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読書覚書『コンピュータのある教室』

『コンピュータのある教室』1996年岩波書店
https://www.amazon.co.jp/dp/4000039474/ref=cm_sw_em_r_mt_dp_5VV3SBB9GND436RYCPM0

90年代半ばからPCが家電になり、96年には学校のネットワーク環境整備を進める答申を当時の中央審議会が発表しています。
Windows95が発売されて社会全体がインターネットに熱狂し、あらゆる夢物語が描かれた時代だと記憶されている方も多いかと。

「教室にインターネットを」、それに対する期待/批判、当時のそれぞれ反応が、近年の教育ICT化やDXをめぐる言説と面白いほど重なっていて、96年に出版された本を22年に読むあじわいがありました。

佐藤学先生は当時プレイヤーだった苅宿先生の授業を「苅宿さんの教室とケンブリッジ•パブリック•スクールで築かれているネットワークは、情報と情報のネットワークなのではなく、人と人のネットワークであり、経験と経験のネットワークである」と述べ、テクノロジー神話が広がる社会のなかでむしろコンピュータを利用しながら「反コンピュータ教育」を行っていると評価しています。

また、佐伯胖先生は未来の姿に想いを寄せています。「インターネットの接続に歓声をあげて熱中している姿に二一世紀の教室の子どもたちの姿を見るべきではない。教室にさりげなく置いてあるコンピュータ、あるいは机の引き出しにしまってあるノート型コンピュータに、ときどき必要に応じて子どもたちが自由にアクセスし、終われば自然にそこから離れ、すぐにもとの活動にもどるという、冷静で落ち着いたコンピュータ利用の姿こそが、二一世紀に見たい教室の子どもたちの姿ではないだろうか。コンピュータをノートや鉛筆を使うのと同じくらい自然に、当たり前に使い、むしろ関心はそれを通して見える対象世界そのものに向かう。ただ以前と異なるのは、その対象世界が教室や学校を越えて、他の地域や他の社会に開かれていると同時に、そこでの探求は、教室の他の子どもたちとの協同的営みとして、かつまた一人ひとりにとっての独自の意味付け(自分探し)を深める営みとし、格段に豊かな展開が見られることである。」

二一世紀ということばを意識する機会がまれなくらい、ゆうに二一世紀を生きている僕たちはこのメッセージを前になにを思うでしょう。
数は少ないにせよ国語×ICTという文脈でお仕事をもらうことのある自分は、この考え方からぶれていないか常に意識したいと思います。
一度本棚にしまったかつての文献のなかに、来るべき〈未来の教室〉を垣間見た気がしました。

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