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短編小説『痒い』 #2000字のホラー

 彼は逃げていた。

 追われているからだ。追手が何者なのか、なぜ追いかけてくるのか、何も分からなかった。ただひたすら逃げていた。

 暗い森だった。もつれる足を尖った草が引っ掻いて、裸足で砂利を踏む度に熱い痛みが喉まで突きあがってくる。苦しくて苦しくて、呼吸するたびに喉がヒューヒューと音を立てた。

 普段の運動不足が祟った。そんな事を思う暇もなく、限界は直ぐに訪れてしまった。地面にへたり込んで束の間の安息を得たいという欲望が脳を支配し、彼は呆気なくその足を止めてしまった。膝に両手をつき、間もなく地面へ転がる。星も月もない真っ暗な空が、木々の葉の隙間から覗いていた。ざわざわと森が鳴った。茂みのあちこちらから濃厚な気配を感じる。新しい獲物を闇の住人達が舌なめずりをして喜んでいる。彼の呼吸は依然として激しく、まるで全身が心臓になってしまったかのように、どくどくと波打った。

 きっと次の瞬間には追手が彼を捕らえるだろう。彼はもう何も考えたくなかった。全てを諦めて目を閉じてしまった……。

 スマホのアラームは無感情に鳴り続けている。彼は寝ぼけながらも慣れた手付きでそれを解除する。静寂がゆっくりと現実を連れ戻す。今朝は二度寝を楽しむ事はできそうもない。刻一刻と失われつつある悪夢の記憶は、異様な脱力感のみを残していた。無意識に掻きむしっていた喉元に汗が沁みて鋭い痛みが走った。

 彼は、ここ最近ずっと悪夢を見続けていた。得体の知れない誰かに追われていたり、夜の大海原で一人溺れていたり、焦燥と絶望、命が尽きると思われるその瞬間に目が覚める。幾日か経つうちに、彼は悪夢には共通点があることに気が付いた。悪夢を見た日は必ず体のどこかが物凄く痒くなって目が覚めるのだ。ある時は喉元、ある時は左足、眠っている間に掻きむしり、覚醒時には血が滲んでいた。大学の友人にそれとなく相談したりもしてみたが、ちゃんと風呂に入れなどと軽くあしらわれた。もちろんベッドや部屋も清潔にしていたし、アレルギーや虫害などもなかった。

 ある日、彼はまた悪夢を見た。

 自分の叫び声で目を覚ますと、部屋は暗く、まだ夜中だと分かった。そして次の瞬間、物凄い痒みに襲われた。しかし、今回はいつもと様子が違った、どこが痒いのか分からないのだ。体中を掻きむしるが痒い箇所が見つからない。彼は半狂乱になり、暗く狭いワンルームの中で暴れた。その内にふと、手が痒みを捉えた。

 信じられないことに、それはスマホだった。彼は自分の体のどこかではなく、スマホが痒く・・・・・・なったのだ。一心不乱にスマホの真っ暗な画面を引っ掻き、やがて痒みは治まったのだが、それはあまりにも異様で異常な光景だった。

 その事実を聞いた友人は彼に病院に行くことを勧めた。彼も脳の病気を疑ったが、診断の結果は脳には異常なしだった。医者が言うには、痒い箇所が見つからないという症状は珍しくはないという。しかし、今回のように他のモノ・・が痒くなることは例がないという。精神的な原因が考えられ、依存症の一種であると結論づけられた。

 つまりは現代病である、彼はスマホに依存するがあまり、スマホそのものを自分の体の一部だと誤認識してしまい、その結果、痒みまで発生してしまったのだ。失った四肢が痛くなる『幻肢痛』と同じような原理であると医者は言った。

 原因が分かれば対処法も分かった。ある種の精神病用の服薬と、徐々にスマホに依存しないよう生活改善をする方針が決まった。
 
 彼はスマホではなく目覚まし時計で目を覚まし、今まで着けていなかった腕時計で時間を知った。友人に誘われ熱をあげていたソーシャルゲームも辞め、単行本を持ち歩くようになった。そして悪夢をみることもなくなっていった。

 治療は成功へ向かっていた。彼は以前にも増して明らかに健康になった。スマホとも良好な距離感で付き合えていた。友人たちにもスマホ離れを推奨し、いかに過剰な情報に踊らされ、縛られているかをとうとうと語っていた。

 ひとたび街へ繰り出すと、誰も彼もスマホという小さな窓をしきりに叩いている、カリカリと画面を引っ掻いている。そんな姿はまるでスマホが痒いかのようだ。彼はそんな人たちの姿を見る度に少しだけ身震いがした。

 そして、ある日、彼は忽然とその姿を消してしまった。

 彼は夢をみたのだ。

 ざわざわと怪しく囁く暗い森と、まるでプラスティックのような水面を湛える大海原、得体の知れない何者かの気配がする、彼はそれらのイメージの中を浮遊している。いつか苦しめられていた悪夢の世界だった。だが、不思議と恐怖心はなかった。

 目が覚めると慣れ親しんだワンルームのいつものベッドの上だった。ぼんやりと光る目覚まし時計は3時を指していた。反射的に身体を確認するがどこも掻きむしったりなどしていなかった。大きくため息を吐くと、テレビが点いた。そこには人類で初めて月面着陸を成功させたアポロ11号が映し出されていた。宇宙飛行士アームストロングが月面に降り立つまさにその瞬間だった。

 彼はその歴史的瞬間には目もくれず、アームストロングの足元に転がる小さな月の石に釘付けになっていた。

「あ、あ、あの石が、か、痒い」




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