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フォリー・ベルジェールのバーに行きたかった

コートールド美術館展(神戸展)が、コロナのせいで開幕することなく終了してしまい、なんかこう…コロナウイルスを呪い殺す方法ないかな…みたいな気持ちの週末です。こんばんは。いやほんとに、まじで。コロナ...すり鉢で磨り潰して焼くぞお前...(過激派)。

だいぶ前の日曜美術館か何かで、「マネの『フォリー・ベルジェールのバー』は、その時代の社会の縮図のように様々な人が描かれている」という話をやっていて、絵が背負ってくる物語の大きさに驚いたりしていました。

その昔、絵というのは、ただ見て、好きかどうか、綺麗かどうか、そういう判断をするべきで、時代だの背景だの作者の生い立ちだのといったものは、余計な付加情報だと思っていたような気がするし、昔の展覧会というのはそういうスタンスだった気がします。絵は淡々と並べられ、感じ方は見る人に委ねられていたし、こちらもそのつもりで足を運んでいました。

美術展が変わったな、としばらく前から何となく感じています。その筋の人間ではないので素人感覚なのだけれど、「ゴッホとゴーギャン展」「ミラクルエッシャー展」「ムンク展」…など、ここ最近見に行った多くの展覧会では、ひとつの物語を潜り抜けていくようにして作品を見たような記憶があります。そこには画家の人生があり、社会背景があり、今この時まで伝えられるべき理由があることが、ちゃんと示されていた気がします。

そして、絵にはどういうわけか本物を見た時にだけ感じられる奥行と広がりと温度があって、だからネットで見ればええやんとか、図録は通販するらしいぞという話ではなく、私はフォリー・ベルジェールのバーが見たかったのではなく、フォリー・ベルジェールのバーに行きたかったという話をしたかったんだ。

絵はいいなあと思う。特にゴーギャンの絵に潜むものが好きです。それが何なのか未だに探しているような気がするけれども。
彫刻も、あまり話題にしないけれど好きです。女性の立像の中で、佐藤忠良の彫刻だけは不思議と見分けがつくので、たぶん何かしら心惹かれるものがあるのだと思う。
陶芸はあまりわからない。皿は使われてなんぼだと思っているので、いつもパスタを乗せた状態を想像しながら鑑賞してしまう。

思い返せば美術展や博物展には好んで出かけているので、思い出した頃にぽつぽつ振り返っていくのもいいかもしれない。時系列もジャンルも気ままな感じで。

行きそびれたバーは、しばらく心の片隅に存在し続ける気がする。

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