見出し画像

ある人の一生

私には大変お世話になった、もう1人の祖母のような人がいました。昨年12/24に96歳、大往生で亡くなりました。血縁関係はありません。

その人の事を、書き残しておこうと思いました。私の知る部分はほんの一部だけど。
境遇に負けない強さと逞しさで、人生を生きぬいた人でした。

大正15年生まれ。私の祖父とは幼馴染でした。祖父は商売をしており、祖母も働いていたので、祖父の家に家事手伝いとして雇われました。私の母が4歳、伯父が6歳、叔母が0歳のでした。昭和32年なので、その方は当時32歳くらいだったと思います。

その方は、近所でお父様と2人暮らしをされていました。
母たちはその人を『お姉ちゃん』と呼びました。
仕事をしていた祖母に代わり、月曜から土曜日まで、朝歩いて家まで来て、食事や掃除などの家事全般をして、お風呂に入って、自分の家に帰っていく、という生活を46年間続けてくださいました。

途中お父様が失明した時期だけ少し休まれましたが、結局80歳近くまで勤められました。
その間に母達兄弟は皆結婚し、産まれた私たち兄弟や従兄弟たちのお世話もたくさんしてくれました。

その後、うちの家事手伝いの仕事を辞めてからは1人暮らしをされていました。
足腰は丈夫、とても健康で、亡くなるまで病気などしたことがない人でした。
でもさすがに94歳の頃、『もう1人ではしんどいので施設に入りたい』と、様子を見に行った母に言いました。それから施設に入ってすぐ、コロナが流行しました。

そしてあまり会えないまま月日が過ぎて、先月に亡くなりました。前日に少し体調を崩し、翌朝あまり苦しむことなく、静かに亡くなったそうです。
愛知県では珍しく、12月に雪の降る日でした。

葬儀は母と叔母が喪主を勤め、血の繋がりはないけれど、私の兄弟や従兄弟が親族席に座りました。幼馴染だった大伯父も出席しました。
昔からよく知る、近所のお寺のお坊さんがお経をあげてくださいました。
「2、3人で寂しいかと思ったけど、こんなに沢山来てくれて、〇〇ちゃんも喜んでるよ」
お坊さんはそんなことを言っていました。


ユーモアのある、面白い人で、冗談をよく言ってました。
子どもに合わせて、洋食にも挑戦してくれました。
従兄弟が反抗期のころは、反抗されて大変そうでした。
たまに私の祖母のマイペースさにイラついて、こっそり愚痴ってました(笑)
アイロンがけが上手でした。
この人がいないと家の中の物がどこにあるか分かりませんでした。
お正月にはハゼを美味しく煮てくれました。


施設に入る時の手続きの際に、必要があり、母がその人の戸籍を取り寄せました。
その時に、その人は小学生の頃に母親が亡くなり、その後に妹が病気で亡くなり、その次に兄も亡くなっていることがわかりました。
祖父母は知っていたかもしれませんが、母達兄弟は全く知らなかったそうです。
小学校に行けず、独学で字を勉強していた理由がわかりました。
自分の事はあまり言わない人でした。


身内ではない事、雇われている身であるという事で、その人側からも、そして母や叔母からも、目に見えない一線を引いている所がありました。
何となくそんな空気を感じる時、何も知らない私はモヤっとした物を心に感じました。
私たち孫世代の結婚式には、一回も出てくれませんでした。母や叔母の結婚式にも出ていないと思います。

施設に遺品の片付けに行った時に、折り紙と折り紙の本を見つけました。私が9歳の年に出版された本。その人が施設に持参した、最低限の持ち物の中に、それはありました。
それを見た時、小さかった私達兄弟や従兄弟達のために、その本を購入して、一緒に遊んでくれたのだと思いました。私達を孫のように可愛がってくれていました。

産まれた環境は大なり小なり、不平等だと思います。この人の生い立ちを今更ながら知った時、ちょっとのことで弱音は吐けないなと思いました。
幸せだったかどうか、寂しくなかったか、本当のところはわかりません。ただ私の記憶の中でのその人は、冗談を言ってよく笑って、よく働いていました。

今を憂う暇があったら、今できる事をちゃんとやる。それを続けていれば、いつの間にか大切なものが積み上がって、山になっている。必ずしもそれはお金でないかもしれない。人の信頼だったり、絆だったり、そんな目に見えないものかもしれない。でもそれは必ず人生の財産になる。
そんな事を教えてもらったように感じました。


最期のお葬式は、ほとんど親戚のような私たちが、代わりに皆んなで見送らせていただきました。血縁者こそいなかったけれど、感謝のいっぱい詰まった式になったと思います。


本当にありがとうございました。
大変お世話になりました。
天国ではゆっくり休んでくださいね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?