近況報告と様々な事柄に対するリニューアルについて
様々な事、色んな事があり私はnoteを書く事、すなわち文章を書く事をやめていたのだが、最近思うところがあって、これを再開する事にした。
この「思うところ」という部分を論理的な文章に起こすのには、かなり、大分、いやものすごく難儀しそうなので、これについては一旦説明を端折る事にする。読者各位には「とりあえず大変な事があって筆を折る事にしたが、その後色んな事があってまた文章を書く事にした」んだと認識していただきたい。例えば青空を見たとき、その雲が千切れ、固まり、流れていくのに意味を見出さないように。
文章を――この独白めいたものを、あるいは小説じみたものを。私が書き始めたのはいつ頃だっただろうか。それは明確に覚えていて、確か小学三年生頃の国語の授業だったと思う。その国語の授業の課題に「作文用紙1枚以上の物語を書いてみましょう」というのがあった。私は――夢中になってそれを取り組んだ。その細部までは覚えてないけど、たしか主人公がもう一人のキャラクターを救うために、突破困難なダンジョンをくぐり抜けて助け出す、というストーリーだった、と思う。20×20の作文用紙にめいいっぱい鉛筆で書きなぐって、その裏面にダンジョンの地図まで書いて、私は想像の限りをつくして物語を作り上げた。課題の条件は「作文用紙1枚以上」だったのにも関わらず、私はそれに10枚程度費やして課題をこなしたと思う。
ある種の盲目的な熱意が無ければできなかった事だったのではないか、と今は思う。普通の子供は、基本的に小説を書きたがるわけがないからだ。
兎角それが、私をアマチュア小説家に導く、一つのきっかけだった。小学4年生からクラブ活動が始まって、なんだっけな……何かのクラブに入って、私は小説を書き、それを大型のホッチキスとガムテープで留めて一つの本を作った(もちろんそれは、先生の指導に依るものだが)。作文用紙の枚数は確か30枚から40枚だったと思う。表紙にはイラストのようなものを描いて、教室に置いて誰でも読めるようにした。どういった経緯かは思い出せないけれど、何故かそれはクラスメイトの十数人に読まれ、好評をいただいた。私の小説を気に入ってくれたクラスメイトの一人が、私の小説の表紙イラストを代わりに描いてくれた事もあった。それはとても幸せな事で、私は自分の物語が、クラスメイト全員とは言わないまでも、その数十パーセントが気に入ってくれた事を、とても幸福に感じ、誇りにさえ思った。東京都内のの小学校で起きた出来事だ、それはよっぽど小さい事だけれど、私という人間を構成するひとつのきっかけだったんじゃないだろうか。
私は……今の私は、小説を書きたくない。
何故か、それには様々な原因と、色んな理由がある。だがそれをここで語るにはかなり文量がいるし、それに値する熱意があるわけでもない。それに無意味だ、芸術を、他人の為に作り出すことの意義なんて、存在するわけがない。
そういうわけで理由は伏せるけれど、兎に角私は小説を……いや、小説を含むエッセイ的な文章を、書く事を辞めた。
一言付け加えるなら、それはあまりにも無意味で、あまりにも苦痛に感じたから、だ。
誰も私を理解してくれない。
誰も私のことを……好きになってはくれない。
当時の小学3年生の私は、一番最初に書いた小説を父親に見せた。十数枚の作文用紙を、父はしっかりと読んでくれた。その間の私の心境は筆舌にしがたいほど苦しくて……嬉しくて……。
読み終わった後父は、感想を述べた。良いところと悪いところを分けて、私に言った。それは私の望むような言葉ではなかったと思う。当時の私はただ、「面白かった」「これからも小説を書きなさい」と言ってほしかったのだと思う。だからちょっと拍子抜け、みたいな感覚を覚えた、その時の私は。
でも今思えば、父は、私をいっぱしの小説家と認めて、私の小説を批評してくれたんだと思う。子供が書いた落書きみたいな文章だ……お世辞にもそれは、「小説」と謳い値段を付けるほどの価値はない。ゆえに「よく頑張ったね」と褒めてやるのが父親のすべき定石だ。が……父は私を手放しに誉める事はせず、一つの作品として評価をした。それが父の愚かさによるものか、賢しさによるものかは分からないけれど(きっと前者だと思う)、でもそれは……その後の人生に影響を、遺恨を残したと思う、私の人生に。
私は、その時嬉しかったんだ。でも同時に、拍子抜けもした。
私の脳内で起こる、恐ろしいほどの強大な物語の台風が、こんなにも他人に伝わらないとは考えもしなかったからだ。
こうしてある程度の年齢を経て、学んだ事がある。それは、人はどうやったって、他人の事を理解してやれないのだという事を、他人の全てに身をゆだねてやる事ができないのだという事を。
そうであるならば、私のこの苦しみは、怒りは、憎しみは、喜びは、虚ろは、嬉しさは、楽しさは、苦痛は、身体は、精神は、そして……孤独は! 一体誰が理解してくれるのだというのか!
誰も私の事を……。
だから書くべきなんだ。
ようやくその事を、私は死ぬほど理解できた。
文章を書く事を辞めた理由の一つに、誰も読んでくれないから、というのがある。この文章だって、1PVもカウントされずに、ずっと放置されるんじゃないかと思う。前の私ならそれを恐れ、嫌い、そして苦痛に感じた……。
ではこれを書いている今ではどうか?
一部分では前と同じだ。この文章はきっと誰にも読まれないだろう。あるいは誰かが読んだとしたって、すぐに記憶の濁流に飲み込まれ忘れ去られるか、「いいね」を押し個人の満足感に変換されコンテンツとして消耗されていくか。そういった類によって、この文章はデジタルの海でみじん切りに裂かれ、人々の意識に海に溶けていくのだろう。
でもそれでいいのだ。
きっと書く事、それ自体に意味があるのだ――
――だなんて、そうは思わない。
おれは、お前らを殺したい。
俺の呪いと、苦しみで、お前らの感受性に情報性のウィルスを送り込んで、俺と同じ苦しみを味合わせ、俺にこうべを垂れさせたい。「お前の事が分かったんだ、分かったんだ。分かったんだ」と心の底から思わせてやりたい。そして……。
そして……その時点で初めて、我々は抱きしめ合う事ができるのだ。
だから私は書くべきなのだ、私の世界を平和にするために。
苦しみを……私の感じるこの苦しみを、誰かに伝えようとする試みを三年続けた。それは新たな出会いを生み、または他人を失望させるつまらない遺恨を作った。それらすべてが無意味だったとは私は思わない。むしろ感謝すべき事柄まである。……でも、それによって私の空虚感は埋まらないどころか、どんどんと広がって私自身を殺そうとするまでに至ってしまった。それを許せるほど……自分が愚かだとは思わない。私は賢い、それゆえにこんな苦しみを感じてしまうのだ。
誰も、何もかも「これ」を解決してはくれない。美男美女の無償の愛も、無量大数の財産も、あるいは平均的な生活を送る事による、慎ましい生活も……何もかも、私を幸福にしてはくれない。何故ならそれらは私を褒めてはくれないからだ。誰も、私を褒める事は無い。あの時父は、私を一人の小説家として批評してくれた。それは、決して私の小説が子供にしては優れていたわけではない。何故かと言えばそれは、父もまた昔は小説家志望でもの書きをしていて、しかしその夢想をどこかの時期で辞めてしまったからだ。だから私に、遺伝子の相続としての私に! 期待と切望と、自身の悲願を勝手に押し付けるために、私を褒めたのだ。私自身への愛、あるいは私自身の作品の素晴らしさに、感銘したからではなく。自分自身の遺伝子を継ぐ者を願いとして、あるいは身勝手な独善的な願いを込めて、私を評価したから。
そんな私の苦しみを、痛みを、誰も理解はしてくれない。それは、私の伝え方が悪い、というか、そもそもとして伝えられないからだ。それは当然だ。私に従属していないものに、どうして私の事を喋れるのだ?
その私の思いを伝えるにもっとも相応しい媒体が、小説だと気付いた。現在そのことをようやく理解して、この文章を書いている。
何故小説なのだ、というのを説明するのは長くなるからまた今度の機会とする。
何のプロットも作らずにただただ書きたい事をぐちゃぐちゃと連ねてしまった。もう気力がないのでここで終わりにしようと思う。貴方の人生に幸運を、貴方の自我に祝福を。
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