音楽(作曲)に音楽理論は必要か
「音楽(作曲)に理論は必要か」という議論は、古今東西尽きることがない。
まず私の見解を申しあげると、「あった方がよい」ということになる。
「感覚と理論のどちらが大事か」という趣旨と混同されがちだが、音楽理論とは2500年に及ぶ大作曲家たちの感覚を体系化したものであり、それを学ぶことは感覚を磨くことと同意なのである。
「音楽はセンスでしょ」という方にこそ、ぜひ音楽理論を学んでいただきたいと思っている。
音楽の初学者が学ぶ音楽理論の代表的なものに「楽典」がある。
「楽典」は音楽の語法ともいうべきもので、音楽の世界における基礎的な共通言語といえる。
これが理解できないということは、音楽の世界において生きていくことは不可能、とまではいわなくとも、いろいろな障害が生まれることは予想される。
例えばお互いが「リンゴ」のことを概念として知っていれば、それは「リンゴ」という単語において、それ以上の説明はしなくとも共通のイメージや理解が得られるのと同じである。
もし知らなければ「赤くて丸くて、甘い果物」というふうに、いちいち説明する必要が生じるかもしれないし、サクランボやイチゴを想像することはもちろん、相手によってはベリーやパッションフルーツなどをイメージするかもしれない。
「あった方がよい」という主張は消極的だと思われるかもしれないが、それは「なくてもどうにかなる」とも思っているからである。
大作曲家の素晴らしい音楽世界に触れずとも、自分なりの世界で音楽を楽しみながら生きていく、これもまた音楽に対するひとつの態度だと思う。
ただし、よほどの天才でない限り、その世界は狭く貧しいものになりそうである。
大作曲家たち、とまではいかなくとも、共通言語を持つ他の音楽家との交流は制限され、また「楽譜」という音楽書物の意味も、自分なりにしか読み解けないであろう。
「アフリカのジャングルの奥地から、モーツァルトは生まれない」という言葉がある。
これはモーツァルトがアフリカの音楽家より優れているというたとえでは、もちろんない。
アフリカのジャングルの奥地にも、素晴らしい音楽文化はあると思う。
ただし、西洋音楽を奏でるモーツァルトが育つ環境にはないということである。
かのモーツァルトも、もちろんアフリカの素晴らしいリズムなど思いも及ばないはずだ。
人は聴いた音楽、学んだ音楽に影響を受けて育つのである。
「理論によって感性が鈍る」という方もいた。
確かに、理論至上主義・理論偏重主義という弊害も、ないとは言いきれない。
しかし、ショパン、ドビュッシーなどの少なからぬ大作曲家たちも、理論を「あえて」守らず、素晴らしい音楽を創り出している。
「あえて」と書いたが、彼らは理論を知らなかった結果、名曲を生み出したのであろうか?
いや、知っていたはずだ。
知らずに守らないことと、知ってて守らないことは、まったく違う世界なのである。
どこかの漫才ではないが「となりのトトロ」を観た後は、観なかった世界には戻れないのだ。
それは双方向に決して行き来できない世界なのである。
そして「あえて」守らずに生み出されたその偉大なる発見は、次の世代に新たな理論を提供してくれるのだ。
シェーンベルクの12音技法は、ベートーヴェンの作曲法とは違う。
ベートーヴェン式に言えば「間違って」いるのである。
しかし、シェーンベルクは作曲技法の著書において、ほとんどベートーヴェンの譜例のみを、数多く引用している。
それは彼がベートーヴェンの作曲技法を深く研究し、精通していることを証明している。
その上で「あえて」違う音楽を作曲しているのだ。
極める必要はまったくない。
そんなものはゴールでも何でもない。
しかし、自分なりの理論の勉強というがんばりは、必ずその人の音楽によりよい感覚をもたらしてくれると思う。
私の作曲の師は「理論を勉強すれば作曲ができるようになるわけではないが、引き出しが増える」という言い方をされていた。
存在しない引き出しはもちろん開けられないが、そこにツールが入っている引き出しが存在していれば、当然開けることもでき、「あえて」開けないこともできるのである。
理論を使うことを選択できる自由を得るということは、音楽を今よりも楽しむ自由を得ることに他ならない。
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