【エッセイ】聞くも聞かぬも恥
この諺を絶妙な塩梅に感じるのは、聞いても聞かなくても恥としているところだ。例えば「聞かぬは一生の恥」だけだったなら、他人が知らないことをバカにしているだけにも感ぜられる。どちらも恥ずかしいからちゃんと聞いた方がいいぜ、と、負の感情を認めた上で教え諭す形なのが絶妙に感じるのである。
負の感情(恥)を認めたがらない人は大人でもいる。
小学生の頃、「わかった人は手を上げて~」「間違えても恥ずかしくないよ!」なんていう先生がいたが、いや恥ずかしくないわけがない。先生だってなにかを間違えた折りには恥ずかしくなるはずなのに、生徒には恥ずかしくないなんて言ってのけるのである。
ちなみに私は別の先生に、「分数言って」といわれて「分数」と答えたことがある。ボケではなくマジだった。私がボケ回答をする生徒でないことを承知していた担任は、「よい間違いをしてくれた」と誉めてくれた。改めていい先生である。
また、少し前に家族が見ていたドラマで、ある病気の疑いがある患者さんが、その病気の検査を渋るシーンがあった。
「怖いし、恥ずかしいし……」という患者さんに、お医者さんは「怖くないし、恥ずかしくないですよ」と諭すのだが、そりゃアンタは怖くないし恥ずかしくないだろう。何千何百とやってきただろうし、とんでもない失敗をしたことがないんだろう。でも患者さんからしたら初めての経験である。場数が違いすぎる。
ここの気持ちに寄り添えるかはお医者さん次第だろう。これまた自分の話だが、最近行った歯医者の問診票に「極端に怖がりなので、注意して欲しい」というチェック項目があった。無論チェックを入れた。
歯医者は医者の中でも誰しもにとって身近で、かつ怖がられやすい分野だと思う。だからこそ患者の「怖い」に寄り添えるのだろう。
恥にしろ怖さにしろ、負の感情を認めないのは却って逆効果のように思う。「怖くない! 俺たちはやれる!」と空元気を出さなければ鉄骨渡りはできなかっただろうし、空元気で自分を誤魔化して走るのがいいことも時にはあるだろう。
けれどよほどの時でなければ、恥とか怖さとか、そういう負の感情も認めていきたい。一生の恥より一時の恥を自分の意志で選びたいのだ。
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