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The Best Exhibitions of 2021(2021年振り返り:展示編)

2021年に訪れ、記憶に残った展示を。

共通項としては、日本的な美意識、特に相対化された視点で日本的な美とは?へ回答が示されている作家と、圧倒的な才能や好き!が突き抜けた作家。この二つにどうやら自分は惹かれた一年だった模様。
これは今年一年に限らない気もしなくもないが、まずは2021年の共通項らしきものとして。

篠田桃紅展 とどめ得ぬもの 墨のいろ 心のかたち

自然の中に漂い、とどまらず、移ろうもの。
それを墨の濃淡と線だけで、抽象画として表していく。
篠田桃紅の独自のスタイル「水墨抽象画」には、日本の古典美学への意識がはっきりと凝縮されている。
同時にその線と濃淡が与えるそのゆらぎやにじみに見入れば、そこから音すら聴こえてくるような、共感覚を呼び起こす物語性がある。
書から始まり、ニューヨークで発見するアクション・ペインティング的な抽象表現を経て、日本の古典美学へ回帰し、より削ぎに削ぎ落とすストイックな表現へと至る。
その作家活動の先にたどり着いた「一本の線」の強さと美しさ。表現世界の一つの理想系を諭されたようだった。

小村雪岱スタイル-江戸の粋から東京モダンへ

大正~昭和初期に泉鏡花の装幀を手掛け、人気装幀家として活躍した小村雪岱。
抑制された色彩。
余白を大きく取り、対象だけを浮き立たせる大胆な構図。
そこに「ぽつり」と置かれた、高度に抽象化された対象物。
そして一方で、ピンと張りを保ち、どこまでも繊細な線。
世界の境界をにじませる、神秘さすら漂う靄の表現も美しい。
これらが相まった小村雪岱のスタイルには「洒落とは何か?」への答えが全て含まれてるのでないか、とすら思えてきてしまう。
『おせん 雨』の繊細な雨表現に胸が締め付けられ、泉鏡花 『愛染集』装幀の雪表現に悶えくねった。

塔本シスコ展 シスコ・パラダイス

夫を亡くされた悲しみから、50代から独学で油絵を始めたシスコさん。
自宅の四畳半の部屋でキャンバスから空箱、空瓶、あげくはしゃもじにまで、描かずにはいられなかった事が伝わるプリミティブな力強さ。
そして、絵全体から溢れ出る、描く事そのものへのシスコさんの歓び!
その歓びの感情は、展示会場へ一歩入るだけで飛び込んできて、身体ごとシスコさんの歓びの中へと包まれてしまう。
絵画を観ているだけでこんな幸福感が得られるものなのか、、不思議な気持ちになった初めての絵画体験だった。
好きとは、なんて尊い感情なんだろう。
それを想う一方「そうまでして描かざるを得ない」シスコさんの人生の切実さにも同時に想像を寄せ、単純に幸福感に浸れない複雑さも入り交じる。
シスコさんの画面全体をびっしり敷き詰める画風は、最後、心の中に浮かぶ満月ひとつ、という静かで温かな優しい表現で終えられていた。
それはシスコさんの人生の旅について、これ以上ないほど象徴的なさまに見えた。

ファッション イン ジャパン 1945-2020 —流行と社会

それがどのような種類のものであれ、一気に歴史を俯瞰できる「展示」というフォーマットは、手早く学べる貴重な形態と思っている。
一方「表現」というテーマで言えば、こと「ファッション」とは最も移り変わりが激しく、経済と文化、そして時代に影響を受けやすいジャンルだとも言える。
と考えると、ファッションの歴史を俯瞰する事とは「時代を超えてもなお残る強い表現とは、どのようなものなのか?」の共通項が最も分かりやすく浮かび上がる事なのではないか?という仮説を持って観に行き、多くの発見が得られた展示だった。
そこで感じられたのは、森英恵、川久保玲、三宅一生。この3人の突出した表現法とそれが持つ普遍性。
より具体的には
森英恵は、「東と西の出会い」をコンセプトに「日本美」をオートクチュールとして昇華させた点。
川久保玲は、「女性を彩るための服」という既成の価値観と美意識から問い直し、ファッションの「哲学」を更新した点。
三宅一生は、「素材、テクノロジー、身体」に着目し、きめ細やかで洗練された「日本的技術」で昇華させた点。
と、一見三者三様ながらも、アイデンティティ(日本人であること、女性であること等々)への自覚と、世界と自分との相対化。その冷静な目線が前提となった表現である事だった。
この再発見はとても今年大きかった気がしている。

自然が彩る かたちとこころ

「自然は、美術でどう表現されてきたのか?」をテーマにした、三井記念美術館コレクションからの展示。
そのうちの琳派の絵師、酒井抱一『秋草に兎図襖』(上記リンク8枚目)が強く印象に残っている。
「風」をどう表現するか?
そのテーマを前に、酒井抱一はそこで「風を描かない」という選択を取った。
筆で風を直接描かず、斜めの木目を用い、組み合わせる事で「工芸的に」かつ「間接的に」風を表現する。
本当に描くべき対象は直接描かない。受け手に想像と解釈を委ねる。
河合隼雄はそれをかつて「中空構造」と呼んだ。中空こそ、表現のエッセンスでないかと感じている。

包む-日本の伝統パッケージ

日本の木・竹・藁・土・紙などの自然素材が活かされた伝統的なパッケージを「TSUTSUMU(包む)」というコンセプトで紹介した岡秀行氏のコレクションによる10年ぶり!(時とはこうも速いものなのか。。)の展示。
当時はちょうど東京オリンピック開会式をめぐり、ああこの国は本当に衰退しきってしまったんだな、と自分が日本人である事をただただ恥ずかしく思いうなだれる毎日だった。
そんな中でこの展示に触れた時「ああ僕らの過去には、こうも素材に敬意を払い、繊細で大胆で愛らしく包む美意識があったのだ。そのような人たちがいたのだ。」と思い、観ながらつと涙が出てしまった。
いっときではあったがこの美意識に少し気持ちが救われた気がした。こういうものだけを自分はこれから触れ続けよう、信じ続けていこうと改める機会をくれた展示だった。

イラストレーター 安西水丸展

「絶景でなく、車窓の風景のような人間でいたい」
水丸さんのイラストの魅力は、この言葉がすべて表しているような気がする。
車窓からぼんやりと眺めているような、執着から離れ、力の抜けた、でも愛のある、決して特別ではない風景。
その人でしか描けないものである事、がイラストの本質とするなら水丸さんほどそれに当てはまる人はいないのでないかと思う。
この軽やかさ、憧れるなあ、生き方として。
到底真似できないけれど。
真似事すら自分にはできないだろうけれど。

大・タイガー立石展 世界を描きつくせ!

たった1人の天才には、自分のような凡人が1000人集まったとてどうにも太刀打ちできない到達世界がある。
残酷な現実だけど、タイガー立石の作品を観ているとその現実も「まあ仕方ないか」と受け入れざるを得ない、圧倒的才能の渦に飲み込まれてしまう。
特にイタリア時代の「コマ割り絵画」のナンセンスで、シュールレアリズム的で、宇宙的なスケール感!
「これを普通こんな特大サイズで描く?!」な空想の飛躍力。だからこそ実物を前にすると「自分ごとどこかへ連れて行かれてしまう」ような才能の渦にまるごと飲み込まれてしまう。
こらえきれず、はじめて、美術館で吹いた。

川瀬巴水 旅と郷愁の風景

1984年、appleが発表した初代Macintosh。
その時のプレゼンと広告にジョブズが用いたのが、Mac上に映し出した「髪梳ける女」と題する日本の版画。これほど繊細な髪の線もMacintoshでは表現することができる、そうプレゼンテーションしている。
この絵は橋口五葉の作品だが、ジョブズがこの作品を購入した際、川瀬巴水の作品も買い求め、その後継続してコレクションし、亡くなる前の部屋へも飾られていた程、ジョブズは巴水の作品を愛していたのだそうだ。
空の色のグラデーションの美しさ。
誰もが広重を思い浮かべる、繊細な線による雨の表現。
雪一粒一粒の繊細な表情。
靄がかかり風景と溶け合い一体化した奥行き。
家々からぽっと漏れ出た暖かな灯りと、それが映り込む川の光のゆらめき。
「詩情」という言葉がぴったりと合う、日本風景。

イサム・ノグチ 発見の道

彫刻や舞台美術、プロダクトデザインなどさまざまな分野で創作活動をし続けたイサム・ノグチ。
「そうか『あかり』って光の彫刻作品を目指したものだったのか」
改めて実物を見ることで、はじめて実感をした。
晩年の、自分の作為性を削ぎ、ただ石の声を聴き、そこに命を宿らせようと費やした作品『石の庭』。ただただ素晴らしいと思った。
そのあり方は『作庭記』の一節「石の乞はんに従え」の言葉が重なる。
香川のイサム・ノグチ庭園美術館、いつか行ってみたい。


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