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個人の痛みと社会の痛みの間で

相手の痛みを自分の痛みとして、社会の痛みを自分の痛みと考えて動くことが「市民」になるためには必要なのか。しかし、痛みを共有することは共倒れしてしまう危険も孕んでいる。教育、福祉、政治、経済。どこかでもうこれ以上は共有できないと感じたとき「人のせい」にすることで、あるいは問題を自分から切り離して考えることで健康を保つ処世術の必要も感じる。

そこで社会の痛みと自分の痛みを逆のベクトルで繋ぐのはどうだろうか。自分がいま感じている痛みは個人的なものでありながら、実は社会の痛みでもあると捉えることで、その痛みを社会課題として外在化し、客観的に捉えられる形にしたうえで、探究的プロセスで解決に取り組む。SDGsを知識として理解し、その中から探究課題を選んで設定する危険性や空虚さと裏返しの構造にある。あくまで自分の足元の課題をとことん考えることが結果として社会の課題とつながっている、そんな構造に希望を見出したい。社会/他者を自己に取り込むのではなく、自己を拡張して社会を身体の一部として捉える、その姿勢が「市民」の姿だと定義づけてみたい。

では、自分の文脈から外れた他者の痛みに接した時、痛みを共有する以外にどのように共に居ることができるか。同じ痛みを共有するのではなく、それぞれに痛みを抱えていて、それはどちらの痛みの方がしんどいというような比較ができるものではないという地点に互いが立つことなのかもしれない。私たちはそれぞれの痛みを抱きながら生きている。人の痛みを否定しなくても、自分の痛みを伝えることができる。自分の痛みを抑え込まなくても、人の痛みを尊重することができる。まずは自分から。

引き続き考えていこう。
それしかできないが、それだけはできるのだから。


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