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多田富雄さんと石牟礼道子さんの往復書簡『言魂』には美しく、愛おしい日本語が綴られているが、責任を感じると云っても責任は決して取らない為政者たちには理解出来ないだろう。

多田富雄さんと石牟礼道子さんの往復書簡『言魂』(2006年6月30日/藤原書店刊)
 
多田富雄さんは免疫学の国際的権威として数々の医学賞、学術賞を受賞されている方。
また、能に造詣が深く、新作能の作り手としても積極的に活動されていました。
残念なことに2010年に亡くなられました。

一方、石牟礼道子さんは『苦海浄土―わが水俣病』を書かれた小説家、詩人。
また、新作能「不知火」の作者として記憶されている方も多いと思います。
2018年パーキンソン病による急性増悪のため亡くなられました。

『言魂』は、学術総合誌『環』に2006年春から2008年冬までに掲載された往復書簡に書き下ろし二編を加えて出版された。

当時、多田富雄さんは脳梗塞の後遺症で食事も摂取できず、言葉も発せられない後遺症と、前立腺がんと院内感染が重なって、常人であれば往復書簡など考えられない状態だったのではないでしょうか。
お相手がかねてより尊敬する石牟礼道子ということで、お受けになったようです。
お二人の尋常ではない使命感、忍耐力、そして、なによりもその美しく愛おしい文章に感涙します。

いま、『言魂』を読み返しているのは、勝手にそう感じているだけかもしれませんが、ぼくの前にひろがる世界、概念の荒野に、いつの間にかうすい靄がひろがり掛かり、魂や、正義、誠意、矜持が発する言霊が見え難くなっていると感じているからです。

お二人のお手紙には、正当な、真っ当な怒りや、哀しみ、恐怖があふれています。
それは、いつの時代にも権力者、施政者、役人に向けられてきた、いのちよりの叫びです。

いくつか引用してみます。

当たり前ですが、どの書簡も書き出しがすばらしい。

<多田富雄さんより>

第九信 「また来ん春」

石牟礼道子さんへ
また、辛夷の花火の季節になりました。
かろうじて生き延びて、今年もまたこの花が、病院前の空にぱっと開くのを、リハビリに通う車椅子で待っております。

私たちが血を吐く思いで、署名を集め、訴え続けたリハビリ日数制限反対は、今年も無残に政府によって握りつぶされたままです。
そればかりか、治療成果によって報酬を上げる制度を作って、患者を選択し、治らないものを切り捨てるという残酷な政策を実行したのです。機能が衰え廃人になる人が続出しています。

*この後、血を吐くようなお話が続きますが、決してあきらめておられないことが読み取れます。そして、書簡の最後はこうです。


さて紙数も付きました。
名残惜しいことは山々ですが、この辺で筆を擱きます。
まだ春を惜しむ季節には早いのですが、これで「また来ん春」を祈ることとします。

また来ん春と人は云う
しかし私は辛いのだ
― 中原中也 ―

石牟礼さん、くれぐれもお体お大切に。
二〇〇八年三月 花を待つ日  

多田富雄


<石牟礼道子さんより>

第十信 「ゆたかな沈黙」

多田富雄様へ

ここ南国でも四、五日ごとに雪のちらちらする空でございます。
もすこし青くなってくれば、辛夷の花になってくることでしょう。
早春の空というものは、切のうございます。

「リハビリ日数制限反対の署名運動」について考えたことを申し上げます。
身の内のふるえがとまりません。
政府のとっている態度を見ておりますと、水俣のたどってきた五十年をまざまざ思い出します。
霞が関はその内懐に、のっぺらとした犯罪官僚を育てる巣窟を持っているのではないかと疑われます。
「棄民政策」は炭鉱があった頃から伝統としてあると思います。
弱者とみれば、国家予算を盾にとって、生かすも殺すも生殺与奪権は常に彼らの手にあるわけで、彼らは近代が生んだ匿名性の、新しい権力だと私には思われます。
この匿名性は、たぶん彼らの快楽ではないでしょうか。

・・・・

*「リハビリ日数制限」反対の署名は二か月間で約44万署名が集まった。
水俣の悲劇もまた、政府、官僚、それらに忖度する地方役人によって引き起こされ、いまだ何も整理、解決していないとお書きになっています。

石牟礼さんは、多田さん宛最後の書簡をこう締めくくられました。


病院のゆき帰りに近くの小学校のそばを通りました。
校庭の一隅がやわらかく光っていました。
辛夷の花びらが散り重なっているのでした。
ありがたく存じます。
御あとを慕って参ります。
何とぞまだ死なないでいて下さいませ。
二〇〇八年三月二十六日

石牟礼道子


言葉もありません。

長くなって済みません。

最後に、池田晶子さんの『14歳からの哲学』から、再度抜き書きして終わりにします。

「正しい」とは、誰にとっても正しいことが、「正しい」ということの本当の意味だ。
人はみんな「正しいこと」「正しさそのもの」を知っている。

そうであって欲しい。

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