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2023年の振り返りと楔刺し(年間ベスト付)

2023年の個人的な振り返りを書き、意図的に表に出してみようと思う。
今年は自身にとって変化が大きい年だった為、言語化する事で一度自分に楔を刺しておきたいという意図が主。多分こんな事はもうしないと思うし、後になって消すかもしれない。
(自分に向けた言語化がメインなので文体も簡潔にしている、雑に感じられたら許して欲しい)

2023年の実績・受賞・メディア・個人仕事

デザイン実績

受賞

  • オーディオテクニカ様『Analogue Foundation』

    • Awwwards SOTD、CSSDA WOTD、FWA FOTD

  • 中村海産様:CI制作

    • 「日本タイポグラフィ年鑑2024」ロゴタイプ・シンボルマーク部門入賞

  • 岩手町様『きこえるいわて』

    • 「日本タイポグラフィ年鑑2024」オンスクリーン部門入賞

メディア

個人仕事

今見えているものは過去のもの。なので楔を刺しておきたい

表面だけを見れば、今年ほど仕事においてポジティブな変化が起きた一年は、これまでなかった。表面に起きている事だけで言えば、良い結果であるし、自分を褒めたいとも思う。
特に、表へ出る機会を避けてきた自分が、iDID Magazineさんにして頂いたインタビューをきっかけに、少しずつだが自分を認め、表へ開いていけるようになった変化は大きい。この変化を自分としては一番褒めたい。

が、「今」表面に見えているものというのは、過去の結果にすぎなく「今の自分自身」の事ではない。今とは、未来の自分へ向けた瞬間にあたるもの。だから「今」の評価とは、半年後や一年後と、もっと後のものとなる。だからこそ勘違いをし、過ちを犯しやすい。振り返りをし、一度楔を自分に向けて刺しておきたい理由はそこにある。

もっと素直に作りたい

これまでの自分のものづくりの過程を振り返ると、傾向は2つに大別される。
一つは「これをやってみたい」「これを試してみたい」欲を溜め込んだ、ただの身勝手なデザイナーによる過程だ。もちろん欲を溜め込む事自体は悪いことではない。半ば趣味のようにデザインを毎日見て、やってみたい事を溜め込み、試し、更新していく。デザインへの好奇心をなくしたら、恐らくその時点で自分の何かは止まる。デザインの楽しみは大きく減るだろう。

が、それによる自分のデザインの過程はやはり欲にまみれている。初手は本当にひどいものが出来上がる。それを見て我に帰り、削りに削った後で、やっと自分が本来作るべきだったはずの像のようなものが見え始め、作り、初めて人に見せられるものができる(ちなみにここで初めてShhhのディレクターである重松へデザインを見せる。欲まみれの状態が抜けるまでは誰にも見せない)。自分でもみっともないと思う過程だが、儀式のように未だ繰り返している事が多い。

ただそんな自分でも、まれにだが「一本の線を引く」ような感覚ですっと作れるようなときがある。今年その実感があったのは『Analogue Foundation』サイトと、『中村海産』のCIだ。
過去の記憶で言えば『Shhh』のサイトや、『NUTION』もそれにあたる。
そういう時の自分は、肩に力が入り切っておらず、プレッシャーはあれど気負いは少なく、より一歩引いた視線でプロジェクトを眺められ、距離が保たれているイメージがある。要は欲が入り込む余地が少ない。

特に『Analogue Foundation』サイトは、今年の自分にとって大きいものがあった。まだ上手く消化しきれていないが、これまで自分が蓄積し、形成してきた美学のようなものが、初めてクライアントワークで自己の欲から若干離れ、無理なく一つに結合できたような気がしている。
恐らくクライアントの高い美意識・価値観・期待値の緊張感と、良い意味での放任(=信頼)が、尊敬と共にシンパシーとして自分自身と合致した事に一つの要因があるのだろう。そこで素直にすっと作れたものが、クライアントに喜んでもらい、ファンから好意的な反応があり、AwwwardsはじめCSSDA、FWA と世界のデザインシーンの中での評価へもつながった。つまり『Analogue Foundation』のプロセスには、自分にとって大事なヒントがある。
が、正直今の段階では再現性を求めていける自信はない。「良い出会い」に期待する、という元も子もない結論になりそうだからだ。ただし「良い出会い」には必ずはじめから「良い匂い」がある。要は「この人、好き」という感覚なのだが、その良い匂いの感覚だけは忘れないようでありたいし、もし嗅ぎ分けることができたら直感に従い、進める大胆さは持てるようにしていきたいとは思う。

が、自分自身に対してのみ問うなら、抽象度は高いが「素直に作る」ということなのだろうと考えている。
自分の欲は始めからどうでも良いという尊敬と共感が互いにある状態で、クライアントと一体化されている状態。その場合に、すっと素直に作れるイメージが自分の中にはある。そしてその場合には、自分にとって大事な何かとも結合されているものが出来ているような気がする。
つまりはプロジェクト設計と関係性の質に還元されるということなのかもしれない。またそこはShhhに関して言えば重松の力によるものが大きいのだろうとも思う。

その意味でもう一つヒントがありそうなのが『中村海産』のCIプロジェクトだ。大正十年創業、100年前からそこにあったかのような、それでいて現代にも馴染み、未来へ向けた力強さと普遍性もある。そんな100年前も100年後もそこに自然とあるようなロゴを作りたい、という設定を自分に課したプロジェクトだったが、ひとつイメージとしてあったのは「おばあちゃんの家」だ。中村海産のみりん干しを昔から食べてくれている、和室で、こたつがあり、お茶とみかんがある、おばあちゃんの家。そんな家の中にあっても違和感のないロゴであって欲しいという願いがあった。それでいて店頭に並んでいても馴染み、いまの親子が集う食卓にあっても自然に受け入れられるもの。そんなイメージが優先されていたので、欲から離れ、素直に作ることができた。
これは「作るものへの射程期間を広く設定した」という点に、要因があるのだろうと考えている。100年のようなタームで長い目で見ていけば行くほど、自分の今の欲はよりどうでも良くなる。これも今後の自分にとって大きなヒントだ。

「美意識への共感と尊敬がある良い出会い」と「プロジェクトの射程を広く設定すること」。
これは自分にとっては良いプロジェクトにつながる要因として、この2つを今年一番覚えておきたいと思う。

これに付随して、一つ今後その欲をより退けてくれる要因となりそうなのが、『Analogue Foundation』での3つの受賞だ。アワードは結果にすぎず、身内に向けたものにしか過ぎない。クライアントとユーザーへの満足の提供とビジネスへの貢献こそが最優先であるべきな事が、真っ当で当然の指摘であるが、いち現役デザイナーとしてはこのアワードという存在は、稀に頭の中へ顔を出し、離れてくれない「アワードも獲れていないようなデザイナーなんて」という暗黒面の本当は存在しない他者の目と声(本当は自分の目と声)が聞こえてくる、コンプレックスの象徴となる存在だった。自分はまだまだ欲にまみれており、人が外から思うほど綺麗な人間でもなく、成熟も出来ていない。
キャリア的にもデザイナーを名乗り始めてからであれば8年目。自分としては中堅入りたて程度のぺーぺー感から未だ抜けきれない(いい年して何を言ってるんだと思われるかもしれないが、自分としては40歳から生き直しをしている感覚なので、実際そうとしか思えない。申し訳ない)。

だから、やっとその暗黒面の他者の目と声(=自己の目と声)から少し解放されたような気がしている。次も、さらに次も、と向かうのでなく、そこから離れ、自由になり『Analogue Foundation』と『中村海産』で今年掴みかけようとしているヒントをもとに、これからはもっと自分は、素直に作ることに照準を合わせていきたい。

トレンドから離れ、シーンの評価の目から外れ、忘れられながら、より素直に作っていく。それが自分にとっての最良の道なのだろうと思う。
デザイナーになろうと決めたのが38歳、今48歳。気づけばちょうど10年。
欲はまだまだ抜けきらないし、抜ける予感もないが、来年からの10年は、これをテーマにしていきたい。それに向けて歩めば10年後の58歳のデザイナーである自分は、いい地平に立てているだろうと想像する。
逆に言えば、「次も」「さらにその次も」と他者評価をどこかで求める思考に陥って制作へ向かうと、恐らく途中で無理が生じ、いびつな何かがプロセスとしても成果物としても生まれ、どこかで自分自身が息切れするのでないかと想像している。今このタイミングで楔を自分自身に刺しておきたいそもそもの理由はここに大きくあった。

技巧とは、主流とは、一体何なのだろう

一見話は逸れるが、今年観た『みちのく いとしい仏たち』展は、先程の話にそのまま付随する、それまでの自分の価値観を反転させる大きな気付きを与えてくれる機会だった。
東北の民間仏は、愛らしく優しい。威厳はなく、豪華でもなく、技巧も凝らされていらず、いびつだ。隙しかない。
ただその姿は単なるゆるかわというレベルの話ではない。それだけ東北の人たちにとっての毎日が苦しいものだったという事を表している。本当に苦しい人にとっては、信仰に威厳や豪華さは必要ないからだ。ただいっときでも現実を忘れて、すがりたい。そして優しく「大したことないんだよ」と笑いかけて欲しい。それだけが願いなはずで、その対象が本来仏像だったはずなのだ。

この祈りの原始のような民間仏を見て、技術とは、技巧とは一体何なのだろう?と自分に突きつけられた気がした。中央で活躍する、一流で主流とされる仏師達からは、これら民間仏は稚拙、下手、雑と相手にもされなかっただろう。でも自分には仏師たちの主流で洗練され、技巧が尽くされた「立派な仏像」からは絶対に感じられない感動があった。遥かに自分の心を許し、自分の側に居てくれる仏だと思った。
技巧から離れれば離れるほど、祈りの本質が現れてくる。人の側に居ようとするほど、より素朴なものへなっていく。一方、人の手による技巧が加わり、より精緻に、より洗練に、より豪華になればなるほど、不純物がまとわりつき、仏教普及や仏師同士の競い合いを背景とした見栄や権威が加わってくる。結果、祈りそのものからさらに遠ざかる。

ここに回答はないが、そのジャンルの主流でいればいる程、そのジャンルの技術やトレンドに浸かれば浸かる程、自分はまみれていないか、本質から遠ざかっていないか。それを疑う視線は持っていたい。これは来年からの10年のテーマに、そのまま接続しているはず。

流されることと「慣れ」のよさ

今年起きた自分の価値観の大きな変化のもう一つが、流されて生きる事が持っているポテンシャルだ。
自分には「これは苦手」というものが多く、特に人前へ出ることへの拒否感は相当強いものだった。が、iDID Magazineさんによるインタビューが一つのきっかけとなり、声を掛けていただくままに一旦自分のこだわりのようなものを捨て、一度流されてみると、これまで自分が想像もしなかった知らないところへ連れて行ってもらえる事が少しずつ分かってきた。
そしてそれ以上に分かったのは、「苦手とは慣れの問題である」という事だった。自分はこれが苦手、と思っていたものは、実は慣れの問題によるものが大きく、実際やってみたらそうだった、という事にようやくだが気づく事ができたからだ。
こんな気づきは、皆はたいてい20代くらいの頃に経験から知る事なのだろうと思うので、本当に遅すぎて恥ずかしい限りなのだがこの事を知ったのは、自分にとって大きい。

求められるのならば、無理に逆らおうとせず一度流されてみる。自分が苦手だと思っていたものは、実は単なる慣れの問題だけのものなのかもしれない。
今年得られたこの2つの気づきも大事なものとして抱えながら、来年からの10年を歩もうと思う
(とはいえ年明けのCASE STUDY新年会の参加は、身の丈に合わなすぎてさすがに無理がありすぎた。不安しかない)。

自分はいつも人より気づくのが遅い。大体10年単位で人より気づきも成長も遅いと思う。ただこればかりはしょうがないので諦めつつ、遅い事には理由があり、遅い人なりの別の得られる果実もあるのだろうという期待も込めておこうと思う。

年齢への呪いを解く役割を担う

先にも書いたが、自分は38歳でデザイナーになろうと決め、40歳ころからデザイナーの肩書をつけるようになり、今48歳なのだが、過去にはそれは恥ずかしいものだと思っており、極力明かさないようにしていた。フリーランスの頃であれば、それを話すことで仕事が来なくなるのではないか?という不安すらあり、なおそうしていた。

が、ある時、この生き方への考え方は、苦しくおかしいと思うようになった。例えば作家やアーティストであれば、それくらいの年齢であればようやく自分のスタイルが確立されつつあり、成熟期に入りつつあるような時期が多い年代だ。なんなら例えば若冲のようにこれから始めたという作家も多い。そしてその世界においてはまだまだ若造という年代でもある。
ではなぜデザイナーは男性で、若く、東京で、知的で、洒落ており、キラキラと活躍する像をイメージしてしまい、自分とのギャップに苦しむ事になってしまうのか?答えは簡単で、自分自身がその旧来の像に囚われているからだ。そして、社会もその像に囚われがちだからだ。

この像は単なる一例だが、これに限らず単一の価値観によるこうあらねばならないという像は、苦しく、生きにくい。
なぜならその像に当てはまらない人間は、デザイナーではないものとして全て切り捨てられる事になるからだ。
だから、もし38歳からデザインをはじめ、今48歳の自分のような人間が楽しそうにデザインしていたら、それだけで気が楽になる人はきっと多いのでないかと思ってる。こんな人もいるならじゃあ自分も出来るかもと思い、新たにはじめる人も増えるかもしれない。アワードも同じ理由で、あ、48でも獲れるのかと思ってもらえれば、じゃ自分もまだまだ全然いけるなと思い、もういい年だしそろそろ引退するか、のような年齢起点の考え方からも遠ざかってもらえるかもしれない。

そのシーンの豊かさとは「どれだけ多様な背景を持ったプレイヤーが活躍しているか?」の幅広さに還元されると自分は思っている。単一の価値観の人物像しかないシーンほど、貧しく、脆弱で、息苦しいものはない。
だから自分はそのうちの「年齢」の幅を広げて、その呪いを解く役割を果たせると良いと思っている。そして年齢の呪いが解かれるのと同じように、たとえば性別、地域、セクシャリティー、ルーツ、身体的特徴といった違いの幅を広げ、旧来の呪いを解くデザイナーの方がそれぞれ生まれてきて欲しいと願っている(このうち「地域」は既に前から生まれている)。構成する人が多様で入り乱れているほど、必ず面白いものが生まれ、表現が豊かになっていく事は、あらゆる歴史が証明していることだからだ。

と、勢いにまかせて一気に書いてしまったが、流されながらも、楽しげに、素直なものづくりをしていきたいという思いを、来年からの10年に向けて、改めて言語化し、自分自身へ楔を刺し、再認識させてみた。



たまに言うのだが、自分はデザイナーとして「作庭家」のようでありたいと思っている。その諸条件に合わせ、逆らわず、素材を活かし、より自然に、素直に思われる配置で、客人をもてなし、楽しませる趣向も込めながら、庭を作っていく。出来てしまえば「誰が作ったか」はもはや関係ない。それが自分が思っている最高のデザイナーとしてのイメージだ。

68歳になったとき、そんな風にもし自分がデザインできていたら最高だなと思う。




おまけ(音楽、本、展示、映画の2023年私的ベスト10)

毎年これらをまとめているが、今年はこの振り返りを書いて疲れたので、簡易的なものだけに留めておく。以下

音楽

  • Alexis Ffrench『Truth』

  • Kingo Halla『Empty Hands』

  • Sandrayati『Safe Ground』

  • SławekJaskułke『live at Jasmine』

  • Brandee Younger『Somewhere Different』

  • Jeangu Macrooy『Summer Moon』

  • Laufey『Bewitched』

  • Gia Margaret『Romantic Piano』

  • Aubrey Johnson『Play Favorites』

  • Rachael & Vilray『I Love A Love Song!』

上記から今年の10曲をプレイリストにもしてみたので、もし良かったら。

アレクシス・フレンチはディスコグラフィー通して「Canyons」の一曲以外全く好きになれない(申し訳ない)。なのに今年は中学生の頃のようにこの曲ばかりを掛け続け、自分にとっての2023年の曲となってしまった。正直この曲のやや大げさなアレンジですら自分の好みではないはずなのに。こんな理不尽な偏愛の出会いが自分の人生にまた訪れた事が嬉しい。


書籍

  • 保坂和志『書きあぐねている人のための小説入門』

  • 渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』

  • 遠藤周作『深い河』

  • 内田洋子『ジーノの家』

  • 川上未映子『乳と卵』

  • 芥川喜好『時の余白に 続々』

  • 佐藤亜紀『スウィングしなけりゃ意味がない』

  • ウィリアム・ダルリンプル『9つの人生 現代インドの聖なるものを求めて』

  • ダニイル・ハルムス『ハルムスの世界』

  • 遠藤大輔『デザイン、学びのしくみ』

今年は本が全く読めていなかった。本が読めていないという事は、本に集中する自分の時間を確保できていないという事を意味している。時間の細切れ化、体験の細切れ化、そういうものが読書から遠ざかってしまった一因だろう。
本は、気づきと内省と想像力を育む最良の手段。今年の一番の反省点、来年に向けての要注意事項のひとつ。


展示

  • 『ひかりの底』(橋本麻里キュレーション)

  • 『みちのく いとしい仏たち』展

  • 『杉本博司 春日神霊の御生』

  • 『倉俣史朗のデザイン』展

  • 『三澤遥 個展 Just by | だけ しか たった』

  • 『蔡國強 宇宙遊 ―〈原初火球〉から始まる』

  • 『江戸時代の美術―「軽み」の誕生』

  • 『甲斐荘楠音の全貌』展

  • 『デイヴィッド・ホックニー展』

  • 『モーリス・ユトリロ展』

橋本麻里氏キュレーションの『ひかりの底』は、これこそがずっと自分が求め続けながらも出会えてこなかった、現代日本の工芸美術の理想美として見ることができた。『みちのく いとしい仏たち』展は、さきほども述べたように「技巧」への価値観が反転する出会いを与えてくれた。この2つの出会いは今後自分が作っていくものへ、大きな影響を与える事を確信している。


映画

  • 『aftersun/アフターサン』シャーロット・ウェルズ

  • 『王国(あるいはその家について)』草野なつか

  • 『郊外の鳥たち』チウ・ション

  • 『こころの通訳者たち』山田礼於

  • 『対峙』フラン・クランツ

  • 『サントメール ある被告』アリス・ディオップ

  • 『午前4時にパリの夜は明ける』ミカエル・アース

  • 『サムサラ』ロイス・パティーニョ

  • 『アダマン号に乗って』ニコラ・フィリベール

  • 『ファースト・カウ』ケリー・ライカート

衝撃度で言えば『王国(あるいはその家について)』の体験ほど今年強烈なものはなかった。この方法論で撮ろうと思い、やり尽くした監督の肝の座り方と編集の力、俳優と観客への信頼は、静かな革命だ。
が、『aftersun/アフターサン』の、記憶をめぐる繊細で緻密で優しい余白に、自分は映画作品として圧倒的な愛情を抱いてしまった。




カバーでチラと写っている石の写真は、今年訪れた『イサムノグチ庭園美術館』。これまで体験したあらゆる芸術空間の中で、最もいい空気が流れる場だった。

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