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飲み会よ滅べ

まえがき
タイトルは「飲み会よ滅べ」だが、本文を読んでもらえばわかる通り、飲み会そのものに滅んでほしいとは思っていない。みんなが自分の価値観を大事にできる社会を願っている。
だが、「飲み会に来ない奴はダメだ」という、特定の価値観を踏みにじる行為、労働契約時間外のプライベート時間を無償で差し出すのが当然だと言わんばかりの言動に関しては、率直に言って滅んでいただきたい。

2024年9月23日 大阪の自宅にて

この記事で書きたいこと

僕は現在、とある中小企業で管理職をしている。

うちの会社は、令和とは思えないほど飲みにケーショナルカンパニーだ。飲み会嫌いの僕からすると、「飲み会を絶対視する新興宗教にでも加入したんか?」とツッコミを入れても無視されるレベルで飲み会が絶対視されている。

さて、昨今のコンプラやら労働基準法やらの観点から、飲み会否定派が安心できるような論説も少しずつ増えてきている。たとえば「飲み会を強制することはパワハラにあたる」とか。これはすばらしいことだ。

しかし、残念ながら、この手の論説は、飲み会苦手派が羽を伸ばすには非常に弱いと言わざるを得ない。「飲み会絶賛肯定派」、「飲み会に参加しない奴は人に非ず派」の方々の心には届かない。

なぜなら、人は感情で動くからだ。論理ではなく。

僕が自宅の書斎でゲーミングチェアを使っているのは、「わぁ、カッコイイなぁ」と思ったからだ。

決して、一般的なオフィスチェアに比べて疲れが30%軽減されるからでもないし、東京大学の教授がエルゴノミクス形状の開発に携わったからでもないし、使用者の97%が品質に満足していると回答しているからでもない。

それらは、購入した言い訳を妻にする際に必要になるだけであり、購入の動機は「うわぁ、カッコイイなぁ」と思ったからだ。

同様に、

「飲み会への参加が強制であれば業務とみなされるため、残業代の支給が必要である。」

とか

「企業は従業員の業務時間外に対して何ら権限を持たないため、業務と認定されない飲み会への参加を強制することはできない」

とか

「上司は、飲み会に参加する部下に高い評価をつけ飲み会に参加しない部下に低い評価をつけるといった、公平性を欠く評価をしてはならない。」

とか、至極まっとうな正論をいくらぶつけたところで、「まったくその通りだなぁ」と涙を流して飲み会に参加しない者たちを公平に扱ってくれることはない。

表面上、社会情勢の変化に順応したフリをするだけで、水面下では一緒に飲んでくれる部下をかわいがりまくる文化は今後も続いていく。

さて、これから僕は、「会社の飲み会には一切参加しなくていい」ということを書く。

最初に断っておくが、「飲み会が好きな人も、参加しないほうがいい」という話ではない。基本的に、今の世の中では飲み会に参加することで得られるメリットはかなり大きい。だから、好きな人はガンガン参加して社長の娘と結婚させられるところまで行くべきだ。

今回僕が言いたいのは、「飲み会が嫌いな人は、無理に参加しなくてよろしい」という話だ。「飲み会に参加しなくても参加したのと同じくらいのメリットを享受する方法」でもないので、ご注意願いたい。

残念ながら、メリットは得られない。あくまでも、精神的なフォローをしたいだけだ。飲み会に行きたくないなら行かなくていいんだよと。おかしいことじゃないよと。

不運なめぐり合わせでこの記事に辿り着いた「飲み会に参加しない奴は社会人に非ず派」の方は気分したり、「こいつは世の中のことが全然わかってない。飲み会に参加することがいかに大事か俺が教えてやろう」という気持ちが芽生えたりするかもしれないが、一度冷静になって図書館へ行き、多様性に関する書籍を1冊手に取って勉強してほしい。

そうすれば、あなたが命より大事にしているものであっても、他人にとってはタワシ以下の価値しか感じられなかったり、逆に、あなたにとっては無駄なものを人生をかけて守ろうとする人がいたりするくらい、人の価値観は多様であり、貴様にそれを踏みにじる権利はないということがおわかりいただけるだろう。

では、そろそろ本題に入ろう。

今回はまず、「飲み会に参加しない奴は社会人に非ず派」「飲み会に参加することはメリットだらけ派」の方々がよく使うロジックを否定していきたい。

派閥名が長いので、以下では「奴ら」と省略する。

「奴ら」と書くと、肯定派VS否定派の論争のような構図に見えるかもしれないが、分断・対立は僕の望むところではない。僕が望むのは、この2つが手を取り合う理想の社会である。

奴らの主張 その1 「飲み会に参加することで人間関係ができる」

飲み会が苦手な人を認められない奴らはだいたい下品な話題で盛り上がる

これは、数ある奴らの主張の中でもっとも反論が容易なものだ。

この日本に、酒が飲めない人がどれだけいると思っているのか。飲み会がないような会社で働いている人がどれだけいると思っているのか。

これは「合コンに参加すると彼女ができる」と言っているようなものだ。

じゃあ合コンに参加しないと彼女はできないのかよ!というと、誰でもわかる通り、そんなわけない。僕は合コンがお盛んな早稲田出身だが、合コンで彼女ができたことは一度もない。学生時代にお付き合いした人は、バイト先の同僚だったり、趣味仲間だったり、いろいろだ。

合コンは恋人を探す手段のひとつに過ぎないように、飲み会も人間関係を築く手段のひとつでしかない。しかも、僕が合コンでの成功体験がないように、かなり人を選ぶ手段だ。得意な人もいるが、苦手な人もいる。僕と合コンで出会わずにバイト先で出会っていれば、付き合っていた人だっているかもしれない。

同様に、飲み会じゃないほうが心を開きやすいという人はたくさんいる。飲み会が苦手な人は、飲み会では心を開けない。この何の魅力もない謎の時間にどう耐えるかということで頭がいっぱいで、それどころではない。

結論、飲み会が好きな人との人間関係は飲み会で作れるが、飲み会が嫌いな人との人間関係は飲み会では作れない。

奴らの主張 その2 「お酒が入ると本音が聞ける」

本音で話せる相手には、普段から話していることに気付かない

うちの会社でも頻繁に聞くフレーズで、思わず納得している人も多いのではないか。なぜなら、酔っぱらった人は自制が利かなくなる人が多いので、普段なら言わないことをつい言ってしまうことがあるからだ。

しかし、この主張には2つ反論したい。

まず1つ目。
これは同情を禁じ得ないのだが、奴らには「お酒の力を借りないと本音が聞けないなんて、難儀な人生でんな。」と言って差し上げたい。

たぶん、本音で語り合える人間関係を築いたことがないのだろう。

本音は、幾重にも罠を張り巡らせた結果、酒に酔って判断力を鈍らされた者がうっかりこぼしてしまうものという認識なのだろう。

まさか信頼関係によって自分から話すことがあるだなんて、少年ジャンプの中でしか成立しないと思っているのだろう。

しかし実際は、本音を聞けるかどうかに酒の有無は関係ない。

ここでの適切な問いは「本音を話すかどうかに影響する要素の中で、アルコールは特に影響力が高いんですか?」だ。

僕の経験上、答えはノーだ。

こんな言い方をすると元も子もないが、本音が聞けるかどうかに最も大きく影響するのは、「この人には本音で話しても大丈夫」と相手に思われているかどうかである。

つまり、こちらの生き方、人間性が大きく影響する。

相手のことを信用していないにも関わらず、アルコールが入るとつい本音を語ってしまうということはない。

本音を聞くために飲み会を開催するような人間は信用に値しない。そして、それは相手に簡単に伝わる。酒の力で本音を引き出そうと企てる奴らは、この感覚がわからないのだろうか?

まさか、相手にバレてないと思っているのだろうか?

酒が回って判断力が鈍っているのは、自分のほうではないか。

部下にはせいぜい、「飲み会に連れてこられたということは、本音を引き出そうと思っているんだろうし、まぁ、本音っぽく聞こえることの1つや2つ話して満足してもらわなきゃな。上司を満足させるのも疲れるぜ。」と思われているのが関の山だ。

2つ目は、酔っているときに話したからと言って、それが本音とは限らないということだ。

貴様らがよく行くキャバクラの嬢を見よ。

どれだけ飲んでも、ちっともカッコよくない貴様らのことをカッコイイだの男らしいだの言って褒めてくれるではないか。

「お前、臭いし、気持ち悪いし、さっさと金置いて帰れよ。」と本音を言ってはくれないだろう。

「それは、客を褒めるのが彼女たちの仕事だからだ」と奴らは反論してくるかもしれない。いやいや、だったらあなたの部下だって同じだ。部下は、飲み会で上司を満足させるのは仕事だと思っている。だから、本音ではなく、上司が喜びそうなことを言っている。

別に、普段から信用していない上司に話したい悩みなんてない。

けど、強いて言えば「部下の本音を引き出そうと努力してる俺エラい」と思っているお前の相手をするのは苦痛だ。でも、そんなこと言うわけにいかないから、

「そうですね……。仕事についていけているかどうか、不安ですね。」

と言っておいてやるか。そうすれば、上司は

「何言ってるんだ。君はよくやってるよ。」

と「部下を承認するステキな上司」になれた自分に酔うことができるだろうし(勘違い)。

はぁ。めんどくさいけど、これも仕事だし、やってやるか。

……と、やってあげてるだけだ。当たり前だろ。

そんなこともわからず、「飲み会では本音が聞ける」と主張するのは、「キャバクラでは俺はモテる」と言っているのと同じである。

奴らの主張 その3 「飲み会はコスパ最強の自己投資」

飲めない上司は飲む部下も評価するが、飲む上司は飲めない部下を評価しない

僕は飲み会にはメリットがないとは思っていない。むしろ、現代社会ではメリットのほうが大きいので、飲み会が好きな人は積極的に参加すべしと思っている。

では、この主張に対して何を反論したいのかというと、「飲み会に参加したくない派の人が参加したくない理由はそこじゃねーよ。」だ。

つまり、僕ら飲み会否定派は「メリットがわかっていないから「やだやだ」しちゃうだけで、メリットを知ったら「行く行く」となる世間知らずなお子ちゃま」ではないということだ。

飲み会に参加するメリットはわかっている。メリットはわかっているが、デメリットのほうが大きい。得られるメリットと参加する苦痛を天秤にかけたときに、苦痛が圧勝するのだ。

また、飲み会のメリットを語るときに「5000円と数時間の投資で、他では得られないようなメリットが得られる」とフレーズがよく使われる。しかし、飲めない人からするとこれは誤りだ。

もしその飲み会で上司に気に入られてしまったらどうするのか。

それこそ飲み会賛成派の人は願ったり叶ったりだろうが、飲めない人間はそうは考えない。

気に入られることで得られるメリットよりも、気に入られることで生じるデメリットのほうが重いのだ。つまり、「誘われる頻度が増える」というデメリットである。これも、賛成派にとっては嬉しいことだろうが、僕らにとっては最も恐ろしいことのひとつである。

余談だが、僕がそうなのだが、飲めない人は飲み会が好きな人との交流を避ける傾向がある。理由は上に書いた通り、気に入られてしまったら飲み会に誘われる回数が増えるからだ。

これは、美人な社員が「笑顔で対応すると勘違いしたオジサンから誘われたりするから、わざと素っ気ない態度をとっています」というのと似ている。僕ら飲み会が苦痛な人なりの生存戦略なのだ。じゃあそういう美女社員が誰に対してもツンツンしているかというと、そんなことはない。笑顔で楽しそうに話しているオジサンもいる。聞くと、「あの人は絶対に誘ってこないので。」ということだ。僕らも同じで、絶対に飲み会に誘ってこないような人とはめちゃくちゃ仲良くできる。なぜなら、安心だからだ。

奴らの主張 その4 「コミュ力が上がる」

酒に酔ったほうが上達が早いことなんてこの世にない

僕は「コミュ力」という言葉自体に嫌悪感があるのだが、ここでそれを書くと本筋からずれてしまうので、まぁ世間一般でいうところのコミュ力ということにしておこう。

さて、この主張はその1と同じだ。人間関係が作れるってやつ。あれと同じ。飲み会に行かなくても、普通に社会人として生活しているだけでコミュニケーションスキルは身に付く。飲み会では特にスキル習得スピードが上がるなんてこともない。

飲み会が特に良い練習環境ということもない。酒が入っている時点で、それはない。もし酒が入ったほうが習得スピードが上がるなら、受験勉強も面接の練習も新しい仕事も、酒を飲みながらやったほうが習得スピードが速くなきゃおかしい。

ただし、飲み会でのコミュニケーションのコツに限定していうのであれば、飲み会で習得することができる。むしろ、それは平場では身に付かない。

つまりは、飲み会で身に付くコミュニケーションスキルは、酔っぱらいのあしらい方という、非常に狭い領域に限定される。

僕はコミュ力が高いと評価されることが多いが、飲み会には基本的に参加してこなかった。コミュ力と飲み会参加率の相関はほとんどないだろう。この誤解の原因はおそらく、上司が飲み会に参加する人のことを気に入り、その人と積極的に会話してしまうから、その記憶が強く残り、コミュ力の評価につながっているだけではないだろうか。

さて、奴らの主張に反論するシリーズはこの辺で終わりにしよう。

こうやって、奴らの主張に僕らが反論し、それに奴らが反論し……ということを繰り返している限り、みんなの人間関係はよくならない。

僕が本当に言いたいこと

みんな違ってみんないい

そこで僕が言いたいのは、みんな多様性を認めたらどうかということだ。飲み会を伝家の宝刀のように奉る人もいて、便所ブラシ以下に扱う人もいる。それぞれ大事にしているものが違っていいじゃないか。

だから、飲み会が苦手は人は、無理に行く必要はない。

このような主張をすると、奴らからは「行きたい人だけが行くというのでは、団結できない。嫌だったとしても、それを表に出すな。笑顔で参加するような協調性を身に着けることも、社会人としては大事である。」とお説教されるのがオチだ。

ホントにわかんねー奴らだな。

あんたらの方法で実現した一致団結は、見せかけでしかない。偽りの一致団結ではなく、心から一致団結したい。

僕が言う一致団結は、「この会社はみんなの多様な価値観を大切にしてくれるから、安心だな。ひとりひとりが尊重されているな。こんな会社のために、みんなのために、僕も頑張りたいな。」という団結だ。心が一つになる感覚といえば通じるだろうか。

この感覚は、「唯一の正解を提示して、それに従わせる」という従来型の一致団結では得られない。

すなわち、

「飲み会に参加して、楽しむことができる人を協調性がある人とみなします。これができない人は協調性がないとみなします。さあ、みなさんは当然、協調性がありますよね?だから自主的に飲み会に参加しますよね?ほら見てください。全員手が挙がりましたよ。うちは全員が自主的に飲み会に参加したいというくらい、団結しているんです。」

というやり方だ。これでは、心が離れてしまう。

それに、協調性という言葉は業務中にのみ使うべし。

業務終了後はプライベートという「会社には口をはさむ資格も権限もない時間」だ。

会社が口を挟めるのは労働契約が有効な業務中だけだ。

「あいつは飲み会にも参加しない協調性のないやつだ」

と平気で口に出しているが、録音されて精神的苦痛を訴えられたら負けるぜ。業務中に協調性がない場合には、業務上必要な指導といえるかもしれないが、あんたが指導しているのは、本来、法的にも口出しが認められない「プライベート」に対してだぜ。バカなこと言ってんじゃねーよ。

僕が目指すのは、「飲み会が好きな人も、飲み会が嫌いな人も、同じ業務をするために集まった者同士、始業のベルが鳴ったら全力で働こうぜ。」という環境だ。

別に飲み会云々だけが論点ではない。国籍や宗教、ジェンダー、抱えている個人的な問題が違っても、同じことだ。

業務終了のベルが鳴ったら、そこから先は個人の「プライベートな時間」だ。その時間をどう使うかは個人に委ねられている。その時間をどうするか、他人には一切の権限がない。

飲み会が好きな人は、同じく飲み会が好きな人と集まったらよい。

ただ、「飲み会嫌いなあの人と、一度でいいから飲んでみたい」ということもあるだろう。

その場合は、誘うのは問題ない。思いを伝える権利は誰にでもある。だが当然、断る権利もある。そこに優劣や勝ち負けはない。だから、断られても、その人のことを悪く言ってはいけない。

中学生にするような指導で申し訳ないが、なぜか、飲み会好きの奴らはこんな当たり前のことが理解できない。「断る人は人間がなっていないので、飲み会の大切さを指導する必要がある」という謎の特権意識を持っている

そして、来てくれた場合には感謝しなくてはならない。貴重なプライベートな時間を差し出すことに同意してくれたのだ。当然だと思ってはいけない。そんなおごった態度だから二度と行きたくなくなるのだ。

働きやすい環境を求めて

最後に、世間では罰ゲームと揶揄されながも全力で戦うひとりの管理職として、組織開発の観点からひとつ、飲み会文化を大切にする会社は弱いという話をしたいと思う。

飲み会文化を大切にする会社は、弱い。

なぜなら、飲み会が苦手な人をデバフしているからだ。

飲み会に来ない人を冷遇したり、悪口を言ったりする会社は、飲み会が苦手な人にとって居心地の悪い会社だ。会社に貢献したいという感情なんてみじんも湧かない。むしろ会社ごと闇に葬り去ってやりたいと思うくらいだ。

そんな飲み会苦手派に対して、奴らは

「自分で会社を居心地の悪い場所にしている。積極的に飲み会に顔を出すとか、できることはたくさんあるのに、それをしない。自分に非があるにも関わらず、それを会社のせいにする他責な奴ら」

というレッテルを貼ることで、ますます分断を加速させる。

やがてその人は、会社を去る。
その人が生まれてから今までの間にしたすべての経験と、オリジナルのバックボーンに根差した唯一無二の人生観と、この社会で生きるために身に着けた様々な技術を持って。

飲み会という、業務遂行スキルとは一切関係のない踏み絵が原因で。

運よく残ってくれたとしても、居心地の悪い中、本来の力が発揮できるわけがない。単純作業の仕事でも、生産性は半分近くになるだろう。クリエイティブさが求められる仕事だったら、10%以下になってもおかしくない。

一方、飲み会文化を特別視していない会社は違う。

「飲み会に来るかどうか」という踏み絵がないから、飲み会が好きな人が苦手な人に対して冷たい視線を向けることがない。自分が飲み会が好きなのは数ある個性のひとつでしかないと思っているし、一緒に仕事で成果を出すうえで、飲み会に来るかどうかは何も影響しないことがわかっている。

だから、飲み会が苦手な人は安心して全力で働くことができる。働きやすい環境に感謝し、貢献してくれる。

このように、特定の文化に合致する人に特権を与える行為は、組織の力を弱らせる。貴重な人材を、業務遂行スキルとはまったく関係のない理由で失う。

僕はいま、まさにそんな組織で働いている。

穴の開いたバケツに水を注ぐ仕事をしている気分だ。

つまり、会社がチームワークが失われやすい文化を作っておきながら、チームワークを高めるために飲み会を積極的に開くように言われている。

ちょっと部下が仕事をやめたいとか言うと、そこの課長は呼び出され、なぜ部下と飲みに行ってないのかと叱責を受ける(普段から飲みにケーションを取っていれば防げたという理屈だ。涙が出るほどアホくさいだろ?笑ってくれ。)

そして、その課長がいない飲み会で、『飲み会を開かない課長は仕事ができない』と悪口を言いまくる。

率直に言って、死ぬほど働きにくい。

転職のときに抱いた、「これまでのマネジメント経験を生かして、結果を出すぞ~!」という晴れやかな感情は、心の引き出しのどこを開けても出てこない。残念ながら、完全に消えてなくなってしまった。

僕はいずれこの会社を去るだろう。

なにせ、管理職だから。
この文化を推進していかなければいけない立場だから。役職上は。

そんなアホなこと、耐えられない。

僕にも、未熟者なりに、職業倫理がある。これを推進すると、言行一致しなくなる。僕が普段から目指していること、部下に語っていることと、真逆のことを推し進めることになる。

……と、だいぶ脱線したが、言いたいことはただひとつ。

飲み会に参加する人も、参加しない人も、始業ベルが鳴ったらお互いのスキルを持ち寄って、お互いの不足を補い合って、全力で働こうぜ!

それだけだ。

そんな働きやすい社会になることを期待したい。

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