誰だって種は持っている
教えるというと怯む
教材など「教える」という言葉が入っているとひるむ人が多い。
「自分には教えるほどの知識はありません」とか
「とても人様に教えるほどの人間ではないので」とか
「私なんかむしろ教わりたいほうです」とかいう。
「教える」ということは、そんなにハードルが高いのだろうか。
あなたが道を歩いていたとする。
「すみません、◯◯駅へはどう行ったらいいかおわかりでしょうか?」
と人に訊かれた。
あなたはその道を知っていたので、教えてあげた。
「その先をまっすぐ行くと大通りに出るので、左に歩いて5分くらいです」
この時、あなたは「教えるほどの人間ではない」のだろうか?
たまたま、あなたは駅への行き方を知っていて、相手は知らなかった。
それだけだ。
こんな時に「とても人様に教えるほどの人間ではありません」と断る人はいないだろう。
教えるというのは、それくらいのことだ。
知識の差が「教える」ことの根源
「自分は知っていて、相手は知らない」ことを伝える。
これが「教える」という行為だ。
そこに知識(あるいはスキル、ノウハウでもいい)の差があると、自然と「教える」という行為に至る。
それはPCの操作の知識でもいいし、ビジネスのやり方でもいい。
なんであれ、相手が知らないことで自分は知っていることがあるなら、そこに「知識の差」が存在する。
ギャップがある、といってもいい。
その差、あるいはギャップを埋めてあげる。
これは自然なことだ。
そこには、特に上下の差はない。
知っていることで「偉い」わけでもないし、教えてあげることが「何か立派なこと」であるわけでもない。
教えてあげられることは何もない、という誤解
なのに「自分には教えられることは何もない」と思いこんでしまう。
何か「教える」という行為が崇高なことのように思ってしまうのだ。
実は、教えてあげられることは、短くとも数年生きていれば、誰でも持っている。
その証拠に、子どもにむかって「そのおもちゃの遊び方がわからない。教えて」と問うてみよう。
「こうするんだよ」と嬉々として教えてくれるはずだ。
知識を(あるいはスキルを、またはノウハウを)得ていくことは人生の一部だから、何の知識も得ずに生きている人間はいない。
ただみんながみんな同じ知識を同じように得ているわけではないから、社会の中で「教える」という行為は頻繁に登場する。
誰かが知っているが、誰かは知らない知識、というものはどこにでもあるからだ。
教材とは素晴らしいものではなく、卑近なものだ
だから自分が知っていることを「教材」という形にしておく。
すると、あなたは「教えなくてもすむ」のだ。
教材が代わりにその知識を他の人に伝えてくれるからね。
その教材を見かけた誰かが、その知識が自分にとって役立つと思えば手にとる、思わなければとらないだけのこと。
こうした教材は世の中にたくさん存在する。
ネットのおかげで、たくさん目にするようになった。
検索で出てくるブログや動画はみんな「教材」だ。
中にはまるで役立たないカスみたいなものもあるが、誰も怒らない。
そして教材は商品化もできる
世の中に無料の「教材」は多いが、有料のものもある。
このnoteで言えば有料のマガジンを販売している人がいる。
電子書籍も「教材」であることが多い。
Udemyなどに行けば、動画になった「教材」がたくさん見つかる。
それぞれ購入者が「この知識が役に立つ」と思えば金を払うだけのことだ。
たまたま知識が値段をつけて売られている、だけのこと。
売れるか売れないかは、その知識を求めている人が多いか少ないかだけのことだ。
あなたが、たまたま人生の過程で得てきた雑多な知識が、ひょっとしたら他の人にとってみたら、金を払ってでも得たい情報なのかもしれない。
何も教えることなどない、と思わずに、「あれも教えることができる、これも教えられる」と思い込んだほうが人生は幸せだと思う。
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