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育てられないなら産むな

どうも、久しぶりに昼寝が出来る休日でした。2時間半も昼寝しました。それはもう昼寝の域を超えている、でお馴染みのわたしです。

『満足に育てられないなら産むな』
とか言う人いるじゃないですか。

純粋に思うんですよ。

なんで?
なんで育てられないと産んじゃいけないの?
産むだけじゃダメなんですか?

産んだあとは育てられる人が育てるでもいいのではなかろうか?
実際大昔の偉いお方は乳母が育ててた時代もあったよね?

今は育てたくても授かれない人が増えているわけだから、
子どもを大切に育ててくれる人に育ててもらったらいいくね?

子どもがかわいそう?
かわいそうかどうかは、他人が決めることじゃないからね。

育ててくれる人が愛情たっぷりで
子ども自身が安心して幸せを感じられれば
それで何の問題もないでしょ?

実の親でも、子どもへの愛情がない人がいないとも限らない。
現にそういう事件あるよね?

それって、実の親かどうかの問題ではなく
健全な愛があるかどうかの問題でしょ?

血のつながりのない男女が家族になれるんなら
血のつながりのない大人と子どもだって家族になれるはずでしょ。

結婚や子どもを産む産まないの自由が叫ばれるのであればさ、
育てる育てないの自由があってもよくないか?

人口減少してて、このまま減り続ければ国家崩壊の危機にあるこの国においてさ、
人っこ一人産んだ時点で
“ありがとう”やん。

無責任に子どもを産むべきではないとか言ってる場合じゃないんちゃうかな。

それに、ホンマに無責任に子どもをポンポン産むような人がいる、
あるいはこれからそんな人が出てくるとするならば、
それは教育の問題やと思う。

生命の尊さはもちろん、
自分の在り方について、
自分自身を愛するということ、
その愛を周りへ循環させていくということ、
死生観。

これって心に生きる教育。性教育なんよな。

ここの教育が全人類にしっかりと根づいていれば、
子どもが産まれれば育てるという覚悟は
自然と産まれるはず。
そして、それでもやむなく育てることを誰かに託すことになったとしても、
その託す先の人も、愛と覚悟を知る人であるはず。

今でもさ、特別な場合を除いて
子どもが産まれれば育てたいと思うに決まってる。

それが何かの理由でできないんやとしたらさ、
経済的な理由、身体的な理由、精神的な理由、
環境的な理由、
色々あると思うけどさ、
それをクリアにしてあげるのが
社会の役割じゃないの?

育てられないなら産むな、じゃねえわ。

そういうアンタがやれることないのかよ!
どうせ正義ぶって子どもがかわいそうとか言っちゃうやろ?

子どもがかわいそうってホンマに思うんなら
大人の責任として、
この国の未来を背負っていく子どもに
テメェが何かしてやれよ!

弱い者イジメばっかしてんちゃうぞ!

。。。

取り乱しました。

(深呼吸)

子育て自由化とは、
大人全員がこの国の未来である子どもたちに対して責任を持とうということなんです。

親は自分の子どもへの責任として、子育ての自由な選択をし、
子どもを持たない大人、子育てを終えた大人に関しても、
この国の子どもたちへの責任として、
いい見本となり、より良い社会を目指すべきなんだと思うんです。

育てられないなら産むな!なんて、
自分が産んだんだから苦しくても逃げたらダメだ!なんて、
子育ては大変で当たり前!なんて、
親ならみんな一緒だから我慢しなきゃいけない!なんて、

そうやって孤立させたり自ら孤立したりして、
マジでこれ誰トクですか?

教えて、アルムの山々よ。

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