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最愛の母の死

はじめまして。誰かに母親の強さというのを知ってもらいたくてnoteに書き綴ろうと思いました。
まず、私は現在、2人の息子を育てているママで23歳です。
母親が亡くなったのは2022年4月5日23時50分頃
死因は、末期の肝臓癌でした。

母親は、お酒が飲むのがとにかく大好きで毎日といっていいほどお酒を飲んでいました。
仕事が休みの日は午前中からお酒を飲んで夕方には寝ている、、そんな感じでした。
今思えばお酒を飲むことが母親の趣味で、ストレス発散だったのではないのかなと思います。

母親と私は友達のような関係で、なんでも話すし相談するのも一番最初は友達よりも母親、異性関係のことに関してもお金のことに関しても全て相談するのが母親というくらい仲良しでした。そんなふざけ合って大笑いしての日々がもっと続くと思っていました。


母親がおかしい

胃もたれするようなったんだよね〜。と母親がよく口にするようになりました。
その頃からお酒を飲んでも美味しく感じないというのもあり飲まなくなり、食べては胃もたれで吐いての繰り返しになっていました。
それでも、時々吐かずに食べれる時があり、年齢も年齢だし更年期なのかな〜?と思っていたんです。
ですが、2021年12月後半からもっと様子はおかしくなり
リビングに布団をひいて一日中寝るようになったんです。
実家に帰って窓から覗いてみると母親が寝ていて何度か会わずに帰ったこともあります。
その時には、食べても吐く・倦怠感・胃もたれ・微熱
1日の大半は寝込む・言葉に覇気がない。
こんな感じでした。
父親とも旦那とも兄とも話して病院に連れて行ったほうがいいんじゃないかとなり、母親に言ってみるも
断固拒否、怒られてしまうというのが毎回でした。
「私が行きたいタイミングで病院は行くから!
 いちいち言ってこないで!」が決まり文句でした。
それから数日後病院へ行くことへなるのです。


病院へ

2022年3月17日
夜の19時ころ父親から電話がありました。
「なんだろ?珍しいな〜」と思いながら電話に出ると
「いまから病院につれてくから!こんではダメだ!
 死んでしまう!足も浮腫んですごいし、腹もすごい。」
と言われました。
その後ろで母親が「来週でいいから!」と言っていて
「んで、救急車呼ぶど!」という言い合いをして電話が切れました。
とりあえずわたしも病院に行こうと思い少し時間が経った後に父親に電話したら「これるなら来てけろ。」といわれたので行く準備をしていたら母親から電話があり
「来なくていいからね?あんだはちゃんと家のことしてらいよ?大丈夫だから。わかった?」と言われ、絶対に泣かないと思っていたのですが、泣きながら、うん。と答えてその日は行きませんでした。
夜に父親と何度か連絡を取っていたのですが
肝臓癌末期、余命1カ月〜2カ月で手術も難しいとのこと
肝臓移植なり今の医療技術なんとでもなるでしょ!病院変えるとかさ、、と思ったのですが
元々血圧が低く肝臓の3分の2が癌に汚染されて
破裂して出血しているというのもあり手術は難しいとなったみたいです。
でも、余命宣告されても長く生きてる人は沢山いるし
お母さんも大丈夫だよ!と思っていたのですが...


面会にて

初めての母親との面会は入院してから2週間ほど経って
兄が母親の状況を聞いて実家に戻ってきた時
病院の方に電話したら、「本当はコロナで厳しいですけどご家族の方ならいいです。」と特別に許可を頂いて会いに行くことになりました。
病院へは私の旦那が送ってくれて兄が先に会うことになり
母親のいる病室へ行くのですが5分ほどでもどってきて
目を赤くしながら、「あれはもうおっかーじゃない。」と言っていて、そんなはずないよ〜と思いながら病室に入ると、もう目を開けるのも精一杯呼吸するのも精一杯
痩せていて細くなりまるで別人でした。
母親に話しかけるも頷くだけ、最終的には帰れと手で追い払われ、大丈夫だからね。と言って帰りました。
母親も自分の姿を娘や息子に見られたくなかったんだと思います。
旦那がわたしが泣いて帰ってきたのをみて
気分転換に寄り道していこ!と言っていつもとは違う道を通ってかえったのですがその景色が綺麗でいまでも思い出します。旦那なりの優しさだったんではないかなと今では思います。


それから数日

それから数日たった朝の7時頃
父親の電話に病院から連絡がありました。
「容態が急変していますのできてください」
父親は「わかりました。今行きます」といっていて家を飛び出ました。
その日の午後に父親から連絡があり
「心拍が不安定だからきてくれ」と言われて
兄と病院へいきました。
すると母親は口を少しあけて呼吸する程度
意識もほぼないじょうたいでした。
心拍は不安定になったり安定したりの繰り返しで
とりあえずわたしと兄は家に帰り父親は病院にいることになりました。
そして、夜22時過ぎに父親から電話があり
電話に出ると「もうだめかもしんね〜な。きてけろ」といわれ、旦那に乗せてもらい行くともう口呼吸で口をパクパクさせて呼吸していました。でも手を握ると弱くですが握り返してくれて、、色んなことを思い出しました。
高校生の頃異性関係で本当に迷惑かけたこと
お金関係でものすごく助けてもらったこと
何にたいても協力してくれて助けてくれたこと
昔から苦労してきた母親、父親方の母親の認知症で悩まされてきた母親。もういいんじゃないか頑張りすぎてきたんじゃないか、そう思い、「もうお母さんむりしなくていいよ。ゆっくり休んでいいんだよ。」そういうとだんだん心拍もなくなってきて...
2022年4月5日23時50分頃 享年52歳でした。


追記

私は5月に第二子を出産予定でした。
亡くなった後に母親の手帳を見たら私が検診した日に
必ず、順調☺︎とかいてありすごく楽しみにしていてくれました。
母親がなくなる数日前はもうしゃべることも難しいので
ノートに筆談で会話していたようなのですが
それもみせてもらったら最後の最後まで私の心配をして
くれていて、本当に母親っていうものは自分がこんな状況でありながらも子供達のことを1番に考えてくれる強くて偉大な存在なんだと思いました。
第二子は5月10日に3532gで生まれてくれました。
名前は深月とかいてみづきです。
母親が生前にこの名前いいな〜と言っていた名前です。
月のように澄んだ心を持っていて深い真がある子。
今はその子も4カ月上の子は1歳8カ月
下の子はばあばを見ることができなかったけど
君のことを思っていたよ。愛されているね。
私もこれからもずっと母親が大好きだよ。ありがとう。

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