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『墨水桜花輝耀の景』高橋由一、1874年

桜の季節となりましたね。
私が思い出す絵の一つはこちらの絵になります。

『墨水桜花輝耀の景』高橋由一

高橋由一と聞くとその写実性を思い浮かべることも多いと思います。
この桜も綿密に描かれた絵の一つです。

タイトル

まず、タイトルですが「墨水桜花輝耀の景」墨水とは隅田川のことです。輝耀とはひかり輝くこと。
隅田川からの景色を描いているんですね。

1878年というと時は明治。明治の隅田川はまだこんなに自然豊かであったのですね。

桜は古くから日本人に好まれていました。平安時代から花見を開いたとされて言われています。

源氏物語 花宴

源氏物語にも花宴という話があるくらいです。ここで源氏は美しい朧月夜の君と出会うわけですね。

さて、明治時代ともなると写真が残っています。
この頃の隅田川はどうだったのか?

向島の桜 明治時代の中期(手彩色大判古写真)

明治時代の皆さんも今と変わらずお花見に来ている感じが出ている写真ですね。

ちなみに、隅田川沿いの桜は墨堤の桜と呼ばれるものです。
この桜は第8代将軍徳川吉宗が植樹しました。
隅田川は江戸時代には今より水量が多く、頻繁に氾濫していました。
そこで、徳川吉宗が、後に「墨堤」と呼ばれる堤を築き、桜100本を植えて行楽地化を図ったとされています。
一説には花見客が歩き回って土手を地固めさせる狙いだったとも。

墨堤さくらまつりのチラシ
行きたいな〜

墨田区さんから拝借しましたが、上の写真と構図が同じなんですね。
今も昔も桜の名所なんですね。


高橋由一

ここで少し作者である高橋由一をおさらいしてみましょう。

高橋由一は、文政11(1828)年生まれの洋画家です。本格的な西洋の油絵技法を習得し、多くの作品を描いた「日本で最初の洋画家」と言われます。

下野国(栃木県)佐野藩士の子として江戸に生まれます。
幼名猪之助、維新後は由一。号は藍川。
幼少から狩野派ほかを学びますが、嘉永年間(1848~54)に西洋石版画の迫真性に打たれ、1862年幕府の洋書調所画学局に入り、川上冬崖のもとで西洋画法を学びました。

廣尾稲荷神社 拝殿天井墨龍図 1847年
まだ若い頃の作品です。力強い龍が描かれています。

また横浜のワーグマンやショイヤー夫人にも指導を受けます。

西洋の石版画の真に迫った写実性に感激して西洋画を志したといわれます。

『丁髷姿の自画像』(高橋由一、
1866-67年)
1868年に明治となることから描かれた絵なのでしょうか。手探りで描かれた油絵とも言われています。

洋画家としての活動も安定するようになると、画塾を設立したり、個展を開いたりと洋画の普及にも力を入れるようになります。
その後も、工部美術学校の画家フォンタネージに指導を受けたり、浅井忠らと明治美術界を発足させたりと、洋画の研究と普及のために生涯を捧げます。

息子である高橋源吉も画家となります。

『大婚二十五年奉祝景況図』(高橋源吉、1894年)
二十五年にちなんで二十五枚描かれたそう。

余談となりますが、源吉にこの絵を依頼したのは亀井茲明伯爵。彼は日本で初の従軍カメラマンとして日清戦争に行きました。

ちなみに源吉の写真も残っています。

20歳くらいの写真だそうです。イケメンですね。

高橋由一の長男として、また唯一の息子だったためか、父の影に隠れてしまった感もします。。

墨水桜花輝燿の景

さて、今回の絵に戻ります。

墨水桜花輝燿の景

高橋由一は写真が台頭した頃、まだ白黒の写真に対し、絵画をカラーの写真という位置付けにしたかったのです。 
すごい写実性を持って描いているんですよね。

拡大図です。

花の一つ一つまで丹念に描き込まれています。

この作品は浮世絵の画題を油彩で描いたと言われています。
歌川広重の『名所江戸百景』などにある近景モチーフを極端に強調する「近像型構図」を油彩技法で描いた作品。

『名所江戸百景 亀戸梅屋舗』歌川広重 
ゴッホも模写したあの浮世絵です。


こういう和洋折衷的な作品は日本における洋画の黎明期にはよく見られました。
何せ、高橋由一は明治を迎えた時はすでに齢40でした。半生を江戸時代で過ごしているわけなのです。。

この白い花が浮きだって映えて見えます。


この絵は、新たな技法の中で苦闘する高橋由一の足跡を思いませんか?
桜を見た時この絵をふっと思い浮かべてみてください…。

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