”光(情報)”あり過ぎでは何も見えない

こんにちは。
情報についての話が多めですが、今回もそうです。

物を照らしてくれて、気分も明るくしてくれるような存在の光。光って、良いものですよね。ただ、光が多すぎると対象は見えないんです。
あるいは、写真なんかでも良いですが、写真を撮るときに光が強すぎるとボケてしまいます。
昨今のカメラは半導体センサーを用いていますから、光が強すぎると光センサーが飽和(サチュレーション)してしまうので、対象を捉えられなくなる。だから、光の取り込み量を調整するために、絞り というものがついてます。

情報も、多ければ良いってものじゃないんですね。
情報に向き合うのならば、それだけの”絞り”が自分の中で確立されていないと、情報過多の中で、自分の頭の中がサチュレーションしてしまって、
対象が見えなくなってしまいます。

では、情報で頭の中がサチュレーションしないためには、どうしたら良いの?
工学出身のものからの提案は、
自分なりの仮説を立てて”モノ”(情報)を見ることです。
仮説がありきだと、きっとこのような情報があるはずだという逆算で、
モノを見にいくことができます。これが絞りの役割を果たします。
もし、すぐに見つからなくとも、そこで
自分の求めた情報の”絞り”を緩めて、探せばよい。

このプロセスは、研究ではよく用いられます。
理系の実験って、闇雲に実験装置を動かして実験して、何か結果が出てくると思われがちな気がします(なぜならば、かくいう私も大学院でしごかれる前はそのような考えをもっていました)、
理系の学生さんでも、”こういう結果を出す”という明確な目的を持たずに
実験をしてしまう学生さんは多いの現状ですし、そのまま
卒業してしまっている方が多いのを見ながら、勿体無いのを思います汗(かくいう私も、研究室配属してしごかれる前は漫然と実験をする学生だったので気持ち凄くわかります汗)
ですが、研究で学ぶ姿勢は仮説を立てて、それを検証していくことに他なりません。
しかし、逆説的かもしれません(絞りを選ぼうとするのは主観的なのにという意味)が、この仮説を立てる作業には、客観性が求められます。大学院の方では徹底的にそのことを叩き込まれるのですが汗
客観性まで求められるというのは面倒臭い話に感じます。だけど、この”絞り”を間違えると自分のリサーチが間違った方向に行くことになってしまいますから、客観性を担保しようとするのは結局巡り巡って自分を守ってくれる役割を担ってくれるので重要になります。

仮説の立て方、客観性の担保、検証、これらは積み重ねによるところが多いので、日々の中で繰り返す中で磨くことが大事なんだろうなと思っています。そして、このブログにおいては自分自身のプロセスを記録として残すために行なっていることでもあるので、それらを発信していけたらと思っています。







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