見出し画像

読書日記

二月中旬か下旬から、本ばかり読んでいる。特に3月に入ってからは、いよいよ本をがつがつ読んでいる、といった感じになっている。

ところが今読んでいる本があまりに難しく、そして私がギリギリ理解できる範囲では最大限に難しく、この本を読み始めて以降ほかの本が読めていないので、息抜きにこの文章を書いている。

これがその本である。社会構成主義に関する本だ。この本を読むといいよ、と大学の先生に言われ、素直に読んでいるのだが、ものすごく難しい。”良心的案内書”……確かに良心的、体系的にわかりやすく解説してくれてるのだが、それでもすごく難しい。多分、ソーシャル・コンストラクショニズム……社会構成主義について広範囲に、そして理論的な背景をたくさん書いてくれているから、難しいのではないかという気がする。

社会構成主義では、社会現象は、私の普段用いている言語や、ものの考え方によって構成されるという。ではその言語とは社会構成主義においてどういう意味を持つのか? ものの考え方とはいったい何なのか?

サピア・ウォーフの言語相対仮説、フーコー、ナラティブ、家族療法……そういったいろんなものを巻き込みながら話が進んでいく。私たちが語られる言葉にどういった権力が渦巻いているのか? 言語は単一で意味をなしうるのか? どうして権力構造が世代を超えて継承されていくのか? 再帰性とは何か? ラディカルな社会構成主義は相対主義として同業者間でも嫌われるが何故か? 社会構成主義が挑む”脱構築”、あるいは”主流派心理学者”たちが中心に据える二項対立を超越する、とは何か? ナラティブの分析家が語りを分析するときに必要なことは何か? (ソーシャル)コンストラクショニズムとコンストラクティビズムの違いは何か?

こういったことが書いてある。

私の頭がもう少し良ければするすると本書を読めるのだろうが、なかなかに難しい。いや本当に……この本を毎日読み始め、五日が経過しているが、いまだに読み終わらない。そろそろ読み終わりそうではあるが。う~~~~ん、私に研究は向いてないのかなあ、、、というネガティブな思いさえ出てくる。

本書を読んできて思ったのは、私はフーコー的な方向はやはり合わないというか、あまり興味が持てないなあという事だった。逆に、批判的ナラティブ分析なるものには、そこそこに興味が持てた。

あとまだもう少しページが残っているので、続きを読んでくる。

それではまた次の記事でお会いしましょう。