鎌倉府
フロサポのかちこです。
試合がない、そして直近の試合であるACLは放送も配信もない。
そうなると、WACKのアイドルたちの音楽を聞きながら駄文をしたためるしかない。
追記☆ACLがDAZNで見られるねっ!万歳!!☆
ということで、前回に引き続き関東上杉家や鎌倉府についで述べてゆきましょう。
前回の終わりに二代目関東公方の足利氏満が幕府に反駁を企て、それを関東管領であった上杉憲春が死をもって制したと述べました。
この一件で、関東公方としては反乱因子として幕府に目を付けられます。そして、関東管領は直属の主君は関東公方でありながら、幕府と内密に連携をとっていることがわかります。
関東以北を治める機関であるというのにトップと、それを補佐するサブとの間にも複雑な関係が伺える。
それは次の代にも受け継がれて行きます。
幕府からは不安要素として監視されると同時に、倒幕を企む輩にとっては仲間に引き込める可能性がある。
無論、それは幕府側も予想はしており、不穏な動きに目を光らせます。その監視を担うのが関東管領です。
氏満の息子、満兼も大内義弘が反駁のために挙兵したのに呼応して、武蔵経由で下野まで軍を進めた。
直接的に幕府軍との戦にならず鎌倉に帰陣し、当時の関東管領・憲定に諌められ幕府に謝罪し糾弾は免れた。
実際に戦にならずとも、挙兵した関東公方をいとも簡単に許しているかのように思うだろうし、前代も企てたことなのだからもっと監視を強めるべきだとも思うが
実際のところ、大内義弘が起こした応永の乱もだが、幕府は幕府で関東のみを気を留めれば良いような悠長な状況ではなかった。
その後の時代に花開く地方大名による下克上、戦国時代のベースとなる大名たちの権力や財力の増加が始まっていたのだ。
既に前哨戦といえる不穏さは全国各地に散らばっており、導火線の火は既に付けられていた。
ちなみにこの頃、越後の上杉家は当主の上杉房方が幕府評定衆に加わった。
京に出仕しており、越後では守護代として長尾家が手腕を振るっていたのだろう。
実はこの越後上杉家当主である房方は元々、山内上杉家の出自で父は関東管領の憲方である。初代の憲顕の孫にあたる。
叔父である朝房の養子となり、越後上杉家を継いだ。
そして、ここで登場するのは、上記の越後上杉家の当主であった房方の三男・孔雀丸こと憲実(のりざね)である。
彼もまた幼少期に当時の山内家当主の憲基に嫡子がいないことから養子となり鎌倉へ来た。
彼の鎌倉入りは養父である憲基が二十七歳という若さで病死した後で、養子となって鎌倉に来て山内家の当主となった。
十にも満たない年齢である。
憲実の鎌倉入り以前に鎌倉で禅秀の乱が起こり、撤退した憲基は越後に入ったので顔を合わせたことはあっただろうと思う。
文献には残っていないが、憲基が二十歳を過ぎて跡継ぎがいないのであれば養子は探していただろうから。
無論、憲実、当時の孔雀丸は元服もしていないので、実権は山内家の家宰である長尾氏が取り仕切っていた。
関東管領の発給すべき文書の署名などは、この家宰・長尾忠政の署名だ。
子どもの関東管領、では君主の関東公方はというと彼もまた二十歳の若者であった。足利持氏、満兼の嫡男である。
持氏もまた、憲実同様に十過ぎた頃に家督を継ぎ、関東管領が補佐をした。
幼い公方の代わりに動いていた上杉山内憲定で、憲基の父である。その憲定が病のために退任、代わりに関東管領となったのが上杉犬懸家の氏憲だ。
彼は出家して禅秀と名乗っていた。
その後、退任した憲定が死去し、山内家を憲基が継いだ。この氏憲(釈迦堂殿)と憲定(佐介殿)は不仲であるとの説も流れていたようだ。
(カッコ内の名前は住居の場所由来による通称である)
持氏が幼い間は禅秀が主権をとり、上手くいっていた鎌倉府であるが、判始めを終え、府君の自覚が芽生えてくると持氏自身が主導権を握る訳だが、まだ若い君主を窘めることもあっただろう。
徐々に持氏と禅秀の関係は悪化してゆく。
それでも、きっと禅秀には大人の余裕はあっただろうと思う。
暴走したのは血気盛んな若者の持氏の方だった。
今回はここまで。
わたしは神保町の南海堂書店の店頭に出ていた棚にあった人物叢書「上杉憲実」を手にした。
それが最初でした。
そこから関連の本を探しに、神保町は基、色んな図書館や資料館の閲覧室に向かって資料を探しました。
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