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気持ちと言葉

小学校の時の担任先生には1つこだわりがあった。今でも忘れることができない。
ただ、そのこだわりは今の私にはあまり良くない影響を与えてしまったかもしれない。


そのこだわりというのは、何か悪いことをしてしまった時に「ごめんなさい」という一言を言わせることである。

その先生は国語の教師だったので、言葉を大事にしていたのだと思うし、ちゃんと謝ることのできる子供になって欲しいという想いもあったのだと思う。

直接先生に聞いたわけではないので、どの程度のこだわりなのか定かではない。しかし、何度か怒られているうちに先生がこだわっていることなのだと気づいた。

何度も怒られている自分が悪いのだが、まぁ子供だったのでちょっとした悪ふざけや悪戯などをして先生に怒られるときは度々ある。

はじめてその先生に怒られた時、友達何人かと一緒に怒られ、反省するまで教室の後ろに立たされた。しばらくすると何で怒られたのか、反省してるのかを聞かれ、私たちはそれぞれの考えを述べた。
一人ひとりの話を聞き終えると「席に戻って良い」と言われた者と「まだ立って反省してなさい」と言われた者とに分かれたのだ。

残された者は怒られた理由が違ったのか、はたまた反省が十分でなかったのかなどを考え、また先生に聞かれるとその整理した内容を伝える。
するとまた席に戻れる者と立たされたままの者と分かれる。そのようなことが起こったのだ。
そのときは席に戻れた者とそうでない者との違いに私は気づくことができなかった。


だがしかし、何度か怒られたときにその違いに気づいた。(そんなに怒られたのかというのは触れないで欲しい笑)
「ごめんなさい」と言った人は許されて、言わなかった人は立たされたままだったのである。
どれだけ反省していても謝罪のひと言がないと許してもらえない。ただそれだけだということに気づく。

それに気づいたあとは、反省そこそこにすぐに謝ることをするようになり、許してもらえるようになった。

その結果、反省していた自分がバカらしくなってしまった。
「ごめんなさい」という言葉よりも、どれだけ反省しているかの気持ちの方が大切なのではないだろうかという気持ちが強くなったことを覚えている。
「ごめんなさい」という言葉はただの謝罪の単語であって、謝罪は気持ちの方が大切なのではないかと先生に対し反抗の気持ちが強くなってしまった。

謝れない人にはなってはいけないが、謝罪の言葉を言うだけの人はもっとなるべきではない。
時々テレビやネットでお客様が店員に対して謝罪の言葉を求めること見たりするが、謝罪の言葉を言わせて何になるのだろうと思ってしまう。
言葉よりも本当に気持ちがあるかどうかが大切なのではないだろうか。言わせた謝罪の言葉に何の意味があるのだろうか。

今は大人なので、謝るべき時は気持ちと共に謝罪の言葉を言うが、それでも脳裏にこのエピソードが思い浮かび、ちょっと詰まった気持ちになってしまう。

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