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関東上杉家

こんにちは。
川崎フロンターレサポーターのかちこです。
民俗学系な蛇のコラムが意外に好評だったので調子に乗りました。

今回は関東上杉家についてです。

上杉家、と申しますとみなさま上杉謙信で有名な越後の上杉家を思い出しますでしょうか。
勿論、関東上杉家とは縁戚になります。
上杉謙信の活躍した時代よりも遡って室町時代の事となります。

上杉家は公家の出身の武家。
藤原勧修寺の庶流であった藤原重房が1252年に鎌倉幕府の将軍となった宗尊親王に供奉し鎌倉へ来ました。
その際に丹波国の上杉荘を与えられ、そこから「上杉」と名乗り、武家上杉家が誕生した。

その後、上杉家は将軍家家臣であった足利家と婚姻を結び、親戚となります。
足利貞氏に嫁いだ上杉清子は征夷大将軍となり、室町幕府を開いた足利尊氏とその弟・直義の母となり
上杉家は足利家の重臣として名を残した。

尊氏・直義兄弟の従兄弟であったのが、上杉憲顕(のりあき)。
彼は室町幕府が開かれた後、関東を治めるために鎌倉で尊氏の息子である基氏の補佐をした。
この機関を鎌倉府、そのトップに立つ基氏は鎌倉公方などと呼ぶ。
その公方を補佐する関東管領の職についたのが上杉憲顕。
二頭政治を行っていた兄弟の尊氏・直義は性格も真逆であったため、家臣内でも派閥が出来上がり
いつしか尊氏派と直義派と対立が深まったことなどあり、憲顕は失脚するが後に再登板。
そこから、関東の上杉家が代々関東管領の職を世襲することになります。
ちなみに越後守護となったのも憲顕からで、嫡子とされる憲将が守護代となり以後、越後守護となり世襲。
越後上杉家となります。

憲顕の子息たちは越後や他の領地に行くものたちもいたが
鎌倉に残った子息たちは、各々居を構えた地名から名前をとり、山内家・犬懸家・扇谷家・詫間家と別れて行く。
中でも山内家と犬懸家は関東管領を歴任してゆく。

ここで鎌倉府についてだが、室町幕府の本拠地は都である京都だ。
だが、関東と関東以北を治めるために作った出向機関である。
トップの関東公方には当初は尊氏嫡男・義詮であったが、跡継ぎであるため京都に戻され
代わりに弟である基氏が派遣されることとなった。そして、基氏の息子たちが世襲。
京都から離れ、目の届きにくい関東以北を治めるためで、それは室町幕府以前に尊氏勢と戦った反乱分子が
関東にも潜めており、それの牽制でもあった。そのために将軍の息子である基氏を派遣させた。
当時の基氏は幼く、実質鎌倉を取り仕切っていたのは間違いなく関東管領である。

室町幕府将軍は尊氏から義詮、義満、義持と継がれ、鎌倉公方も基氏から氏満、満兼、持氏と継承される。
関東管領も能憲、朝房、憲春、憲方、憲孝、朝宗、憲定、氏憲・・とこう並べて気づく方もいるかもしれないが
すべて関東上杉家なのが、時折、山内家の受け継ぐ「憲」が名前に入っていない人物がいる。
これは前述の通り、関東管領が山内家と犬懸家の両家が勤めていたからである。

鎌倉府は幕府管轄下の機関ではあるが、距離感もあり次第に独立した機関のようになってくる。
それでも幕府の将軍は公方の元服の際には烏帽子親となり、名前の一字を与えるのだ。
けれど、関東をまとめる事実がいつしか自信になり、野望となる。
当時の幕府で管領細川氏と前管領斯波氏対立による康暦の政変が起こり不安定さを露見させ、
出向機関である鎌倉府の府君が周囲の唆しや企てもあり、反駁を起こそうとした。
それは関東公方が氏満、関東管領が憲春の時代だ。
反駁計画を知った憲春は自殺をし、主君の暴走を止めた。所謂、諌死である。

自ら死を選んでまで止めた憲春だが、山内家は将軍義満から内書を得ていた。
憲春は嫡流ではないが関東管領に補任されたのは、幕府の力添えがあったと思われ
関東公方を補佐しながら、公方の動きを監視し幕府に報告する役割を担っていたのである。
諌死でありながら、引責死でもあったと分析されている。

と、今回はここまで。

次回は関東公方が足利持氏、関東管領が上杉山内憲基であった時のはなし。
(に続くかもしれない)

わたしは足利尊氏が好きなので太平記も好きですし、梅松論も読んだ。
天皇陛下万歳の時代には逆賊扱いされ、それが尾を引いてなのか、イマイチ歴史好きの中でもこの時代はあまり人気がない。
それに続いて、室町時代もそれは戦国のように日本中を巻き込んだ大きな戦が起こった訳でもないから、面白くもないのかもしれない。
注目もされないから、上記のような説明が長くなる。
実際、関東管領(執事)についでも、だいぶはしょった。これ以上長くなると面白くなくなるのではと思った。
今の状態でもあまり面白くないけれど、、






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