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テレビゲーム黎明期の思い出 #noteで文化祭ゲームコーナー
だだこね大根のakkiy☆さんに、「noteで文化祭」になんか書くと約束していた。忘れてた。今日が最終日だ。
ゲームコーナーへの参加。
1969年生まれの私。生まれたときから家庭用ゲーム機があった世代ではない。
スペースインベーダーが大ブームを巻き起こしたのが小3(1978年)のとき。昭和の喫茶店に置かれたテーブル型のインベーダーゲームに父親がはまり、日曜のたびに家族でモーニングセットを食べに行った。ゲームが目的なので、ゲーム卓が空いていないとトーストもおあずけで家に帰るのであった。
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高学年の頃、縦型のゲーム機が近所の駄菓子屋に置かれるようになり、型落ちしたドンキーコングやパックマンが1回20円~30円でプレイできるようになった。放課後の子供達が順番待ちの列を作る。
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小学生のお小遣いなど知れているはずだが、中には資金力をバックに次々にゲームを攻略してしまう子がいた。自営業の息子が多かったように思う。やるたびに慣れてくるのでその子のプレー時間はとても長い。私にやっと順番が回って来ると、慣れてしまう前にゲームオーバーになる。資金はすぐに底をつき、あとは「達人」のプレーをただ見ているしかなかった。
任天堂のファミリーコンピューターが発売になったのは中2(1983年)のとき。我が家では買ってもらえなかった。すぐに買ってもらえたのは共働き夫婦の一人っ子。その子のうちにはコロコロコミックも毎号あり、すぐに放課後のたまり場になった。ここでも持ち主のプレーをただ見ている時間がほとんどだった。
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今考えると、子供と一緒に時間を過ごしてあげられないことの埋め合わせとして、多少多めのお小遣いやゲーム機を与えていたのだろう。しかし当時は、ゲームが上手いからなのか、自分が持っていないものを持っているからなのか、友達にちやほやされるからなのか、なにやらもやもやした気持ちが湧き上がってきたものだ。
自由にお金が使えるようになったら嫌というほどゲームしてやろうと思っていたが、その頃の躾(?)のたまものか、今でもなかなか興味が向かわない。定年退職したら、ドラゴンクエストとファイナルファンタジーに、それぞれ1から向き合うつもりではいる。
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