぼく”、アンビバレントなカヲル。
誰しもが抱く衝動に疑問を抱き、もがくジーコ。

”ぼく”もカヲルも、私からするとずっとずっと成熟した大学生だと思う。
死に直面して、涙を流さなかったケースが私にはまだない。怖くて、眠れなくなる。少し先に、”ぼく”もカヲルもそうなるのかもしれないけれど。
泣いてほしいし、じっとしていると震えてほしいし、意味もなく歩き続けてほしい。

カヲルは、少しだけ死に近かったのかもしれない、恐れるものでなくて、側に寄り添ってくれる確かな存在として死があったのかもしれない。

もちろん、2人にとってジーコの死が心にもたらすものは絶対に小さくないということは分かる。

2人いたからこそ、なのかな。
1人で死を受け入れることと、2人で死を受け入れることは、違うのかな。

カヲルは、”ぼく”のことを”2人で”と思えるほど寄り添っていたのかな。

私は、知りたい、みなさんがこの本を読んで、ジーコの死を受けて、みなさんがジーコの友達だったら、泣く?怖くなる?
大学生だよ。きっと、近しい年代での死の初めての経験だよ。

もちろん、そんなことを知る手立てはない、だから想像するしかない。本を読んでいると、しばしば自分以外の考えを巡らせなくてはいけない。整理のために。

この本は、”死”の物語なのか、”自分探し”の物語なのか、そこを判然とさせようとしている私自身が嫌いだ。



どんな物語だっていいじゃないか、きみの知らないところで世界は動いているんだ。

この本を読み終えて、閉じると、ジーコが私にそう言う。




”カヲルからの電話のなかった日には、一日がアイス・コーヒーとアイス・クリームのためだけに費やされたような気がした。一週間も電話が途絶えると、朝起きてコーヒーを作る気力さえ失せた。とうとう意を決してこちらから電話をかけることにした。”

”「助けてくれる?」
「助けるとも。だからぼくがいるんじゃないか」
「ありがとう」
カヲルはちょっと寂しそうに笑った。”

”十八のときにものを考えなかった人間は、死ぬまでものを考えない。恐ろしいことじゃないか。”

”方法によっては、まだ本物の旅は可能だと思うんだ。そのためには地図を捨てること。無計画であること。身軽であること。きみの方でも考えといてくれ。”

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