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この世の中は希望でしか変わらない


前書き— 文字の偉大さにようやく気付きました


 とあるこんにゃく屋さんの猛烈な推奨を受けて聞き始めたコテンラジオ。1回15分くらいで日本や世界の歴史上の人物、発明、時代の変化などを軽快に教えてくれて、これが結構面白い。

 第13回『文字、爆誕。—人類のコミュニケーション史』によると、文字を持たぬ人間と持つ人間は根本的に思考体系が異なるらしい。例えば、丸、三角、四角といった図形を概念として理解したのは文字を持つようになってからだそう。文字は、人々がより高次元の思考に辿り着いたり、遠くの誰かと繋がって世の中に新しいうねりを作ったりしたのを大いに助けた。人類の発展は、いつだって文字文化の発展と一緒だった。



 翻って私は、日記を書こうとも1週間ほど経てば日記帳を無くしているし、過去の浅はかな自分の考えが将来的にデジタルタトゥーになることを心配して何かをパブリックに公開することも避けてきた。文字が使えるのに、文字を使ってこなかった

 ラッキーなことに私はまだ18歳。先人が生み出した文字という利器で、自分を発展させられるように、そしてちょこっとだけ社会の発展に関われるように、これからはもっと文字を生活の中に取り込んで行こうと思います。

 




ということで、今日は(誰かと会う度聞かれる)なぜ高校を卒業したばかりの18歳がここ福島県の浜通りに来たのかということと、そこに対しての1ヶ月が経過しての所感を書きたいと思います。フル尺でお届けしますので長めです。




浜通りに来た経緯


 私は、生まれも育ちも北海道で、2022年3月に札幌の某公立高校を卒業した。ざっくり言うと学問的にも文化的にももっと広い世界が見てみたくて、9月から米国の大学に進学することに決めたので、入学するまで半年弱の空白期間があった。そのいわゆるギャップタームでなぜ福島に行こうかと思ったかの経緯は、1年前までさかのぼることになる。






 17歳の夏、というと響きは最高だけど、あの頃の私は、自分の方向性を完全に見失っていて、思考が八方ふさがりになっていた。


 思い当たる要因としては、ちょうど学校祭があった。私のやるからにはちゃんとやろう精神はいつも通り火が点いていて、今年もショートムービー制作やらクラス発表やらの主要な役割を担っていた。

 周りは皆受験生だったからはじめから期待薄ではあったけど、それを踏まえても今回の学祭準備はかなり深刻な状況だった。人は集まらないし、作業も全然進まない。責任を負ったからにはやり遂げなければと、一人か二人で段ボールにペンキを塗り続け、毎日ガムテープをホームセンターに買いに行き、状況を打破しようと新しいことを始めて、結果色々な人と揉めて、それで疲れて寝落ちする日々だった。


 それでもそれだけなら別に良かった。皆の無関心や冷ややかな視線がちょっとくらい痛くても、自分の労働量だけえげつないことになっていても、私は頑張れた。自分が所属するコミュニティのために最善を尽くすこと。自分が持ち合わせた能力やエネルギーを全体の利益になるように使うこと。それは誰に言われるとなくずっと大切に実践してきたことだし、その価値を疑ったことは一度も無かった。


 でも、高3の7月、私は初めてそれが分からなくなった。要約すると、私は学祭期間中のとある出来事に関わっていた全員からあっさり売られていた。長い時間を過ごし信頼を寄せていた人々が、保身のために堂々と真実を塗り替えたのは正直結構ショックだった。どれだけ一生懸命やってても、裏切られる時はこんなにあっけなく裏切られるんだ、という事実の前には、これまでの努力は全て徒労だったのかなと思われた。


 ただ、それと同じくらい虚しかったのは、このことにすっかり虚しさを感じている自分自身だった。私、こんなに見返りを求めてやってたんだって初めて気づいた。人のために頑張ってるつもりで、実際は皆に褒められて感謝されることまでが一括りの自己満足だったんだって。私は他者への愛だとか献身だとかの価値に心酔して自己犠牲をしている自分に心酔していただけだった。




 私の尊い信条は、私が信じていたよりずっと脆くて、ずっとくだらないものだった。その事実をメタ認知すると、その価値観に沿って思い描いていたこれからの人生をどう望めばいいのかが全く分からなくなった。一番見失ったのは、やっぱり「頑張る理由をどこに求めたらいいのだろうか」というところだった。自分の純粋な意志から社会貢献したい、誰かのために頑張りたいとはもう思えなかった。

 コミュニティへの忠誠心から派生して、私には恵まれた人間としての社会への責任があるという中途半端なノブレスオブリージュ意識がずっとあった。私の気持ちに関係なく私は頑張らなければいけない立場だと思っていた。その結果、そういう責任を放棄することへの罪悪感ともう色々ドロップアウトしてしまいたいという欲望はかなり拮抗した。社会的奴隷かヒッピーか、みたいな究極の二者択一の未来像はどちらも最悪で、何もしたくなくなって、本当に何も手につかなくなった。




 高橋大就さんのインタビュー記事を何となく読んだのは、その状態のまま突中した夏休みの深夜にTwitterのスレッドをタラタラ見ていた時だった。
(知的障害や発達障害に個人的な思い入れがあって、ヘラルボニーの松田さんをフォローしていたことがきっかけ。)
(ちなみにこの記事:https://an-life.jp/article/1332)

 パブリックのために働きたい、大きな問題を自分ごととして活動したい、という高橋さんの考えはかつての自分と近いところがあったし、官僚とかマッキンゼーとか、自分のキャリアこそ至高と思ってそうみたいな圧倒的偏見を持っていた職業(世の官僚、マッキンゼーの方々ごめんなさい)でもこういう生き方をする人はいるんだなと思ってちょっと興味を持った。


 読んでみてまず、凄い使命感と覚悟だなと思った。社会の問題をここまで自分とリンクさせて、移住してまで故郷ではない町に関わる姿に、私の二択の前者を生きているのかなと思って最初は一種の同情を感じた。でも、インタビューの最後で高橋さんは、自分自身が楽しみながらもっとワクワクを生み出していきたいと話していた。こんなに深刻な現実にこんなに正面から向き合っていて、それでも楽しい、と言えるのは、ちょっと理解が追いつかなかった。

 でも、その言葉とその真っ直ぐな情熱は、何だかやけに眩しかった。嫌にキラキラしている感じではなくて、なんかこう、極限の二元論の中に新登場した「こういう考え方も出来るのか」という光明に思えた。高橋さんが前向きに自分と社会を動かそうとしている姿は、自分が出来るとは到底思えないけど、本当は在りたかった将来像であるような気がした。

 それと同時に、浪江町という町自体にも興味が湧いた。原子力災害という歴史に残る重大な出来事が起こってしまった地域、日本のあらゆる問題が詰まっている地域から目を背けたくないとまず思った。でもそれ以上に、一度ゼロになってしまったからこそもう一度皆で良い町を作っていこうというフロンティア精神と団結力には、200万の人口にあぐらをかいている札幌よりずっと希望と期待を感じた。この町からどんどんワクワクを生み出していくという言葉から既にワクワクを感じている自分もいた。


 夜の3時に私は見つけてしまったぞとえらく感動して、行くか、とそのとき直感で決めた。この人と働けば、この町に行けば、狭窄的で絶望的な私の未来像がきっと開けるという予感がした。それで、その後3ヶ月くらい高橋さんと浪江町をデジタルウォッチングして、落ち着いた心理状態でもなお気持ちは変わらなかったので勝手に連絡をして、インターンという形でこの地域に来ることになった。





1ヶ月が経って


 道外で暮らすのはこれが初めてで、一人で暮らすのも当然初めてで、この1ヶ月は正直新しい環境に適応することに精一杯だった。管理が追いついていない名刺の枚数ともう誰も意味を説明してくれない固有名詞の数には日々追われているけど、周囲の方々のお陰で楽しく元気にやっている。


 この1ヶ月の要素を分解すると、大体①なみえ星降る農園での作業、②とあるゲームの制作、③小高の町、小高パイオニアヴィレッジでの生活に分類される。全てに共通して、本当に沢山の人に会い、沢山の人の優しさに触れた。道を歩いている場面一つ切り取っても、見知らぬご老人と当たり前に挨拶を交わし、迷子になっていたら誰かが声を掛けて案内してくれるここでの暮らしには、人間って本当は素晴らしい生き物だったんだとついつい錯覚させられる。

 それだけでもう十分嬉しかったけど、それくらいまたはそれ以上に嬉しかったのは、世の中にはこの社会に対して何か明るい働きかけをしようと努力している大人がこんなにもいたということ。それは新しい事業を興すことに限らず、楽しいイベントを開催することだったり、自由に好きなだけ本を読める場所を作ることだったり、紙芝居を読むことだったり、美味しいご飯やお酒を振る舞うことだったり、歴史・文化を忘れずに大切にすることだったり、ゴミを拾うことだったり、一人でいる人に声をかけることだったりする。自分なりの糸口で、自分なりの関わり方で、社会のために何かをしている人々は、こんなにもいた。


 そんな素晴らしい方々と接しお話しをする中で思ったことがあった。それは、この世の中は希望でしか変わらないということ。皆さんの「今」を前進させようとする原動力は、より良い町を作りたい、より良い社会を作りたい、より良い未来を作りたいという希望から生まれていた。世の中を本当の意味で動かすのは、頭が良い人でも凄い人でも責任感が強い人でもなく、未来に希望を託したいと真摯に願う人だった。




 どれだけ手を尽くしてもきっと追いつかないこの社会に、一生懸命何かをしても、最後はただ消えていくだけなのかもしれない。頑張るのは自己満足なのかもしれない。それでも今、私は、この社会に自分が新しい希望を作りたい、と思うようになった。それは誰かを喜ばせたり感謝されたりすることが目的じゃない。希望だけが人間が前を向いて明るく生きていく力になるから。希望でしか良い変化は起こらないから。未来に希望を持ち続けることは多分、ずっと揺らぐことのない正義だから。


 そして同時に、自分に埋め込まれていた歪んだ能力主義からもやっと解放された。この社会の当事者も、この社会を創っていくのも、この社会の皆。私が頑張って社会を変えないと、みたいなエゴが消えて、私は私の持ち場で、共創的な社会の枠組みの一部分として希望を増やしたいと思うようになった。1年間悩んでいた問いの答えが、ここで過ごした1ヶ月の中でようやく見えてきた。




 5月もまた、自分なりに色々頑張って、色々なことを吸収していこうと思います。1ヶ月間私に関わってくださった皆さんありがとうございました!

 






 

 

 

 

  








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