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雑記:失った思い出 望郷編;20190914

※今までも酷かったですが今回は大分ライブしてしまったので、後日少し文章を直します。今までやってた改行とかの処理もできていないのでそれも後日。すみません。

 二日間のバイトが終わって、次の日の今日(九月十三日)、オフは再びやってきた。以前のオフは本当に何にもできなくて、午前中は寝てばかり、午後からやっと起き上がれるというふうに、鬱症状の極まりであった。
 
 今回はその原因と思われる「とある」薬を抜いていた。結果前回よりは少し楽な気持ちで一日を過ごす事が出来た(そうはいってもゲームしては疲れて眠って、家事をしては酒を飲んで疲れて眠って……という自堕落な生活だが)。
 その薬の副作用が抜けたのかかどうかは分からないけど、何も出来ず、焦燥感に身を焦がらせ死にたくなる一日よりはずっとマシだ。
 
 あっという間に一日が終わった。夕方ごろに母と待ち合わせをしてファミリーレストランへと行った。
 話すと長くなるのでかいつまんで話すが、母は昔に私の住む家から出ていった。そして別の家から私の生活を金銭面でサポートしてくれた。そして、私が家から出た後、精神の調子が激しく落ち込んで死のうとしていた時、母が実際に会ってくれて私の援助をしてくれるようになった。そして私は……「死んでほしくない」だなんて言われてしまったので……死ぬ事を諦めた。今は一週間に一回ほどのペースで会っている(それは私の監視の意も含まれていた。死んでほしくないからだ)。
 
 また、私の困窮がついに極まってきたので近々同居する事となった。
 
 招来としては、母と同居するなか、私は金を貯め再就活をし、春にインフラエンジニアにならなければいけないのだが、ここでは割愛しよう。
 
 ファミレスで話し合って、金が無いという事が分かり、一ヶ月と半月までの引っ越し期間の間、厳しい条件で生きていかなければいけない事が再確認された。
 私は帰り道色んな事を考えさせられた。我々はこれから一生……一生! こんな事に頭を悩ませなければいけないのだ――貯金、黒字、赤字、収入、支出、キャリア、給料、結婚、出産、その後の人生設計人生設計。
 これから一生仕事をして生きていかねばならないと考えると気がかなり滅入る。こんな事を死ぬまでやらなければいけないのだ。
 
 これを回避するにはどうすればいいか? 起業とかヒモとか割かし色々あると思うけど、それを行うためには種銭が必要だし、そうなるとやはり働かずには何も始まらないわけである。
 
 ずっと楽しい事ばかりおきてほしいと思う。それは子どものような意見だろうか、いや、僕は子どもの頃からずっと自分は大人になりたいと思っていた。早く力が欲しい、色んな事をやる為に必要な色んな能力が欲しい。そしてそれを鍛えるための社会的知識や肉体的体力、技術的ノウハウが欲しい。それを大人になる事で手に入れたかった。
 そんな事ばかり考えていた子供時代だったけど、大学に入ってから次第に、私のなんと子供たる事よ! と思い知らされてきた。自分と趣味や気が合う同年代と会えたのはとても楽しかった。でも同時に、私には社会性というものが欠如している事に気付いた。人よりも体力が少ない、ストレスがかかると元来の気性のうつ病が酷くなる。働いた経験なんて全くない。忍耐がないからすぐ逃げ出したくなる。他人の誕生日なのにプレゼントを用意しない、どうでもいいと思う……etc.
 
 
 思い返せば大学生活、私はサークル活動よりも、つまり青春よりもやるべき事がたくさんあったのだ。就労経験、アルバイト、インターン、人生設計、広い意味での就職活動……もっと社会を知っておくべきだったのだ。青春なんて社会でなんのクソの役にも立たない。仲良くしていた友達にも会えない。絶縁してしまった人も大勢作ってしまった。もう二度と会えない、恋人であってほしいと願った人にも……。
 
 ……
 
 …………
 
 ………………………………
 
 
 昨日、バイト先の職場から帰る途中、ちょっと空を見上げるタイミングが合った。それで、僕は、ふと父や祖母はどうしているだろうと思った。
 
 僕はもう家出当然の形で実家を飛び出してしまったし、仕事も偽っているので帰って色々嘘を取り繕うのも面倒だ。それに何より、彼らは僕の病気を理解してはくれなかった。
 
 そして同時に、あの時僕はどうしていたのだろうと思いだし始めた。
 
 去年の二月中旬、僕はぎりぎりになって手に入れた内定のある会社に、行くためにその前日ホテルへと泊まっていた。卒業研究関連のストレスや、前日の緊張もあって僕は、大量の酒を飲みながら全裸でアダルトテレビのチャンネルをバチバチと暇つぶしに変えていた。その時点でもう精神的に限界だったんだと思う。
 
 
 当然翌日は二日酔いで、ホテルのロビーで顔を真っ青にして、同期の二人と顔を合わせた。彼らとは当時仲が良くて、その件についてからかわれた。それは良かったのだが、彼らと話しているうちに、僕は自分があまりにも愚かである事を思い知らされたのだ。
「車は××日に納入されるから――」
「住むところの吟味については終わっていて、引っ越し会社に連絡して来月の××日にぎりぎり入居する予定――」
 僕は東京から千葉県の××市に引越さなければいけないのに、何の準備もしていなかったのである(その日物件を紹介してもらえると聞いていたから何も準備してこなかったのである)。なのに、彼らは個人的に事前調査をして、引っ越しと車の納品日まで全て管理していたのである。僕なんか普通車免許の取得も4月以降なのに。
 
 
 そして、その後向かった勤め先予定の工場で、僕は入社条件の一つであった普通車免許が入社必須条件だと初めて知る。
 
 そして、当時は教習所が苦手な事もあったので、スケジュール的にどうしても免許取得は4月以降となっていた。
 
 実質的な内定失格である
 
「大丈夫だって山科(僕の本名)。免許だってすぐとれるだろ、安心しろ」
 
 同僚((予定)元)はそう言ってくれたが、僕は頭が真っ白だった。就職できない? こんなに頑張ってきたのに?

 だが、これは僕にとってはむしろ好機であった。
 帰りの電車で僕はこう思った
 「小説家になりたい」
 そして「これはチャンスだ」と。僕が文章で生きていくための人生のターニングポイントなのだと。だから、この機会を、失敗を絶対に無駄にしてはいけないのだと、そう思った。
 
 今と思えばそれはただの言い訳だと思う。いや、半分は本当だとしても、もう半分は「自分の能力のなさ」や「精神病」「嫌な仕事に就きたくない」という事にないする言い訳であった。
 
 そして、実際に僕は何も出来なかった。現在の法律では就活浪人生は「新卒」扱いを受けているが、実際の就活はそんな事なかった。既卒はそれだけで×が付き、新卒募集枠では歯が立たず、既卒募集枠では即戦力ではないので目にもかけられず、かといってアルバイトで生きていくという選択肢は当時の僕には恐ろしくて選ぶ事が出来なかった。
 たくさんの友達も失った。2018年下半期の酒の席が原因である。
 家庭環境も最悪だった。文章を元とする会社に就職浪人すると言うと、母は許してくれたが、父は理解してくれず、激怒した。僕も酒の量が激増し、家庭内暴力へと発展した。腕には新しい傷が増え、死にたいと思う事が激しくなった。
 こんな所にいてはいけないと思い、一人で住めるところを探し、家出同然で実家を出た。手元には30万円残っていた。だが、一人暮らしも何も出来なかった。別に掃除だとかが出来ないというわけではない、収入を作る事が出来なかった。アルバイトは軒並み落ち、唯一受かったバイトも、出勤初日に倒れて行けなかったり、心を病んで就業中に泣き始めたり、働くというところから僕は不能な男だった。
 志すらも失った。文章ももう何も書けなくなって、意欲すらも失ってしまった。絵も曲も描けないし、動画も作ろうと思えなかった。スキルそのものも身体から落ちこぼれて、今の僕には何も無かった。前は少しだけ社交的だったが、その能力すらも失ってしまった。
 
 何も無い。
 
 残ったのは孤独で内気な一人の病人だ。

 ……
 
 …………
 
 ………………………………
 
 あれから僕は病院に行ったり就職支援に行ったり、アルバイト探しを本気でやって、今は何とかアルバイトを少しだけ出来た所である。続くかどうかも解らないが、客観的に見れば一歩前に出れているのだと思う。
 
 でも本当にそうだろうか。
 失った時間はもう元には戻らないのだ。
 失ったものは……友人は……あの頃の青春は……
 
 それが大人になる事だなんてありきたりな言葉を言われても、困る。僕は今でも働きたくなんてないし、こんな生活が永遠に近い時間続くだなんて思うと気が滅入る。これから僕に何が手に入れられるというんだ。これから僕が失った以上のものが果たして手に入れられるというのか、ありえない。僕のものを返してくれ、ぼくのものをかえしてください、おねがいします。本当に大切なものだったんです。
 


 すみません、雑記とはいえ簡単なプロットは書いていたのですが、今回はよく分からなくなって、涙も出てきたのでここまでに致します。

 ここまで読んでくれてありがとうございます。貴方の人生に幸運を、貴方の自我に祝福を。

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