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ひとりで暮らすということ


一人暮らしをはじめて、6年が経った。
今の家に引っ越してからは2年。

自分が敷金礼金を払って契約書にハンコを捺して、引越し業者を探して依頼して住み始めて、毎月決まった家賃を納めているという事実に、未だにいたく感動してしまう。

あまりにもオトナすぎる。まさか自分にそんなことができるなんて、と未だにちょっと信じられない。

でも確かにそうしていて、わたしはそのお金とか勇気とかと引き換えに、ひとり暮らしという最高の贅沢を手に入れている。

実家にいたときは家族と喧嘩しながら譲り合っていたハードディスクの容量を気にしなくていいし、いつお風呂に入ってもいいし、何を食べてもいいし、食べなくてもいい。

なによりわたしが一人暮らしをしていていちばん幸せなのは、帰る時間を気にしなくていいことだ。
 
実家にいたときは、繁華街から少し離れた街に住んでいたので、友人と遊ぶときは本数の少ない電車を気にしながら過ごしていた。
そして帰りが遅くなると両親から心配の連絡が届いた。今となっては両親の気持ちが痛いほどわかるけど、その頃は本当に煩わしかった。

今は、わたしが何時に帰るかを気にする人はいない。
プライベートの生活のすべてを選択する権利はわたしにある。

それは、
「なんとなく家に帰りたくないから、遠回りして歩いて帰ろうかな」
という自分の思いつきを、誰も心配させることなく、尊重することができるということだ。

職場で感じたもやもやを持ち帰らずに、好きな音楽を繰り返し聴いて、自分の機嫌を戻して家に帰ったり。
その日あった嬉しかったことを何度も反芻させて、自分の身体に染み込ませて夕暮れの道を歩いたり。
ちょうど近くの映画館でやっていたレイトショーを一本見たり。
気持ちが落ち着くまで多摩川を眺めてから帰ったり。

夜ご飯があるから帰らなきゃとか、心配してるだろうなとか、そういう想いがちょっとでもあると、自分の心のままには楽しめない性格なので、どれもひとりで暮らしているからこそ得られた時間だ。

(ただ、一人で夜道を歩いていて怖い体験をしたこともある。この憤りについてはまた書こうと思う)


そうはいっても、わたしが誰かと暮らしている生活があったら、それはまた違う幸せなんだと思う。

待っている人の好きな食べ物を買って帰ったり、一緒に見たいDVDをレンタルして帰ったり、1人じゃ食べきれない種類のパンを買ったり。
その日あったモヤモヤも、帰ったら聞いてもらえると思えたら、良い方向に向かうこともあるのかもしれない。

心配してるだろうからと明るいうちに帰って、誰かのためにご飯を作るのも、絶対に幸せだろうな。

ていうか、それがない寂しさに襲われる夜もある。
だいたい、今の自分が幸せかどうかなんて、ほとんどホルモンバランスとその日の人とのコミュニケーションで決まるんだから。事実が同じでも、その日の機嫌で自分の幸せは決まる。


どう願っても、全部は手に入れられない。
寂しさと引き換えに得ている、今のわたしがひとりで暮らす幸せ。
とりあえず今のわたしはそれしか手に入れられないし、それを愛しているから、ラッキーだなと思って生きている。

いつかの未来で私がだれかと暮らす幸せを得たら、今の自分が羨ましくなるんだろうな。

そう思いながら、夕飯時の騒がしいコメダ珈琲のカウンター席でこれを書いている今の時間、めちゃくちゃ愛おしい。



今日の一曲

無限大/チャラン・ポ・ランタン


日が長くなってきた5月の始まり、夕暮れを見ながらこの曲を何度も何度も聴いていた。PVで自転車を走らせるももちゃんになったような気持ちで歩く。とにかく歩く。たくさん歩く。
なんの意味もない、だからこそ贅沢で、ひとりでしかできない、わたしっぽい時間。
こういう時間が、自分を自分らしく彩ってくれてるんだろうなと思う。



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