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禅秀の乱

退屈を持て余すフロサポのかちこです。
どんどんと筆が進み、熱量が上がることに「ああ、サッカー以前はこれに夢中であった」と再認識です。
それと同時にACLがDAZNで見られるとなり、胸の高まりが押さえられません。

さて、今回は禅秀の乱です。
その名の通り、禅秀の反乱です。
入道前の名前は上杉氏憲。
鎌倉の上杉犬懸家の出で、祖である祖父憲藤は初代関東管領の憲顕の兄弟です。
犬懸ヶ谷の地に邸宅を構えたことで上杉犬懸家となりました。

彼は関東管領でありましたが、主君である関東公方の足利持氏に自分の家臣の所領を没収されてしまい、禅秀はその処罰について持氏に抗議をしますが、それを無視されました。そして、病と言い出仕を止め、自宅に籠居します。
ここぞとばかりに持氏は半ば強制的に禅秀を関東管領を辞任させ、代わりに上杉山内家当主の憲基を補任。
憲基はこの時、二十代前半。持氏は十代後半。老獪な禅秀が口うるさく邪魔に思えたのでしょうか。
不当な処罰に抗議への無視、強制的な辞任、そして対立する山内家から若い憲基の関東管領補任と禅秀は不満と屈辱を味わっていたでしょう。
籠居している間に禅秀は幕府の反駁を企てる幕府将軍義持の弟・義嗣と通じ、仲間を得た禅秀は打倒持氏として挙兵します。
この挙兵には持氏の叔父である満隆も参加していました。

応永二十三年、十月二日。戌の刻(午後八時頃)に禅秀は自邸の犬懸からほど近い公方御所を襲撃。
持氏はまさかの事態だったが家臣に守られ、憲基邸のある佐介へと逃げた。

ちなみに上杉山内家は代々鎌倉の山内に居を構えていたのだが、憲定の代で住居を佐介に移している。
理由ははっきりとわからないが、御所から山内が遠いことや、自身の権力を示すために新しく邸宅を新築し、寺を建立したのではなかろうか。

話を戻し、襲撃された持氏と憲基だが体勢を整え臨戦したものの、準備周到に行っていた禅秀たちの軍勢に押され
結果、鎌倉から敗走した。
憲基は縁戚のある越後へ、持氏は駿河へ。
駿河の今川氏には持氏側の家臣の縁戚があり、それを頼った。
鎌倉を制した禅秀とそれに荷担した持氏の叔父の満隆だったが、幕府は烏帽子親としてあるとして持氏の保護を決断。
越後上杉家にも彼らの討伐命令を発布し、駿河の今川にも追討御教書を発布、幕府軍を後ろ楯にした持氏と憲基らは鎌倉へ戻り
禅秀、満隆を自害に追い込み、再び関東公方として実権を掌握する。

幕府が持氏を助けたのを烏帽子親として、とある。
これは口実に過ぎない。
無論、禅秀が倒幕を目論んだ将軍の弟・義嗣と手を組んでいたこともあったが、保護をすることは即決ではなく、幕府でも話し合いが持たれていた。
その結果、助けることとしたのは反乱因子の一つでもある関東公方に恩を売るというのもあったのではないだろうか。

そうして、焼かれた公方御所も新造し、鎌倉に平穏が戻ってきた頃に憲基が病に倒れる。
それを理由に一度、関東管領職を辞職するも持氏の要望もあり再度着任したようだが程無くして彼は息を引き取る。
そして跡継ぎとして越後から後の憲実、幼い孔雀丸が鎌倉へと来ることとなった。

話が前後して申し訳ないが、これが禅秀の乱、その直後の憲実の鎌倉入りの概況である。

憲実も持氏同様、幼い頃は名ばかりの当主で形ばかりの関東管領である。なんの権限もないまま、サブの要職にいながら将来を期待され育っただろう。
元服と判始めを終えた彼の気持ちはどんなだっただろうか。
ちなみに判始めとは、公的文書に据える花押を定める儀式で、花押は印鑑のような証明となる。判始めを終えて初めて、政の仕事が果たせるのである。

近くで執事として仕事を代行し、成長を見守ってきた長尾忠政などは感慨深かったのではなかろうか。

今回はここまで。
次は孔雀丸が元服、判始めをするまでの間の持氏と鎌倉府について。そして、憲実の初陣。
これには幕府の動きもあるので、またごちゃごちゃしてしまうかもしれない。

取り敢えず、これから雨にも負けず三ツ沢まで行きます!
次の生観戦はいつになるかしら…。

                                                                                                                        

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